第103話:年末
「――以上をもって、本年度の年末大掃除スケジュールにおける全タスクは終了だ。各員、速やかに通常配置へ移行せよ」
「早い……」
十二月二十八日。一軒家はすでに完璧な年末仕様だった。湊が効率的な大掃除のために召喚した春奈と矢野が、ようやく解放の時を迎えたところである。
部屋の隅にはクリスマスに湊がトラックで運んできた巨大なモミの木がまだ鎮座しているが、その足元にはすでに正月飾りの入った段ボール箱が並び、湊は鏡餅の設置日程まで厳密に管理している。
ソファに寝そべった春奈が、呆れたような声を出す。
「お前ん家の年末進行、企業かよ。正月くらいもっとダラダラ生きろよ、論理男」
「計画的なコントロールだ。ダラダラ生きるという行為には、生活リズムの崩壊というリスクしか存在しない」
フンと鼻を鳴らす湊に、詩織は苦笑いを浮かべながら冷たい麦茶を差し出した。
クリスマスの夜の張り詰めた空気は、いつの間にか、いつもの平穏な日常へと綺麗にスライドしている。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「私、出ますね」
詩織が廊下へ駆けていき、重い玄関扉を開ける。少しして、「あの、湊くん……?」と困惑した声が届いた。
湊と春奈が玄関へ向かうと、そこには詩織の背丈ほどもある特大の段ボール箱がふたつ、そびえ立っていた。
「……あ」
箱の送り主を見た瞬間、春奈が固まった。
「ちょっと待って、これ、あの店じゃん。成人式の予約が毎年秒で埋まる超有名店!」
春奈は信じられないものを見るような目で振り返った。
「お前、どうやって取ったの!?」
「予約した。予想通りのタイムスケジュールだ」
「そういう意味じゃねえ!」
湊がカッターナイフで手際よくテープを割り、段ボールを開いた。
中から現れたのは、丁寧に梱包された上質な正絹の生地。帯、長襦袢、草履、バッグ、小物類まで、一分の隙もなくすべてが揃っている。
「え……えええええええ!?」
詩織の目が丸くなった。
「これ、振袖……ですよね? なんで、どうしてうちに……っ」
「サイズ確認のための事前の試着用だ。本番は一月一日だが、万が一寸法に狂いがあれば修正の手配が必要になる」
「お前が言ったんだろう。正月に詩織がこれを着る可能性が存在すると。俺は発生確率がゼロではないイベントに対して、必要な手配をしただけだ」
*
事の発端は、数週間前の放課後だった。
詩織が先に帰宅した後のこと。湊は、用事のために居残っていた春奈と矢野を捕まえ、駅前のファミレスへと連れ込んだ。
湊はテーブルに手帳を叩きつけると、二人を真っ直ぐに見つめた。
「相談がある。……正月に、詩織が一般的な家庭で経験するはずだったイベントを再現したい」
「追加イベント? 何それ、また家事の効率化?」
「違う。初詣だ。……詩織は、昨年の正月をまともな環境で過ごせていなかった可能性が高い。栄養状態と衣服の摩耗データから、極めて困窮した生活を強いられていたことは明白だ。だからこそ、今年は世間一般における『正月の楽しみ』を経験させ、生活の質を底上げする必要がある。……具体的に、何が必要だ?」
湊のあまりの真剣さに、春奈は少し呆れたように笑い、それからぽつりと口にした。
『そういや詩織ちゃん、今年の初詣どうするんだろ。女の子だし、一回くらい振袖とか着てみたいよね』
『初詣の移動手段なら徒歩だ。着物と振袖は同一ではないのか』
『違う違う違う! 振袖! お正月に綺麗な振袖を着て歩くっていうのが、女の子にとってどれだけ特別なことか、あんた少しは勉強しなさいよ』
『袖の長さが異なる、か。なるほど』
隣で矢野が爆笑する中、湊は真面目な顔で手帳にペンを走らせていた。
『つまり、正月に詩織が振袖を着用する可能性が存在する。しかし、彼女が自発的にそれを手配するとは考えにくい』
