第106話:共有フォルダの管理者権限
冬休みも残りわずかとなった、一月上旬の午後。
あらかじめタイマーで設定されていたエアコンが、リビングを心地よい温度に保っている。湊は一人掛けのソファで技術書を読み、詩織は向かいの長椅子でクッションを抱えながらスマートフォンを眺めていた。
どこにでもある、穏やかで平和な冬の日常。
しかし、その静寂は、テーブルの上に置かれた詩織のスマホが発した短い通知音によって破られた。
「あ、奈々ちゃんからですね。グループトークにメッセージが……」
画面を確認した詩織が、ふちが丸くデザインされたメッセージウィンドウを読み上げる。
『春奈:暇人どもにお知らせ。グループの共有アルバム更新するから、各自持ってる写真送れ』
「……嫌な予感しかしない」
湊は読んでいた技術書から視線を上げず、眉間を深く寄せて低い声を出した。
「でも、確かに最近アルバムの追加してませんね。最後に更新したの、秋くらいかも」
「追加などしなくていい。データの肥大化はストレージの無駄遣いだ」
「えー、せっかくの思い出じゃないですか」
詩織が唇を尖らせた直後、ピコン、とさらに春奈から追撃のメッセージが届いた。
『春奈:ちなみに現在のアルバム収録数』
『春奈:・体育祭』
『春奈:・夏祭り』
『春奈:以上。少なすぎワロタ』
「待て」
湊が本を閉じ、ついに顔を上げた。
「少ないですね」
「少ない方がいい。機密情報の漏洩リスクは最小限に留めるべきだ」
湊がもっともらしい理屈を並べたその瞬間。
画面が突如として切り替わり、春奈からのLINEグループ通話の着信画面が表示された。詩織が「わっ」と驚きながら通話ボタンをタップし、スピーカーモードに切り替える。
『ヤッホー! はい、アルバム更新会議始めるよー!』
リビングに、春奈の元気すぎる声が響き渡った。
「お前、暇なのか」
『暇じゃないけど、こういうのは勢いが大事なの。ほら、湊もスマホ開いて共有アルバム見なさい。まずは第一部、修学旅行編から行くよ!』
「却下だ。すでに各々の端末に保存されているデータを、わざわざクラウド上で共有する必要性が――」
『湊に決議権なし。はい、私が持ってる写真アップしまーす』
春奈の宣言とともに、アルバムに新しい写真が次々と追加されていく。
* * *
【第一部:修学旅行編】
「まずこれ。修学旅行の初日ね」
スマホの画面に表示された写真1。
それは、広大で複雑な構造をしている沖縄那覇空港のシーサーの前で、渋い顔をして詩織と並んでいる湊の写真だった。
「ふふっ、湊くん、シーサーと同じくらい険しい顔してますよね。私、この写真好きです」
「削除だ。俺は石像を威嚇していたわけではない。沖縄の強烈な紫外線から護衛対象であるお前を庇うため、最適な太陽角を計算していただけだ」
『空港内のシーサー前で紫外線対策とか理屈が苦しすぎる。完全に顔面勝負してたでしょ。採用!』
春奈の無慈悲な声とともに、写真のステータスが確定する。続いて表示された写真2。
今度はちゅら海水族館の巨大水槽の前。頭上を泳ぐジンベエザメのあまりの大きさに圧倒され、口を半開きにして完全にフリーズしている湊の姿だった。
「保存の必要性がない。規格外の巨大生物に対し、脳内の情報処理プロセスが一時的にキャパシティを超えただけだ」
『最高。これ今年のベストショット候補ね』
「あははっ! 湊くん、ジンベエザメに食べられそうな顔してますよ!」
詩織がソファの上でお腹を抱えて爆笑する。湊は苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。
「次、写真3。旅館で撮ったやつ」
画面に映し出されたのは、夜のホテルの廊下。少し薄暗い照明の下で、浴衣姿の詩織が振り返り、カメラに向かって柔らかく微笑んでいる写真だった。お風呂上がりなのか、ほんのりと頬が赤く染まっている。
「これは非公開データだ」
湊が即座に身を乗り出し、画面をスクロールして隠そうとした。
「え? なんでですか? ちゃんと綺麗に撮れてるのに……」
「非公開だと言っている。コンプライアンス上の問題がある」
