第104話:初詣
「――はい、お疲れ様でした。とてもよくお似合いですよ」
元日の朝。一軒家の和室に、プロの着付け師による柔らかな声が響いた。
姿見の前に立つ詩織は、鏡の中の自分を見て、ほうっと小さく息を吐いた。
テレビの向こう側や、街のパンフレット。
『お正月に振袖を着て初詣に行く女の子』なんて、自分とは住む世界が違う、どこか遠い他人のことだとずっと思っていた。
冷たいアパートでうずくまっていた去年の自分に教えても、きっと信じてもらえないだろう。
そんなきらきらとした世界に、今、自分が立っている。
数日前の「試着」とはまるで違う。
淡い桜色に古典柄が散りばめられた正絹の振袖は、プロの熟練した手によって、一分の隙もなく、かつ全く苦しくない絶妙な力加減で着付けられていた。
さらに、今日は事前の手配通り、ヘアセットとメイクアップも含まれている。艶やかな黒髪は上品な編み込みでまとめられ、控えめだが血色の良さを引き立てる紅が引かれていた。
「ありがとうございます。あの、全然苦しくないです」
「でしょう? 長時間歩くとお聞きしていたので、着崩れしないけれど楽なように仕上げてあります。彼氏さん……と言っていいのかしら、あの方、事前の打ち合わせで物々しいほど緻密な歩行ルートと想定時間を提示してこられたから」
着付け師がくすくすと笑いながら道具を片付ける。詩織は恥ずかしさで少しだけ頬を染めながら、「彼氏というか、保護者というか……」と口籠もった。
「詩織、準備は完了したか」
襖の向こうから、時間を計ったかのように湊の声がした。
「はい。どうぞ、入られてくださいね」
着付け師の促す声に合わせて、静かに襖が開く。
リビングから顔を出した湊は、普段通りのダークトーンの冬服の上に、防寒性の高い厚手のロングコートを羽織っていた。
彼が一歩、和室に足を踏み入れた瞬間――その動きが、ぴたりと停止した。
「……」
視線が、詩織の全身に釘付けになる。
試着の時でさえフリーズしていた湊だが、完成形を目の当たりにした今の硬直具合は、その比ではなかった。
「あの……湊くん?」
詩織が少し恥ずかしそうに袖を揺らすと、湊はハッと我に返り、誤魔化すように口元を覆って視線を逸らした。
「……システム、正常。予定時刻通りの完了を確認した」
「システムって何ですか」
「俺の脳内処理の話だ。気にしなくていい」
湊は早口でそう言うと、着付け師に向かって深く一礼した。
「素晴らしい仕上がりに、心から感謝いたします。料金は事前決済の通りですが、本日は元日の早朝から対応いただきありがとうございました。こちら、感謝の気持ちです。お納めください」と、熨斗袋に入った心付けをスマートに渡す。
着付け師を見送った後、湊はテーブルの上に並べていた「装備品」を手に取った。
「出発前に最終確認を行う。まずこれだ」
彼が差し出したのは、着物の外からは見えないように設計された小型の貼るカイロと、肌触りの良い特注の防寒インナーだった。
「本日の予想最高気温は摂氏六度。北西の風が強く、体感温度はさらに下がる。振袖は構造上、首元と手首、足元からの冷気侵入が著しい。すでに背中にはカイロを貼らせたが、追加の熱源としてこれらを携帯する」
「あ、ありがとうございます……」
差し出された大量の防寒装備を前に、詩織は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「さらに草履だ」
湊は玄関に置かれた草履を指差した。
「鼻緒が擦れて歩行困難に陥るリスクを排除するため、事前にシリコン製の保護パッドを装着済みだ。裏面には神社境内の砂利道でも滑らないよう、特殊な摩擦コーティングを施してある」
「……湊くん。これ、レンタル品ですよね?」
「現状復帰可能な加工しかしていない。問題はない」
どこまでも真顔で言い切る湊に、詩織はついに限界を迎えた。
「ふふっ……、あはは!」
堪えきれずに小さく吹き出し、それから楽しそうに声を上げて笑う。
振袖の袖をそっと抱き、お腹を押さえるようにして身をよじった。
外は寒いはずなのに、不思議と少しも寒くなかった。
「……何が可笑しい。こちらは極めて真剣にリスクマネジメントを行っているのだが」
怪訝そうに眉をひそめる湊を見て、詩織はさらにひとしきり笑ったあと、ようやく涙を浮かべた目を細めて息を整えた。
「ふぅ……、すみません。本当に湊くんらしくて。――それじゃあ、行きましょうか」