『まあね。っていうか、今から予約しようとしても無理だよ? 何ヶ月も前から埋まるんだから』
『予約、か』
その瞬間、湊の管理欲に火がついた。
* * *
翌日、湊は単独で市内の高級レンタル衣裳店へと足を運んでいた。
『いらっしゃいませ。彼女さんの成人式のご準備ですか?』
『……いえ、重要な共同生活者のための振袖を探している。当日に不備が生じるリスクをゼロにするため、今日中に全てを確定させたい』
彼はバイト先の接客のような、非の打ち所がない丁寧な口調を維持していた。だが、その瞳だけは獲物を狙う狩人のように据わっている。
『は、はあ……?』
店員が完全に困惑する中、湊はポケットから詩織の完璧な身体測定データを記したメモを取り出した。
『身長は155センチで、靴は23.5センチです。細身の仕立てだと助かります。あと、過去のデータからして彩度の高い原色は避けてください。暖色系で、彩度を落とした桜色が理想です。……この条件で、正月も予約が空いている振袖のリストを教えていただけますか』
『……ものすごく細かく把握されているんですね』
『日常生活を維持する上での、基本的なデータですので。……あ、それよりも、この条件に合致する振袖のリストを確認してもよろしいでしょうか』
数分後、店員が提示してきた候補の中から、湊は一つの柄を指差した。
『これにします。彼女の顔立ちであれば、この淡い桜色が最も調和するはずですので。……これの手配をお願いできますか』
『かしこまりました。あの、着付けのプランはどうされますか?』
『また、素人作業による着崩れでスケジュールが遅延するのは避けたいと考えています。当日、プロによる着付けサービスが含まれる最上位プランでお願いします。費用については、一括で支払いますので』
『かしこまりました!』
* * *
「……レンタルだ。購入するよりも遥かに合理的であり、費用対効果としては妥当なラインだ」
現在に戻り、廊下で立ち尽くす詩織に向かって、湊は腕を組んでそう言い切った。
詩織は美しい振袖を見つめたまま、微かに唇を震わせている。
「私、湊くんにそんなこと一言もお願いしてないのに。なんで、そこまで……。こんな高いプラン、私には……」
「お前が言わなくても、俺が決めた」
湊は満足げにうなずくと、少しだけ声を張り上げた。
「なお、当日の一月一日にはプロの着付け師が自宅へ出張する手配も済ませてある。お前の着付けは完全にそのプロに委ねる予定だ。今日の試着はあくまでサイズ確認のためのものだからな」
「……っ、湊くん、そんなところまでっ!?」
「当然の配慮だ」
湊は少しだけ視線を泳がせ、それから、いつもより少しだけ低い、飾らない声で事実を告げた。
「去年、お前は正月を一人で過ごしたと言っていた。古いアパートで、寒さに耐えながら一日が終わるのを待っていたと」
「……っ」
「だから、今年は違う。それだけの話だ」
余計な同情もない、ただ「去年とは、俺がいるという点が異なる」とでも言うような淡々とした口調。だからこそ、その言葉の裏にある不器用な温かさが、詩織の胸の奥へまっすぐに突き刺さる。
詩織はぎゅっと拳を握りしめ、深く、何度も頷いた。
「……はい」
「よし! 話がまとまったなら試着室へゴー! ほら湊、男はリビングに戻って待機!」
空気を換えるように春奈がパンと手を叩き、詩織の背中を押して奥の和室へと連れていく。
リビングに追いやられた湊は、ソファに座り、冷めた麦茶を一口飲んだ。
「なあ」
隣に座った矢野が、ニヤニヤしながら尋ねる。
「もし詩織ちゃんが気に入らなかったらどうするつもりだったん?」
「別の候補を用意している。三パターンな」
「本気かお前……。で? 楽しみなんだろ」
「違う」
「嘘つけ」
矢野は楽しそうに肩をすくめた。