『おおー、湊が焦ってるー』
スピーカー越しの春奈が、ニヤニヤとした声で茶化す。
「?」
「……とにかく、この写真は却下だ」
首を傾げる詩織の横で、湊の耳の端が少しだけ赤くなっていた。
すると、春奈が容赦なく爆弾を投下する。
『詩織ちゃん、その写真撮った時さ。湊、ファインダー覗いたまま「……」ってなって、しばらくシャッター押さなかったんだよ。完全に見惚れてたね、あれは』
「なっ……! 貴様、事実無根の作り話を……!」
「あははははっ! 湊くん、また固まってたんですか?」
詩織はソファの上で笑い転げ、湊は耳まで真っ赤にして沈黙するしかなかった。
* * *
【第二部:ハロウィン編】
『はい次、第二部行くよー。ハロウィン編!』
画面に表示されたのは、見慣れたリビングのローテーブルに鎮座する、あの巨大な陶器のカボチャランタンだった。
シートの上に生まれた奇妙な同居状態を思わせる、そのカボチャの後ろで、なぜかエプロン姿のまま腕を組み、極めて真顔でカメラを見据えている湊の姿。
『ねえ、今見返しても思うんだけど、あの巨大カボチャ本当に邪魔だったよね。なんであれ買ったの?』
「小型のものでは象徴性が不足していた。一点突破による効率的な空間制圧を意図した結果だ」
『意味不明。ただの鈍器じゃん』
春奈の的確なツッコミをスルーし、画面は次の写真へ。
そこには、矢野が持ってきた百均の猫耳を頭に乗せられ、顔を真っ赤にして恥ずかしがっている詩織の姿が写っていた。
「ああっ、もう! 奈々ちゃん、その写真は消してくださいって言ったじゃないですか!」
『無理。可愛すぎるから永久保存版』
さらに次の写真。
今度は、詩織がチョコクッキーを湊に手渡している瞬間だった。ランタンの灯りに照らされた詩織の自然な笑顔と、それを受け取りながら、少しだけ視線を逸らしている湊の顔。
「……こんな写真は記憶にない」
『嘘つけ。詩織ちゃんにクッキーもらって、この時湊、完全に照れてたでしょ』
「ふふっ、湊くん、あの時二枚目も食べようとしてましたよね」
「採用不可だ。塩分と糖分の過剰摂取を危惧し、視線を外してカロリー計算をしていただけだ」
『採用! 言い訳が苦しすぎる』
春奈の独裁により、アルバムの枚数はどんどん増えていく。
* * *
【第三部:クリスマス編】
『さあ、ここからが本番だよ。クリスマス編!』
表示された瞬間、そのスケールの違いに春奈が声を上げた。
画面に大写しになったのは、リビングの天井に届きそうなほど巨大な、本物のモミの木の写真だった。
『ねえ、このツリー何!? デカすぎて部屋の縮尺バグってない!?』
「本物の生木だ。クリスマスというイベントの象徴性を担保するため、空間クリアランスを十センチに設定し、効率を最大化した結果だ」
『空間効率じゃなくて空間の占有でしょ! 相変わらず極端だなー』
春奈の呆れた声をスルーし、画面は次の写真へ。
それは、側面のクリームが少し波打った不格好な手作りケーキと、それを前にして照れくさそうに笑う詩織の写真だった。
『あ、詩織ちゃんの手作りケーキだ! どうせ湊のことだから、「小麦粉の原価が〜」とか理屈こねて素直に喜ばなかったんでしょ?』
「……」
「ふふっ。それがですね、湊くん、『今まで食べたどのケーキよりも価値がある』って言ってくれたんです!」
『は!? あの湊が!? ウソでしょ!? 脳みそバグった!?』
スピーカー越しに春奈が驚愕の叫び声を上げる中、湊は極めて真顔でスマートフォンに向かって言い放った。
「バグではない。事実に基づく客観的な評価だ」
『客観的!? どこが!』
「原材料費や市場価格の問題ではない。あれは詩織が俺のために、多大な時間と労力を投資して生成した成果物だ。……俺にとっては、それだけの価値があった。それだけのことだ」
一切の照れもなく、堂々と断言する湊。
数秒の沈黙の後、画面の向こうから春奈の呆れ果てた声が響いた。
『……うわぁ。こいつ、真顔で居直りやがった……』
「居直ったわけではない。論理的な――」
『聞いてるこっちの砂糖の致死量が超えそうなんだけど! 詩織ちゃん、よくこんな甘ったるい空間で平常心保ってられるね!?』
