第92話:自由と、その先の海と
フロントガラスの向こうに広がっていた青い海が、徐々に防風林の濃い緑に遮られていく。大型の貸切バスがゆっくりとエアブレーキの音を響かせ、海洋博公園の広大な駐車場に滑り込んだ。
プシュウ、とドアが開く。エアコンの効いた快適な車内からアスファルトの上へ一歩踏み出した途端、日差しが肌を灼いた。潮の香りを多分に含んだ重たい熱風が全身にまとわりついてくる。
本州のそれとは明らかに違う強烈な太陽。遠くからは絶え間なく波が砕ける音が響き、頭上では聞き慣れないリズムで蝉が鳴きしきっている。
「よっしゃあ! ハイ、ジンベエ!」
公園の入り口に鎮座する、実物大はあろうかという巨大なジンベエザメのモニュメント。その前で、矢野が自分のスマートフォンを高く掲げながら頓狂な掛け声を上げた。
「ちょっと矢野ぉ、今の掛け声で私絶対目つぶったんだけど!」
春菜が眉を吊り上げて抗議し、美咲が「阿久津くん、もっと笑って笑って! せっかくの沖縄なんだから!」と横から湊の肩を小突く。
周囲には他校の修学旅行生や、色鮮やかなかりゆしウェアを着た家族連れが溢れ、そこかしこで弾んだ声とシャッター音が鳴っていた。湊はジリジリと照りつける太陽に目を細め、顔を引き攣らせながらもなんとか口角を上げる。
そのすぐ隣で、詩織がそっと右手を顔の横に掲げ、控えめなピースサインを作った。
「湊くん、さっきの顔、すごく硬かったですよ」
「うるさい。こういう記念撮影とか、元々柄じゃないんだ」
「ふふっ。でも、ちゃんと一緒に写ってくれて嬉しいです」
からかうように笑う詩織は、海風に流れた髪を耳に掛けながら、どこまでも自然に立っていた。
湊は何も言わず、ただ短く息を吐いて歩き出す。
一行は賑やかな足取りのまま、肌を刺す熱気から逃れるように美ら海水族館の館内へと足を踏み入れた。
外の酷暑が嘘のように、エントランスを抜けた先はひんやりとした空調の風に満ちていた。薄暗い通路を奥へと進むにつれ、壁の向こう側から絶え間ない水音が響き、まるで本当に海の中へ深く潜っていくような錯覚に陥る。
色鮮やかなサンゴ礁の海を再現した浅瀬の展示を抜け、順路は徐々に光の届かない深い底へと向かっていく。
「うわ、これ猛毒持ってるんだぜ。刺されたら一発アウトだ」
危険生物の展示コーナー。青白くライトアップされた薄暗い水槽の前で、矢野がミノカサゴの棘を指差して騒いでいる。赤と白の派手な縞模様と、扇のように広がる鋭いヒレは、いかにも近づくなと警告しているようだった。
「……変ですよね。なんでこんな形になったんでしょう」
矢野たちが「うわ、キモ!」「春菜、お前の怒った時みたいだな」「はあ!?」と騒ぎながら次の展示へ向かっていく中で、詩織だけが水槽の隅に残り、岩陰にへばりつく小さな生物を熱心に観察していた。
「お前、また変な生き物見てんな」
いつの間にか姿を消していた矢野が、ペットボトルを片手に戻ってきて、呆れたように声をかける。
詩織はガラス面から顔を離すと、「だって、面白いじゃないですか」と、普通に笑って受け流した。
「見た目はすごく綺麗なのに……これも、厳しい海で生き残るための生存戦略なんですね」
「ああ。毒も棘も、伊達でついてるわけじゃない」
湊が答えると、詩織は「湊くんと一緒なら、なんだか怖い生き物も面白く見えますね」と、水槽の青い光に照らされながら柔らかく微笑んだ。
さらに歩みを進め、薄暗いスロープを下りきった先で、視界が唐突に開けた。
「黒潮の海」と名付けられた、視界に収まりきらないほど巨大なアクリルパネル。厚さ数十センチのアクリル板の向こう側で、全長数メートルにも及ぶジンベエザメやナンヨウマンタが、悠然と宙を舞うように泳いでいる。
「……すごい」
圧倒的な質量を持った水と命のうねり。ガラスに額がつきそうなほど身を乗り出し、詩織は頭上を横切るマンタを見上げていた。
