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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第105話:記録保存

 カチャリ、と鍵の開く音がして、重厚な玄関ドアが開いた。

 外の刺すような冷気から一転、あらかじめタイマーで設定されていたエアコンの暖房と、足元からじんわりと熱を伝える床暖房のおかげで、家の中はふんわりとした暖かな空気に包まれていた。


「ふぅ……」


 玄関の段差にちょこんと腰を下ろし、詩織は小さく息をついた。

 履き慣れない草履と、足袋による締め付け。それに加えて、人がごった返す参道を長時間歩いたのだ。物理的な疲労がないと言えば嘘になる。

 けれど、少し重くなった足とは裏腹に、不思議と気分は羽が生えたように軽かった。


 詩織は、隣で自身のロングコートをハンガーに掛けている湊を見上げた。


「湊くん。今日は、本当にありがとうございました」


 両手を膝の上で揃え、ぺこりと頭を下げる。

 湊はコートをクローゼットにしまいながら、少し照れくさそうに視線を逸らして口を開いた。


「俺の方こそ、人混みの中を色々と付き合わせて悪かったな。……足、痛くないか? 着物もずっと苦しかっただろ」


「はい、全然大丈夫です。本当に……すっごく楽しかったです。こんなお正月、初めてでしたから」


 えへへ、と綻ぶような笑顔を見せる詩織。

 その顔を見て、湊はまた少しだけ視線を彷徨わせ、「そうか」とだけ返した。


「そのまま座っていろ。冷えただろうから、温かいものを淹れる」


「あ、私も手伝います」


「いいから座っていろ。慣れない袖でお茶をこぼすリスクが高い。今日のお前は、その着物を汚さないことだけ考えていれば十分だ」


 湊は手で詩織を制すると、手早くキッチンへ向かい、やかんを火にかけた。

 数分後、湯気を立てるほうじ茶が入った湯呑みが二つ、リビングのローテーブルに並べられる。


 詩織はソファには座らず、床に敷かれた厚手のラグの上に正座した。振袖の帯が崩れないように、背筋をピンと伸ばして湯呑みを両手で包み込む。

 ふー、ふー、と息を吹きかけ、一口すする。香ばしいお茶の匂いと温かさが、冷えた胃の腑にじんわりと染み渡っていく。


「美味しい……生き返りますね」


 ほっと肩の力を抜いて微笑む詩織。

 向かい側に座った湊も、ほうじ茶を口に運びながら、その様子を静かに見つめていた。


 暖かなリビング。ほうじ茶の湯気。

 そして、淡い桜色の振袖を着て、柔らかく微笑む詩織。


 壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と規則正しい音を立てている。

 現在時刻、十六時三十分。

 着付け師が振袖の回収と着替えの手伝いに来る予定時刻は、十八時ちょうど。

 つまり、タイムリミットまで、あと九十分。


(……まずいな)


 不意に、湊の脳内で密かに警報が鳴り響いた。


(振袖姿の詩織が、あと一時間半で消える。……今のこの姿を何も残さずに終わらせるのは、あまりにももったいない)


 湊は、湯呑みを持ったまま固まり、食い入るように詩織の全身を見た。

 プロの技術によって完璧にセットアップされたこの『奇跡』を、何のデータも残さずに返却するなどありえない。脳内の記憶に焼き付けるだけでは足りない。人間の海馬は時間経過とともに情報を劣化させる。