「ふふっ、あははははっ!」
顔を真っ赤にして笑い転げる詩織の横で、湊は「なぜ事実を述べて非難されるのか」と不満げに腕を組んでいた。
商用化された狂騒への苦言が始まるかと思いきや、春奈が何かに気付いたように声を上げた。
『あれ? っていうか次の写真、これ部屋の明かりが朝の光じゃない? ツリーの電飾も消えてるし』
スワイプされた次の写真。
それは、クリスマスの翌朝、リビングの柔らかい冬の光の中で、まだ少しだけ目を腫らした詩織が、あの「濃紺のノート」を愛おしそうに両手で胸に抱きしめ、カメラに向かってはにかむように笑っている写真だった。
『何これ! 詩織ちゃん、まだちょっと目が赤いのに、その事務用ノートを宝物みたいに抱きしめて超いい笑顔じゃん! ちなみに撮影者は当然、湊よね?』
「っ……それは非公開データだ。直ちに削除しろ」
湊が即座に身を乗り出し、スマートフォンを奪い取ろうとする。
「え? なんでですか? 湊くんが『今後の運用計画のために、ノートと管理者の対比記録を残す』って言って、自分でスマホ構えたんじゃないですか」
『あははは! 記録とか言いながら、自分のスマホに保存してたんだ! 待って、よく見たらこの写真、後ろの窓ガラスにスマホ構えてる湊が写り込んでるけど……』
「消せ。今すぐだ」
『めっちゃくちゃ優しい顔して笑ってんじゃん!!』
「なっ……!」
図星を突かれた湊の動きが、完全にフリーズした。
『完全に彼女にデレデレの彼氏の顔! 何この顔! いつもの鉄仮面どこ行ったの!? 永久保存決定!!』
「消せ。それは光の屈折による光学的な錯覚だ」
「ふふふふふっ」
真っ赤になって言い訳をする湊の横で、詩織は悪戯っぽく彼を下から覗き込む。
「……錯覚、だったんですか?」
「……」
限界に達した湊は、自らのスマートフォンを取り出すと、親指を高速で動かしてテキストを打ち込み、グループLINEに送信した。
『阿久津湊・観測メモ:冬馬詩織が笑いすぎている。原因は春奈。日常における平穏な環境が著しく阻害されており、非常に迷惑』
久しぶりに飛び出した伝家の宝刀『観測メモ』。
それを見た詩織は、さらにお腹を抱えて笑い転げた。
「絶対違いますよね? 照れ隠しですよね?」
「事実に基づいた正確な記録だ」
* * *
【第四部:正月編】
『じゃあ、最後。ついこの間の正月編ね』
画面が切り替わり、つい先日神社で撮った写真が並ぶ。
淡い桜色の美しい振袖を着た詩織の写真。
『この振袖の写真、マジで最高だよねー。私が「女の子にとって振袖は特別」って教え込んだら、次の日には最上位プランで一括決済してきたんだから。湊の行動力、たまに変な方向に爆発するよね』
「……レンタルだ。発生確率がゼロではないイベントに対して、必要な手配をしたまでだ。費用対効果としては妥当なラインだ」
『はいはい、そういうことにしてあげる。――で、問題は次からの「手繋ぎ護衛シリーズ」ね』
ニヤニヤとした春奈の指によって、写真がスワイプされる。
それは、参道の凄まじい人混みの中で、湊が詩織の振袖の袖口ではなく、その小さな手をしっかりと包み込むようにして握り、前を歩いている後ろ姿の写真だった。
「削除しろ。何度も言っているが、それは不慮のデッドロック(衝突)を回避するための、高度な安全保障プロトコルだ。境内の人口密度と、不規則な軌道で動く酔客の存在を考慮すれば、緊密なホールドを維持するのは必然――」
『はい出た! 専門用語で煙に巻こうとしない! 第一部の那覇空港じゃ「紫外線対策」とか言ってたくせに、今度は「酔客対策」ですか? 屋内でも屋外でも、あんたの理屈は苦しすぎるんだよ!』
「なっ……!」
第一部でのツッコミを綺麗に回収され、湊の言葉が詰まる。さらに次の写真が表示された。おみくじの紙を広げて、大真面目な顔で詩織に何かを説き伏せている湊の姿。
『あとこれ! 詩織ちゃんから聞いたよ。おみくじに「誠意を尽くせ」って書いてあったからって、「俺の誠意は常にお前の生活環境保全に割かれているから、この結果は実質大吉以上だ」とか言って居直ったんだって?』
