第91話:積み上げるということ
修学旅行二日目の朝は、本州の湿り気を帯びた空気とはまるで違う、乾いた潮風の匂いとともに訪れた。
カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。
男子部屋では、矢野がまだ布団にくるまったまま、意味不明な寝言を呟いていた。
「……紅生姜……増量……」
「朝から何の夢を見ているんだ、お前は」
俺は小さく息を吐き、スマホを見る。
詩織からメッセージが届いていた。
『おはようございます。ちゃんと起きられました』
たったそれだけの文章なのに、昨日までとは違う何かを感じた。
自分の部屋で、自分で起きて、自分で準備をしている。
当たり前のことだ。
だが、以前の詩織にとって、その「当たり前」は簡単なものではなかった。
一年前、この世界から消えようとした少女の影は、今の安らかな寝顔のどこにも見当たらない。
以前なら朝を迎えることすら苦しそうだった少女が、今は修学旅行の二日目を当たり前のように迎えている。
潮風は心地よいはずなのに、胸の奥だけが妙にざわついていた。理由は分かっている。この旅行が終われば、また逃げ場のない日常が始まるのだという事実が、どこか引っ掛かっていたのだ。
二人は手早く準備を済ませると、ロビーで待機していた班のメンバーと合流した。
矢野は相変わらずテンションが高く、昨夜のソーキそばの感想を大声で話しながら周囲を笑わせている。春奈はそんな矢野を冷ややかな目で見つつも、楽しそうに沖縄観光のガイドブックをめくっていた。美咲は詩織の髪型を褒め、二人は朝から何やら楽しげに女子トークを繰り広げている。
以前の湊なら、この騒がしさはただの「排除すべきノイズ」でしかなかった。だが今、その音の連なりは、二人が属している「現実」の背景音として、耳に心地よく響いている。
バスに乗り込み、一行が最初に向かったのは平和祈念公園だった。那覇から南へ向かう車窓からは、時折広大な海が見え隠れする。
バスガイドが歴史的な背景を淡々と説明する中、湊は隣に座る詩織の様子をさりげなく観察していた。摩文仁の丘へ近づくにつれ、窓の外を見つめる詩織の口数が少しずつ減り、その横顔から先程までの軽やかな空気が消えていく。
彼女は、この場所が抱える過去の悲劇を知っている。いや、過去という言葉では括りきれないほど、彼女の心の奥に、かつて湊と出会う前に独りで抱えていた、重苦しい孤独や閉塞感と、この静寂がどこか重なる部分があるのかもしれないと、湊にはそう見えた。
公園に到着した。あの日、無数の命が散った場所だとは到底思えないほど、海はただ穏やかに、暴力的なまでの青さを湛えていた。吹き抜ける風が、公園全体を包み込む深い静寂を運んでくる。
慰霊碑の前に立った時、詩織の指先が制服の裾を強く握りしめているのに気づいた。関節が白くなるほど、力が入っている。
湊は何も言わず、半歩だけ前へ出た。詩織と碑の間を遮るように、さりげなく立ち位置を変える。
亡くなった人々のことを完全に理解できるとは思わない。それでも、隣にいる詩織が今ここに生きていることだけは確かだった。
「……何万人もの人が、この海を見ながら亡くなったんですよね」
「ああ。そうだな」
「生きたくても、生きられなかった人たちがたくさんいた。だから、私たちが今こうして普通の顔をして立っていられるのって、すごく……すごいことなんだなって、思います」
詩織は少し目を細めた。風に流れた前髪を耳へ掛ける仕草が、どこか照れ隠しのように見えた。
午後は首里城公園へと向かった。
「うお、めっちゃクレーン動いてんな! 湊、あの重機バックに写真撮ろうぜ!」
「断る。なぜ俺がクレーン車と並ぶ必要がある」
矢野の無遠慮な声が響く。再建中の現場に足を踏み入れると、かつての栄華を誇った場所が完全に骨組みだけになり、重機が忙しなく稼働する「工事現場」のリアルな光景が広がっていた。