隣の和室からは、春奈の『可愛い! ほら鏡見てみ!』という明るい声や、詩織の『わぁ……』という弾んだ声が壁越しに聞こえてくる。『湊のやつ絶対固まるって』『えっ!?』というひそひそ話に、湊は無意識のうちに、テーブルの上に置かれたタイムスケジュール表の端を、指先でトントンと一定のリズムで叩いていた。
数十分後。
リビングの襖が、静かに横にスライドした。
「……お待たせしました」
静かな声と共に、詩織が姿を現す。
淡い桜色の生地に、繊細な古典柄が散りばめられた振袖。格調高く結ばれた帯が、彼女の華奢な身体を包み込んでいる。髪は軽くアップにまとめられ、うなじの白さが冬の光に映えていた。
いつもは見慣れている居候の少女が、息を呑むほど美しく洗練されてそこに立っていた。
「……」
湊は、完全にフリーズした。
手にした麦茶のグラスを静止させたまま、視線が詩織の姿に釘付けになっている。
「ほら、感想は?」
春奈がにやにやしながら急かす。
「……」
「感想!」
「……処理中だ」
数秒の深い沈黙の後、湊はようやくそれだけを絞り出した。
ゆっくりとグラスをテーブルに置くと、視線を泳がせ、首筋を気まずそうにさすりながら、極めて小さな声で告げた。
「……似合う」
「聞こえませーん」と春奈。
「再生ボタン押してもう一回」と矢野。
「二回は言わん」
湊が顔を背ける。
「ほら詩織ちゃん、今の録音しとき。家宝になるから」
「えっ、あ、はいっ!?」
春奈と矢野に容赦なく野次られ、詩織は振袖の長い袖で顔を下半分隠すようにして、耳まで真っ赤に染まっていた。
*
夜。
玄関先で、コートを着た春奈と矢野を見送る。
「今日はありがとね、奈々ちゃん、矢野くん」
詩織が深く頭を下げる。春奈は少しだけ笑って、詩織の肩を軽く叩いた。
「いい正月にしなよ。……去年の分までさ」
詩織は一瞬だけ目を見開き、それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん」
「じゃあな。よいお年を」
「よいお年を!」
騒がしかった春奈たちも帰路につき、古い一軒家にはいつもの静寂が戻っていた。
ストーブのパチパチという音が心地よく響くリビングで、詩織は試着を終えた振袖を、丁寧な手つきで返却用の箱へと畳んでいた。
「……来年も、着られるかな」
ぽつりと、本当に無意識に漏れ出た一言だった。
自分でも驚くほど自然に、その言葉の中に「来年」という未来が含まれていた。
パソコンの画面に向かっていた湊が、キーボードを叩く手を止めずに答える。
「必要なら、来年も同様の手配をするだけだ。お前のわがままを実行に移すためのリソースは、すでに確保してある」
「ふふ、ありがとうございます」
詩織は小さく笑うと、リビングの棚から濃紺の表紙のノートを取り出した。
厚手の表紙をめくり、【二人でやりたいこと】のページを開く。
そこには、クリスマスの日に詩織が書き込んだ、最初の一行が残されていた。
『来年のクリスマスも一緒に過ごす』
詩織は、湊が先ほど使っていた黒いボールペンをそっと手に取る。
そして、その文字のすぐ下に、微かに震える、けれど確かな筆跡でまた一行を付け足した。
『来年も一緒に初詣』
ノートから視線を外した湊が、その文字をじっと見つめる。それから、ふっとほんの少しだけ目元を緩めた。
「……このままだと、俺の予定表は数年先まで埋まることになりそうだな」
「約束ですよ」
詩織はボールペンを置き、花が咲くように笑った。
部屋の隅では、大掃除で片付けられなかった巨大なツリーが、正月飾りの華やかさと混ざり合って不思議なコントラストを描いている。
開かれたノートに記された、『来年も一緒に初詣』の文字。
その下には、二人がこれから一緒に書き込んでいくための真っ白な余白が、まだまだ無限に広がっていた。