「……事実に基づく完全な証明だ。異論は認めん」
『だから真顔で居直るなっての! どんだけ詩織ちゃんに対して誠意尽くす気満々なのよ!』
「あははははっ!」
詩織は再び大爆笑し、湊は首筋を気まずそうにさすりながら、完全に観念したように視線を落とした。
画面に映る最後の一枚は、参道の少し離れた位置から撮られた写真だった。
人の波の中で、振袖姿で前を歩く詩織。
その後ろ姿を、立ち止まってじっと見つめている湊。
その眼差しは、言い訳の余地がないほどに、ただ純粋に、彼女の美しさに惹きつけられている男の顔だった。
『この時も、完全に見惚れてたよね』
「……」
『否定しないんだ』
いつもなら「安全確認だ」「護衛対象からの視界の確保だ」と即座に理屈を並べるはずの湊が、スマートフォンを見つめたまま、ピタリと動きを止めていた。
「ふふっ、もう隠さなくていいですよ?」
詩織が嬉しそうに微笑みかける。
数秒の沈黙の後。
湊は、観念したように小さく息を吐き、視線を逸らしてポツリと呟いた。
「……綺麗だった」
ピタ、と。
今度は、詩織の動きがフリーズした。
まさかここでストレートに認められると思っていなかったのだろう。詩織の顔が、振袖の時よりもさらに真っ赤に染め上がっていく。
『っ……あはははははっ!! 湊がデレた!! 詩織ちゃん完全にフリーズしてるし!! 最高!!』
スピーカーの向こうで、春奈が腹を抱えて笑い転げている音が聞こえる。
「だから、載せるなと言っている」
湊は真っ赤になった耳を隠すように、片手で顔を覆った。
* * *
通話が終わり、リビングに再び静寂が戻った。
テーブルに置かれたスマートフォンの画面には、春奈の暴挙によってページ数が倍増した共有アルバムが表示されている。
「……いっぱい、増えましたね」
ソファに並んで座り、詩織がアルバムをスクロールしながらぽつりと呟いた。
修学旅行の沖縄。
ハロウィンの巨大カボチャ。
クリスマスの巨大ツリーと、濃紺のノート。
そして、お正月の振袖。
たった数ヶ月の間に、二人の間には信じられないほどの「記録」が蓄積されていた。そのどれもが、湊の理屈っぽい顔と、詩織の笑顔で溢れている。
「……そうだな」
「来年も、増やしましょうね」
詩織が画面から目を離し、湊を見上げて微笑んだ。
「その予定だ」
「再来年も、その次も」
「……その予定だ」
詩織が嬉しそうに笑う。
つられて、いつもは仏頂面の湊の口元も、ほんの少しだけ柔らかく綻んだ。
これからもずっと、このアルバムのページは増え続けていく。二人の未来の余白は、まだまだ無限に広がっていた。
「……さて。春奈には後で一言言っておく。……今からアルバム内の不適切データを一括削除する」
湊は自分のスマートフォンを操作し、アルバムの編集画面を開いた。
しかし。
画面上に表示されたのは、期待していた「削除」のボタンではなく、無機質なエラーメッセージだった。
『アクセスエラー:この操作には管理者権限が必要です』
「……?」
湊は眉をひそめ、さらに操作を繰り返す。何度タップしても、同じエラーメッセージしか返ってこない。
「……何だこれは」
その瞬間、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。
春奈からの、追撃メッセージだった。
『春奈:あ、アルバムの管理者は私だから』
『春奈:湊には「閲覧のみ(View Only)」権限しか付与してないからよろしく! 削除なんてさせないよー!』
「…………」
湊は言葉を失い、スマートフォンの画面を見つめたまま完全にフリーズした。
共有アルバムは、彼女の手によって「春奈による独裁」の下、永久に保存されることが確定したのである。
「湊くん……? 何かあったんですか?」
「……春奈を、今すぐ物理的に拘束したい」
湊は深いため息をつきながら、スマートフォンの画面をパタンと伏せた。
リビングには、閲覧専用ユーザーとなった湊の静かな敗北と、それを見て楽しそうに笑う詩織の、温かな笑い声だけが響いていた。