「……全部、なくなっちゃったんですよね」
詩織が、焼失前の写真パネルと現在の姿を交互に見比べながら呟く。
「私なら、なくなっちゃった時点で諦めてたかもしれません。前のものと同じにはならないんだから」
「でもさ」
湊は、足場を組む作業員たちの姿を見上げながら言った。
「壊れたら終わりだと思ってたんだけどな」
詩織は返事をしなかった。ただ、再建中の正殿を見上げ続けていた。クレーンの駆動音が遠くで響いている。やがて、静かに息を吐いた。
「……積み上げましょう。私たちも」
昼食は、矢野が熱望していた「ソーキそば」の店へ入った。
店内に漂う豚骨と出汁の濃厚な匂いと、店員のおばちゃんの威勢のいい声が響く。
「紅生姜は命なんだよ!」
席に着くなり、自分の丼に紅生姜を山盛りにしている矢野を、湊が横目で睨む。詩織がその赤さに困惑していると、春奈が矢野の丼から紅生姜を強奪し、そのまま美咲の丼へ放り込んだ。
「汚ねーな!」
「あんたの食べ方は品がないのよ!」
箸を振り回しながらの言い争いを背景に、詩織は大きな軟骨ソーキを恐る恐る口に運んだ。
「……美味しい」
目を丸くした詩織が、ふうっと息を吐く。
「もっと味が濃くて脂っこいのかと思ってました。お肉も、すごく柔らかい……」
スッと箸で切れるソーキを嬉しそうに頬張る姿を見て、湊は自分の丼のソーキを黙って詩織の小皿へ移した。
「えっ、湊くんの分が……」
「俺はタコライスも頼むつもりだったからな。矢野、追加で食うぞ」
「おっ、マジか! シェアしようぜ!」
結局、五人でスパイシーなタコライスの皿をつつくことになり、テーブルは騒がしさで満たされた。
昼食後は国際通りの土産物屋を冷やかした。
通りは修学旅行生と観光客で埋まり、南国特有の熱気がむせ返るようだ。
「おい見ろよ! ハブ対マングースTシャツ!」
矢野が悪趣味なTシャツを胸に当てて笑う横で、春奈はドン引きしながら棚の泡盛入りチョコレートをじっと見つめている。美咲の買い物カゴにはすでにバラマキ用のちんすこうと、シーサーの置物が放り込まれていた。湊は頭の中でその総額を計算し、密かに戦慄する。
騒がしい連中から少し離れたアクセサリーコーナーで、詩織は星の砂が入ったガラスのキーホルダーを見つめていた。
「どっちの色がいいかな……」
ピンクと青の小瓶を両手に持ち、真剣に悩んでいる。以前なら「湊くんが選んだものでいいです」と言っていたはずだ。
「迷うなら両方買えばいいだろ」
「無駄遣いになっちゃいます」
くすっと笑って、詩織は青い方の小瓶をレジへ持っていった。青い小瓶を握ったままレジへ向かう背中は、以前より少しだけ迷いが少なく見えた。
その後、班行動の締めくくりとして、一行は紅型の彩色体験施設へと足を踏み入れた。
色鮮やかな染料が並ぶ工房で、細かい模様の型に慎重に色を乗せていく。
「湊くん、そこはもっと力を抜いて……」
湊が枠をはみ出しそうになるのを、詩織がそっと筆を導く。その一方で、彼女自身は「絶対に失敗したくない」という強迫観念からか、筆を握る手に力が入っていた。
その時だった。
「うおっ、やべっ!」
隣で身振り手振りを交えて話していた矢野の肘が、詩織の腕にドンとぶつかった。
「あっ……!」
詩織の筆が横に滑り、繊細な花の模様の上に、べっとりと青い染料が走った。さらに、着ていたTシャツの袖口にまで、無惨な青い飛沫が散った。
詩織の手が止まった。次の瞬間、筆を握る指に力が入りすぎて、関節が白くなった。
失敗してしまった、台無しにしてしまったという恐怖。かつての彼女を縛り付けていた呪いが、一瞬だけ顔を出しそうになる。
「うわぁぁっ! ご、ごめん詩織ちゃん!」
矢野が慌てて立ち上がる。春奈が「ちょっと矢野ぉ!」と声を上げる中、湊は詩織の手元を覗き込んだ。