 何としてでも、高精細な写真として物理的に残しておかなければ、俺の日常に一生消えない後悔が生まれる。


 ほうじ茶を飲み終え、「そろそろ着替える準備をしないとですね」と立ち上がろうとした詩織を、湊は低い声で呼び止めた。


「待て。まだ今日の用事は終わってない」


「え?」


 詩織が振り返る。

 その何気ない仕草で揺れる袖の軌道すらも、今日の彼女はどこか神聖で、湊は思わず息を呑んだ。


「着付け師が来るまで時間がある。今のうちに、写真を撮らせろ」


「写真、ですか? さっき神社で、奈々ちゃんたちと一緒に撮りましたけど……」


「あれはただの記念写真だ。俺がちゃんと撮り直したい」


 湊はそう言うと、湯呑みをテーブルに置き、大股で書斎へ向かった。

 何事かと首を傾げる詩織に向かって、彼は振り返り、極めて真顔で言い放った。


「今日のお前は、今日しか見られないんだ。だから、今のうちに記録しておかないと絶対に後悔する」


「っ……」


 あまりにも大真面目な声で告げられたその言葉に、詩織はポンッと音が鳴りそうなほど顔を赤くした。

 本人はただの「記録係」としての義務感を語っているつもりなのだろう。だからこそ、その飾らない言葉は胸のずっと奥のほうまで深く刺さる。


「急ぐぞ。日が暮れるまであと少ししかない。綺麗な自然光で撮れるうちに、ちゃんと形に残しておく」


 一人で納得して奥の部屋へ消えていく湊の背中を見送りながら、詩織は熱くなった両手で自分の頬を包み込んだ。


 * * *


 数分後。

 一軒家の縁側に続く、日当たりの良い和室。

 障子を開け放ち、冬の澄んだ夕陽が差し込む空間で、湊による緊急撮影会が幕を開けた。


「少し右だ。……あごを引いて。そのまま動くな」


「こ、こういうことですか……? なんか、すごく緊張するんですけど」


「普通にしてればいい。日常の延長線上だと思え」


「湊くんがそんな真剣な顔でカメラ構えてるのに、日常の延長は無理ですよ!」


 カシャッ、カシャッ、とスマートフォンのシャッター音が連続して響く。湊は様々な角度から、まるで精密機械の検品でもするかのような鋭い眼差しでレンズを向けていた。


「よし。……良好だ」


「……そうですか?」


「ああ。……すごく、いい」


 一切の照れもなく断言する。湊の口から「可愛い」なんて甘い単語は絶対に出てこない。けれど、その短い言葉と、ファインダーを覗き込む真剣な横顔だけで、詩織は恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。


「それじゃ、次はこれだ」


 湊は部屋の隅に置いてあった黒いハードケースを開け、巨大なレンズが装着された一眼レフカメラを取り出した。


「なんでそんなプロみたいなものまで持ってるんですか!?」


「三年前にネットで壊れたジャンク品を数千円で落札して、自分で修理した。レンズもカビが生えていた中古品を分解清掃したものだ」


「変なところで節約術と技術力を発揮しないでください!」


「家屋の構造チェックや、災害時の損壊記録用に直したに決まっている。だが、性能は申し分ない。……いい写真を撮るためだ。動くなよ」


 カシャァン、という重厚なシャッター音が和室に響き渡る。


 さらに、湊はおもむろに銀色に光る大きなシートのようなものを持ち出し、詩織に押し付けた。


「えっ、湊くん、それ何ですか?」


「レフ板代わりのアルミシートだ。防災用の保温シートだが、光の反射率がちょうどいい。これを胸の少し下あたりで、斜めに広げて持て。夕暮れ特有の顔の下半分の影をこれで飛ばす」


「私が自分で持つんですか!? 準備がガチすぎますって、恥ずかしいです!」


 顔を真っ赤にして逃げようとする詩織と、「シートの角度がずれている」とミリ単位で構図にこだわる湊。気付けば詩織は、呆れ半分、楽しさ半分で声を上げて笑っていた。


 場所を縁側に変え、庭の梅の木を背景にし、容赦なくシャッターが切られ続ける。


「湊くん、もう何枚撮りました?」


「現在、百二十八枚」


「……業者ですか」


「念には念を入れるのが俺の主義だ。データの欠損は許されない」


 そんな呆れたやり取りをしながら、縁側に腰掛けた詩織を斜め横から撮影していた時だった。


「――おかしい」


 ファインダーから目を離し、背面の液晶モニターを確認していた湊が、突然ぴたりと動きを止めた。


「どうしました?」


 湊は眉間に深いシワを寄せ、カメラの操作ダイヤルをカリカリと回し始めた。


「画像がぶれている。……いや、フォーカスは合っているはずだ」


 詩織が立ち上がり、トトトッと小走りで湊の隣に寄り、モニターを覗き込む。

 そこには、夕陽を浴びてふんわりと笑う詩織の顔が写っていた。しかし湊の言う通り、ほんのわずかだけ、輪郭がブレて滲んでいる。


「あ、本当ですね。少しピンボケしてるみたい」


「機材の不具合か……? いや、光学手ブレ補正は正常に稼働している。だとすれば、夕暮れによる照度不足が原因でセンサーが……あるいは、気温の低下によって腕の筋肉が不随意な収縮を起こした可能性が――」


