第102話:ただいま
自室の机。一番上の引き出しに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。
金属製のレールが微かな摩擦音を立てた。薄暗い部屋の中、窓から差し込む冬の月明かりだけが、引き出しの中に静かに横たわる「それ」の輪郭を浮かび上がらせている。
湊は、濃紺の表紙をした一冊のノートを取り出した。
指先に伝わる、硬い厚紙の感触。ただの紙の束だ。
極めて論理的に分析すれば、現在の湊は「緊張」という状態にあった。呼吸が浅く、心拍数は平常時をわずかに上回っている。
このノートの余白は、来年以降も詩織と共に生活することを前提として作られている。それを、彼女が重荷だと受け取る可能性もゼロではない。
(……今さらだ)
湊は小さく息を吐き、冷たい空気を肺の奥底まで吸い込んだ。
これを伝えないという選択肢は、すでに彼の中で棄却されている。湊はノートを手に部屋を後にし、光の漏れるリビングのドアノブに静かに手をかけた。
*
湊が退出した後のリビングで、詩織は一人、落ち着かない様子で身をよじっていた。
テーブルの上には、食べかけの甘い手作りケーキと、空になった紅茶のカップ。
部屋の奥では、湊がトラックで運んできた限界ギリギリのサイズのモミの木が、LEDライトをチカチカと点滅させていた。赤、緑、金。規則的に明滅する光の波が、リビングの壁に淡い影を作っては消していくのを、詩織はぼんやりと見つめていた。
あの湊が、わざわざ自室に戻って持ってくるもの。
論理と効率の権化である彼のことだ。来年の家事当番表の改訂版か、あるいは冬を越すための実用的な防寒具のセットかもしれない。
そう思考を誘導しようとしても、立ち上がった時の湊の目が、どうしても脳裏に焼き付いて離れなかった。
いつもの冷徹な生活指導者の目ではなかった。どこか思い詰めたような、隠しきれない不器用な熱を帯びた瞳。
詩織はふとツリーの電飾から目を逸らし、自分の足元を見つめた。
フローリングの上には、毛足の長い温かなラグが敷かれている。靴下越しの足の裏から、確かな温もりが伝わってくる。
ふと、去年の今頃を思い出す。
隙間風の吹き込む、古い木造アパートの四畳半。
電気代を払う余裕すらなく、暖房は切られていた。薄いアクリル製の毛布を頭からすっぽりと被り、膝を強く抱え込んで、ただ壁の向こうから聞こえてくる賑やかな笑い声に耳を塞いでいた夜。
窓ガラスは結露で凍りつき、部屋の中で吐く息すら白かった。
胃の中は空っぽで、痛みを通り越して感覚が麻痺していた。指先は氷のように冷たく、自分の身体が自分のものではないような錯覚に陥った。寒さと空腹が通り過ぎて、ただ朝が来るのをひたすらに耐えるしかなかった。
世界中が光に包まれる日。
誰もが誰かを愛し、誰かに愛され、温かな食卓を囲んでいる日。
その巨大な光の輪の中から、自分だけが完全に弾き出されている気がした。自分は誰の記憶にも残らない透明な幽霊で、もしこのまま四畳半の部屋で凍えて消えてしまっても、明日の世界は何一つ変わらずに回り続けるのだろうと本気で思っていた。
明日が来ることが、ただただ怖かった。
――なのに。
今の自分は、どうだろう。
すぐそばで、石油ストーブの火がパチパチと心地よい燃焼音を立てて部屋を暖めている。
お腹の中には、彼が完璧な温度管理で焼いてくれたローストチキンと、湯気の立つ温かいスープが満ちている。
部屋の隅には圧倒的な存在感を放つ本物のツリーが輝き、テーブルには、少し形が崩れた不格好なケーキがある。
詩織には、この扉の向こうには、不器用で、口が悪くて、論理という分厚い鎧を着込んだ、世界で一番優しい男の子がいる。
「……夢みたい」
詩織は、両手で自分の頬を包み込んだ。
温かい。確かな体温がある。自分は幽霊なんかじゃない。
ここにいていいのだと、ここで生きて、明日を迎えてもいいのだと、彼が教えてくれた。行き倒れ同然だった自分にご飯を食べさせ、当たり前のように「生活」というものを与えてくれた。
ガチャリ、と。
リビングのドアが開く音がして、詩織は弾かれたように顔を上げた。
湊が戻ってくる。
その右手には、見慣れない一冊のノートが握られていた。
*
湊はいつもの定位置――詩織の真正面――に腰を下ろすと、少しだけ間を置き、彼女の目の前にその飾り気のない一冊を置いた。
コトリ、と木製のテーブルにノートが置かれる小さな音が響く。
「……ノート, ですか?」
詩織は目を丸くした。
それは、今まさに彼らが日々の支出を管理している「家計簿」と全く同じシリーズのノートだった。クリスマスらしいリボンも包装紙もない、あまりにも実用的で色気のない外見だ。
「最初のページを開け」
視線をわずかに逸らしたまま、湊は硬い声で告げた。
そのぶっきらぼうな響きに、詩織はゴクリと息を呑み、恐る恐るノートの表紙に手をかけた。
厚手の表紙をめくる。
真新しい紙の匂いが微かにした。
真っ白な一番最初のページには、定規で引かれた寸分違わぬ真っ直ぐな線と、活字のように几帳面な文字が、黒のボールペンで書き込まれていた。一番上から、ゆっくりと目で追っていく。
【行事費】
【誕生日】
【クリスマス】
【旅行】
季節の区切り。
自分が生まれた日。
そして来年の今日。
詩織の指先が、微かに震え始める。