「ああ。ミッション『初詣』を開始する」
* * *
外の空気は、肌を刺すように冷たかった。
しかし、雲ひとつない冬晴れの空は高く、澄み切っている。
二人が向かったのは、市内でも有数の参拝客を誇る大きな神社だった。
最寄り駅から続く参道は、予想通り、身動きが取りづらいほどの人波で溢れかえっている。正月の浮き立った空気、屋台から漂うソースや醤油の焦げる匂い、遠くで鳴るお囃子の音。
その喧騒の中で、湊は詩織の斜め前――ちょうど人波と冷たい風を遮る位置――を、一定のペースで歩いていた。
「湊くん、人がすごいですね……」
「想定内だ。だが、現在時刻の境内における人口密度はピークに近い。はぐれるリスクが高いな」
そう言うと、湊は自分のコートのポケットから、そっと右手を出した。
そして、詩織の振袖の袖口を引っ張らないよう、彼女の手首のすぐ近く、着物の布地が余っている部分を軽く掴んだ。
「……えっ」
「牽引する。歩幅はこちらで調整するから、お前は足元だけに注意を払え」
ぶっきらぼうに言い放つ湊だったが、前を向いた彼の耳の端が、うっすらと赤くなっている。
「もう……」
詩織は小さく呟いて、困ったように眉を下げた。
そして、余っている着物の布地ごと――詩織はしっかりと、湊の手を握った。
「お、おまえ」
今度は湊が小さく息を呑み、歩みを止めて振り返る。
「はぐれたら大変ですから。……ダメ、ですか?」
上目遣いで、けれど繋いだ手にはきゅっと力が込められている。
「……リスク回避の観点から、却下する理由は存在しない」
湊はすぐに顔を背けたが、赤みは耳の端から首筋にまで一気に広がっていた。
手を繋いだという確かな事実に、詩織は思わず視線を落とし、小さく微笑んだ。
* * *
本殿での参拝を済ませた二人は、境内の一角にあるおみくじの授与所へとやってきた。
詩織が百円玉を渡し、六角形の筒を振る。カラカラという乾いた音の後、細い木の棒が出てきた。それと引き換えに受け取った紙を、二人は並んで開く。
「あ、私は『中吉』でした。ええと、『待ち人、遅れて来るが問題なし』『病気、長引くが必ず癒える』……うん、いいこと書いてあります」
詩織が満足げに頷き、隣を覗き込む。
「湊くんのおみくじ、どうでした?」
「……『吉』だ」
「普通ですね」
「普通ではない。極めて合理的かつ優秀な結果だ」
湊は真顔で、おみくじの紙を指差した。
「見ろ、『恋愛:誠意を尽くせ、必ず顕れる』とある。俺の誠意は常にお前の生活環境保全に割かれている。つまり、お前との今後の関係性において、これ以上の不確定要素は存在しないという完全な証明だ。実質的に大吉以上の価値がある」
「ふふっ、大吉以上ですか。湊くんの誠意は十分に伝わっていますよ」
何が何でも「大吉より上だ」と言い張る湊に、詩織がくすくすと笑い声を漏らした、その時だった。
「あー! いたいた! ハッピーニューイヤー!」
人混みを掻き分けて、見慣れた二つの影が飛び出してきた。
真っ赤なマフラーを巻いた春奈と、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ矢野である。
「二人とも、明けましておめでとうございます!」
詩織がパッと顔を輝かせる。
春奈は詩織の姿を見るなり、目を見開いて勢いよく駆け寄ってきた。
「ちょっと! 詩織ちゃん、めちゃくちゃ可愛いじゃん! やばっ、マジで似合ってる! ほら矢野もなんか言いなよ!」
「おー、すげえ。なんか一気に大人の女性って感じやな。湊のやつがフリーズするのも分かるわ」
「矢野。余計なことは言うな。……後で覚えていろ」
湊が低い声で睨みつけるが、矢野はニヤニヤと笑いながら湊の肩を小突いた。
「てかお前ら、さっきからずっと手ぇ握って歩いとるやん。遠くから見ててラブラブで丸わかりやったぞ。恋人同士さんは元日から熱いねぇ〜」
「……っ、誤解を招く表現を修正しろ。これは護衛だ」
湊は即答したが、その声はわずかに上ずっていた。
「境内の人口密度と、不規則な軌道で動く酔客の存在を考慮すれば、最短距離での物理的接触を遮断する配置、および緊密なホールドを維持するのは必然だ」
「出たよ理屈男。それ世間じゃただの『ラブラブなデート』って言うんだよ」
春奈が呆れたようにツッコミを入れる。