 ぶつぶつと、早口で専門用語を並べ立てて原因究明を始める湊。

 けれど詩織は見ていた。

 ファインダーを覗く直前。

 傾きかけた夕陽が詩織の髪を金色に透かし、彼女がふと自然な笑顔を向けたその瞬間。

 湊がほんの一瞬だけ息を呑み、シャッターを押す指を止めていたことを。


「ふふっ」


 詩織は悪戯っぽく笑い、湊の顔をじっと下から覗き込んだ。


「本当に、原因はそれだけですか?」


「……っ」


 ピタ、と。

 湊の早口な解説が停止した。


「筋肉の収縮、なんですよね?」


「……そうだ。物理的な現象に他ならない」


 湊は頑なにカメラのモニターから視線を外さなかったが、彼の耳の端が、夕陽の赤とはまったく違う色にじわじわと染まっていくのが見えた。


 自分に見惚れて手元が狂ったなんて、認める気はたぶん一生ないのだろう。

 そんな不器用な湊の横顔を見つめながら、詩織は振袖の袖口でそっと口元を隠し、小さく吹き出した。


 * * *


 すっかり日が落ち、リビングのソファで二度目の温かいお茶を飲んでいた時のこと。

 テーブルの上で、湊のスマートフォンがブーッ、と振動した。


 通知画面が光る。隣に座っていた詩織が覗き込むと、春奈からのメッセージと写真が表示されていた。

 境内で撮った四人の集合写真だ。春奈と矢野に挟まれて楽しそうに笑う詩織。そしてその少し後ろで、なぜかカメラのレンズではなく、詩織の横顔をじっと見つめている湊の姿が、鮮明に写り込んでいた。


「あ、奈々ちゃんからですね。……あれ? 湊くん、この時どこ見てるんですか?」


「……」


 湊は無言で画面をスクロールしようとしたが、春奈からの追撃メッセージは容赦なかった。


『春奈:詩織ちゃんマジで可愛すぎ』

『春奈:てか湊、写真撮る時ずっと詩織ちゃんのこと見てて草』

『春奈:ちなみに矢野からのタレコミだけど、今日振袖の詩織ちゃん見た瞬間、湊三秒くらい完全に固まってたらしいじゃんwww』


「…………」


 リビングに、数秒の気まずい静寂が落ちる。


「……ずっと、見てたんですか?」


「誤解だ」


 湊はスマートフォンの画面を即座に伏せ、正面のテレビに視線を固定したまま言い放った。


「雑踏の中において、護衛対象から視線を外さないのは管理者として当然の行動だ。他意はない」


「でも、三秒固まってたって……」


「普段と著しく異なる視覚情報に対し、状況を正確に把握するための観察時間だ。安全確認において三秒は妥当なタイムロスだろう」


 どこまでも苦しい言い訳を並べる湊。


「あははっ! ふふっ、あはははは!」


 ついに詩織は限界を迎え、お腹を押さえてソファの上で笑い転げた。


「笑うな。事実無根のゴシップだ」


「だって、ふふっ……湊くん、本当に……っ」


 涙目になりながら笑う詩織を見て、湊は大きなため息をつき、それから諦めたように小さく息を吐いた。


 * * *


 外の空はすっかり暗くなり、窓ガラスには夜の闇が張り付いていた。

 時計の針は、十七時五十分を指している。


 あと十分で、約束の時間だ。


 ピンポーン、と。

 少し早めに、玄関のチャイムが鳴った。


「……来られたみたいですね」


 詩織はソファから立ち上がり、自分の振袖の袖を、名残惜しそうにそっと撫でた。

 美しい桜色の絹。緻密な刺繍。

 今日一日、自分を魔法にかけてくれた特別な衣装。


「終わっちゃいましたね」


 ぽつりと詩織は言った。

 寂しさがないと言えば嘘になる。夢から覚めるような、少しだけ胸の奥が冷たくなる感覚。


 しかし、湊は立ち上がると、手に持っていた一眼レフのモニターを詩織へ向けて見せた。


「終わっていない」


「え?」


 モニターの画面には、縁側で照れくさそうに笑う詩織や、庭で少し澄ました表情の詩織、そして先ほどソファで笑い転げていた時の自然な笑顔が、何枚も何枚も保存されていた。


「記録は残った」


 湊は、静かな声で言った。


「これを見れば、今日という一日は消えない」


「湊くん……」


 モニターの光に照らされた湊の顔は、いつものように理屈っぽくて、真面目で。

 湊はカメラをテーブルに置き、少しだけ視線を逸らして、独り言のように呟いた。


「それに……来年も、また撮ればいい」


 それは、不器用な彼なりの、精一杯の未来への約束だった。


 詩織は目を丸くし、それから、今日一番の輝くような笑顔を見せた。


「……はいっ」


 玄関のチャイムが、もう一度鳴る。

 詩織はそのまま、足取りも軽く玄関へ向かった。

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