胸の奥が、熱い塊でぎゅうぎゅうと締め付けられる。期待してはいけない、勘違いしてはいけないと必死にブレーキをかける理性をよそに、呼吸が浅くなっていく。
だが、ノートに書かれた文字はそれだけではなかった。
数行の空白を空けた、一番下の行。
そこに、他とは異質の、たった一つの項目が書き足されていた。
【二人でやりたいこと】
詩織の視線が、その最後の項目に釘付けになった。
瞬きも忘れ、息をするのも忘れ、ただじっと見つめている。他の項目よりも、ほんの少しだけ筆圧が強く、インクが濃く残っているその十文字を。
「来年以降の運用フォーマット……いや、来年の予定だ」
湊は小さく咳払いをし、冷めた紅茶のカップを見つめたまま言った。
「上段の四つは、時期が来れば必然的に発生する固定イベントだ。すでに過去のデータからある程度の予算編成は済んでいます。だが、一番下の項目だけは……俺一人じゃ、何を書けばいいのか分からない」
湊はそこで言葉を切り、真っ直ぐ詩織を見る。
「今後の生活において、お前が何かを望んだ時。どこかに行きたい、何かに挑戦したいと思った時は、そこに書き込め。……俺が、全部なんとかする」
静かなリビングに、ストーブの微かな燃焼音と、壁掛け時計の秒針が進む音だけが響く。
詩織は、ノートから顔を上げられなかった。
予算管理でもない。生活の維持にも必要ない。
彼が初めて、自分たちの生活の中に作った「余白」。
去年のクリスマスには想像もできなかった未来が、そこにある。
彼がどれほど悩み、自分のルールをねじ曲げて、どうやってこの一行を書き足してくれたのか。定規で真っ直ぐに引かれた線の筆圧や、丁寧に書かれた文字の跡が、視界を不意に滲ませた。
真っ白な紙面に、ポツリと小さな水滴が落ちる。
水性のインクで書かれた文字の端が、微かに滲んでいく。
「……どうかしたか」
湊が、少しだけ慌てたように身を乗り出した。
自分の差し出したものが彼女を泣かせているという事実に、目に見えて動揺している。
「やはり、急にこんな先のことまで言われても困るか。すまない、無理に今決めろという意味では――」
「違います」
詩織は首を激しく横に振り、両手でノートを大切に、誰にも渡さないとばかりに自分の胸へと抱き寄せた。
涙を拭おうともせず、くしゃくしゃに濡れた顔を上げて、湊を見つめ返す。
「違います、困るなんかじゃ、ないです……っ」
嗚咽が漏れた。
次から次へと溢れ出す涙が、ポロポロとテーブルに落ちる。喉の奥が熱く引きつって、上手く言葉が紡げない。それでも、今どうしても聞かなければならないことがあった。
「私……本当に、来年も、ここにいていいんですか」
「当たり前だ」
湊は、間髪入れずに即答した。一切の迷いもない、ただの事実として。
「共同生活の解消など、俺の長期計画のどこにも入っていない」
「私が、わがまま言って……ここに行きたいとか、このノートに書いたら……っ」
「だから、全部なんとかすると言っている。俺ができると言ったんだ、疑うな」
詩織は小さくしゃくりあげながら、何度も、何度も深く頷いた。
胸に抱きしめたノートの厚紙の感触が、ひだまりのように温かい。
ずっと欲しかったものが、今、確かな重さを持ってこの両腕の中に存在している。
「……ありがとうございます」
詩織は深く息を吸い込み、涙で濡れた顔のまま、柔らかく微笑んだ。
「こんなに嬉しいプレゼント……私、生きてて初めて、もらいました」
湊は、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。
胸の奥で激しく急き立てられていた焦燥が、ようやく静かに凪いでいく。過剰に高鳴っていた心拍も、彼女の笑顔を見てようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「……なら、いい」
湊は短くそう言うと、視線を少しだけ逸らし、手元にあった冷めた紅茶のカップに手を伸ばした。
巨大なツリーのLEDライトが、優しく二人を照らしている。
窓の外では、静かに雪が降り始めているかもしれない。けれど、この古い一軒家の中には、凍えるような寒さはもうどこにも存在しなかった。
詩織は、ゆっくりと居住まいを正した。
乱れた呼吸を整え、両手で頬の涙を拭う。
そして、照れくさそうに紅茶を飲んでいる彼を、真っ直ぐに見つめた。
「湊くん」
「なんだ」
カップを持ったまま、湊が視線だけを向ける。
クリスマスイブの挨拶には、全くふさわしくない言葉かもしれない。
けれど、それは今の詩織の、魂の底から湧き上がる言葉だった。
「ただいま」
湊はカップを口に運ぶ手を止め、静かにテーブルの上に置いた。
カチャリ、と陶器が触れ合う小さな音が、静寂に包まれたリビングに響く。
彼は少しだけ目元を緩める。
決して声を荒らげず、難しい理屈を並べることもなく。
いつものように、けれどほんの少しだけ、春の陽だまりのように優しい声で、短く答えた。
「ああ。おかえり」
時計の針が、静かに進む。
外の寒さとは無縁の、温かなリビング。
詩織は胸に抱いていたノートをテーブルに置き、開かれた【二人でやりたいこと】の真っ白な余白を見つめた。
そして、湊が先ほど使った黒いボールペンをそっと手に取る。
微かに震える指先で、最初の行に、ゆっくりと文字を書き込んだ。
湊はそれを見て、小さく息を吐く。
「……妥当な計画だ」
「でしょう?」
巨大なツリーの明かりが、二人を静かに照らしていた。