「断じて違う! これは不慮のデッドロック(衝突)を回避するための、高度な安全保障プロトコル(手繋ぎ)だ!」
「はいはい、専門用語で煙に巻こうとしない。ほら詩織ちゃん、写真撮ろ! 湊も入れ!」
わちゃわちゃとしたやり取りの中、春奈に強引に引っ張られ、三人と、少し離れてしかめっ面をする湊の四人で、スマートフォンのカメラに収まる。
そのまま、四人は自然な流れで屋台が並ぶエリアへと足を向けた。
温かい甘酒を買い、湯気を立たせながら紙コップを傾ける。
りんご飴の屋台の前で「カロリーと糖分の過剰摂取だ」と眉をひそめる湊を、春奈と矢野が「正月くらいええやんけ」といじり倒す。
詩織はその中心で、心底楽しそうに笑っていた。
それを見た湊は、甘酒を一口飲みながら小さく頷く。
十分ほど一緒に屋台を冷やかした後、春奈がふとスマートフォンの画面を見るふりをして、矢野に目配せをした。
「じゃ、うちらはこの辺で別ルート行くわ。駅前で友達と待ち合わせしてるし」
「お、おう。そうやな。じゃあな湊、詩織ちゃん。よい一年を」
あっという間に踵を返す二人。
その背中を見送りながら、詩織はふと、春奈が去り際にこちらへ向けて、小さくウインクを飛ばしたような気がした。
詩織は思わず苦笑した。
「……予定外の遭遇だったが、結果としては悪くなかったな」
隣で甘酒の紙コップをゴミ箱に捨てながら、湊がぽつりとこぼした。
「あいつらと一緒にいる時、お前、ずっと笑っていただろ。お前がそれだけ楽しそうにしているなら、予定が少し狂ったくらい、お釣りが来る」
「はい。奈々ちゃんたちに会えて、もっと楽しくなりました」
詩織が笑顔で頷くと、湊は「ならいい」と短く返し、再び歩き出した。
* * *
初詣の喧騒から抜け出し、住宅街へと続く帰り道。
夕暮れが近づき、空は少しずつ群青色へと沈み始めていた。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、道には静寂が落ちている。
吐く息は真っ白に染まり、カラン、コロンという詩織の草履の音だけが、等間隔に、心地よいリズムを刻んで響いていた。
湊は行きと同じように、風上側に立ち、詩織の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれている。
その横顔を、詩織は歩きながらそっと見上げた。
「……去年の今頃は、一人でした」
ぽつりと、静かな声で詩織は言った。
湊は歩みを止めず、無言のまま先を促すように視線だけを向けてくる。
「実家のボロボロのアパートで、暖房もまともに点けられなくて。お父さんは元日の朝からパチンコやお酒でずっといなくて……お正月らしいことなんて、何もありませんでした。ただ寒くて、早く今日という日が終わればいいのにって、冷たい部屋で毛布にくるまって震えていました」
思い出すのは、灰色に塗り潰されたような冷たい記憶。
孤独で、惨めで、明日への希望なんて一ミリも持てなかった日々。
詩織はそこで一度立ち止まり、湊へと向き直った。
「でも、今年は違います」
少しの間の後、彼女は言葉を紡いだ。
「朝起きたら、家の中が暖かくて。おせち料理があって。こうして綺麗な振袖を着せてもらって……湊くんが隣を歩いてくれて」
詩織は振袖の袖を握った。
言いたいことはたくさんあるのに、うまく言葉にならなかった。
「すごく、楽しかったです。……私、今、すごく幸せです」
真っ直ぐな、一点の曇りもない感謝の言葉。
湊は少しだけ目を丸くし、それから、困ったように視線を足元へと落とした。彼にとって、感情の乗った真っ直ぐな言葉の処理は、どんな複雑な数式よりも難解なのだ。
「……それは、良かった」
絞り出すように出たのは、そんな不器用な一言だった。
湊は少しだけ視線を逸らした。
「だから、湊くん」
詩織は、昨日リビングのノートに書き込んだ文字を思い出しながら、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
「来年も、お願いしますね」
湊は、小さく息を吐いた。
それから、いつものように冷静な、けれどどこまでも頼もしい声で、はっきりと告げる。
「当然だ。……既に計画に組み込まれている」
「ふふっ」
詩織は嬉しそうに笑い、再び歩き出した湊の隣に並んだ。
カラン、コロン。
草履の音を響かせながら、二人は並んで歩く。
冬の空には、一番星が静かに輝いていた。