「……新種の深海魚みたいだな」
湊がぽつりと言った。
詩織はパチパチと瞬きをし、自分の描いた奇妙な青い線と、湊の顔を交互に見比べた。
「多少ズレても、味になるだろ」
その言葉に、張り詰めていた詩織の肩から、ふっと力が抜けた。
「……深海魚って、酷いです」
詩織は唇を結んで耐えていたが、やがてこらえきれずに肩を震わせ、声を上げて笑い出した。
青い線は相変わらず不格好だったが、不思議と塗り潰したくはならなかった。完璧な計画の破綻も、予想外の失敗も、今はただ、この騒がしい時間の一部だ。
「ほら、さっさと手を洗ってこい。バスの時間だ」
湊の言葉に、詩織は小さく頷いて席を立った。汚れたTシャツの袖口はそのままだったが、その足取りは驚くほど軽かった。
夕暮れが近づくにつれ、空は驚くほど鮮やかなオレンジ色に染まっていった。
バスの窓から見えるのは、一日を駆け抜けたクラスメイトたちの疲れた、しかし満足そうな顔ぶれだ。ソーキそばの追加注文も、国際通りでの寄り道も、紅型体験の深海魚も。今日という日は、予定表の外側ばかりを歩いていた。非効率で、完璧とは程遠い一日だった。
窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ緩んでいることに気づいた。
ホテルで夕食を終えたあと、少しだけ周辺を散歩した。
波の音が、昼間の騒がしさを鎮めるように規則正しく響いている。夜空を見上げると、本州の光害にまみれた空とは違い、吸い込まれるような闇の中に無数の星が散らばっていた。
「あんなに星があるのに、東京じゃ全然見えませんね」
詩織が空を見上げたまま呟く。
「街の明かりが邪魔だからな」
しばらく波の音だけが二人の間を埋めた後、詩織がぽつりと口を開いた。
「……私、本当は、沖縄に来るの、すごく怖かったんです」
湊は黙って彼女の横顔を見た。
「みんなと同じように笑えるか。迷惑をかけないか。……途中で、息ができなくなっちゃうんじゃないかって」
彼女の声が、微かに震えている。
「でも、今日一日、ずっと笑ってました。矢野くんたちがいて、湊くんがいて……服が汚れても、なんだかおかしくて」
何かを堪えるようにギュッと目を瞑った拍子に、涙がひとつ頬を滑り落ちた。同時に、彼女の細い肩からスッと力が抜けるのが分かった。
「……今日、ずっと修学旅行してました」
湊は、波打ち際に立つ彼女の背中を見つめ、静かに答えた。
「最初から普通だったさ。ただ、お前が忘れていただけだ」
詩織は涙を指で拭うと、鼻をすすった。それから、振り返って湊に向かって、照れくさそうに笑いかける。
「……でも来週、小テストなんですよね」
涙声のまま冗談めかして笑う彼女に、湊は軽く吹き出した。
「赤点取ったら終わりです」
「命に関わるな」
「深刻です」
「……ま、まずは明日の水族館だな。楽しみだろ?」
湊の言葉に、詩織はパッと表情を明るくした。
「はい。とっても楽しみです」
ホテルに戻り、男子部屋へ向かう廊下を歩いていると、すれ違うクラスメイトたちが次々と声をかけてきた。
「お、阿久津! 今日は結構楽しんでたな!」と矢野が笑う。
春奈は「湊くん、ちゃんと詩織ちゃんをエスコートできた?」と揶揄う。
俺はいつものように適当に返事をした。
以前なら拒絶していたはずの距離感だった。だが今は、その程度の雑音を不快だとは思わなかった。かつては、彼らの存在そのものが自分を脅かす異物だと思っていた。だが今、彼らは自分たちが生きる日常というパズルの、欠かせないピースになっている。
部屋に入り、ベッドに沈んだ湊は、無意識にスマホを取り出した。
いつもなら開いていたスケジュール表のアプリには、一度も触れなかった。そのまま画面を消す。
明日は明日でいい。
そう思えたのは、初めてだった。