水槽から放たれる深いサファイアブルーの光が、二人の顔を青く染め上げる。
「……なんだか、不思議ですね」
詩織が水槽の冷たいガラスにそっと手を触れながら言った。
「あの中にいると、地上にある悩みなんて全部、どうでもよくなっちゃいそうです。昨日あんなに悩んだり泣いたりしてたのが、嘘みたいに」
湊は彼女の隣に立ち、ゆっくりと横切っていく巨大なサメの回遊を目で追いながら頷いた。
「そうだな。この深海には、赤点も小テストもないからな」
「あはは、確かに」
詩織は楽しげに笑い、それから少しだけ声を落とした。
「……湊くんが隣にいてくれるから」
パネルの青い光を反射する瞳が、真っ直ぐに湊を見上げている。湊は小さく咳払いをし、「……はぐれないようにしろよ」とだけ返して、足早に歩き出した。
水族館の順路を抜け、再び強烈な日差しが降り注ぐ屋外へ出る。
一行が次に向かったのは、イルカショーが行われる「オキちゃん劇場」だった。青い海をバックにした開放的なプール。照りつける太陽の下、すり鉢状の観客席はすでに多くの人で埋め尽くされ、ポップコーンと潮の匂いが混ざり合った独特の空気が漂っている。
席を探す道すがら、プールの一角に、ある一つの歴史を称える特設パネルが設置されていた。
『ミナミバンドウイルカ・オキちゃん』
昨年末に静かにその生涯を閉じたシンボルの軌跡。展示された色褪せた写真の中でも、イルカは今と変わらない水しぶきを上げて、同じように飛び跳ねていた。
詩織はそのパネルの前に立ち止まり、古い写真の数々を真剣な目で見つめている。
「五十年……ずっと、この海でみんなを楽しませてきたんですね」
「ああ。沖縄の太陽みたいな存在だったんだろうな」
軽快な音楽とともに、ショーの開始を告げるアナウンスが鳴り響く。
直後、後輩のイルカたちが勢いよく水面から飛び上がり、空中で見事な弧を描いた。ザバーン、と激しい水しぶきが上がり、観客席から割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。
「……オキちゃん、きっと今もこの海のどこかから、みんなのことを見守ってますよね」
詩織は飛び跳ねるイルカたちを見つめながら、ぽつりとこぼした。
「最後まで誰かを笑顔にして……いなくなっても、こうして誰かの心の中で生き続けてる。……私も、そんな風に誰かの記憶に残る人になれるのかな」
湊は迷うことなく、横顔に向けたまま断言した。
「なれるさ。少なくとも、俺は忘れそうにないな」
「えっ……」
詩織が弾かれたように湊を見る。
耳だけだった赤みが、じわじわと首筋まで広がっていく。
「そ、そういうことは、あんまり真顔で言わない方がいいと思います……っ」
「事実を言ったまでだ」
ショーの音楽と歓声に紛れて、詩織は両手で熱を持った頬を覆い、小さく身を縮めた。
ショーが終わり、各班に与えられた自由行動の時間は残り少なくなっていた。
「おっしゃ! 次は植物園だ! 俺の洞察力に任せとけ、近道を知ってる!」
矢野がなぜかドヤ顔で息巻いて駆け出そうとする。順路通りに舗装された道を歩けばいいものを、わざわざ鬱蒼とした藪の続く裏道へ突っ込もうとする矢野の背中を見て、湊は深くため息をついた。
「お前らは勝手に迷子になってろ。俺たちはゆっくり回る」
「お? なんだよ阿久津、ついに別行動宣言か?」
「うるさい。集合時間には遅れるなよ」
にやにやと笑う矢野たちを適当にあしらい、背中を見送る。
ズボンのポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
湊は画面を見ることなく、一瞬だけ肩の力を抜いた。
そして何事もなかったようにスマホをしまう。
集合時間までは、まだ十分にあった。
熱帯ドリームセンターの敷地へ足を踏み入れると、空気は一段と湿度を増し、むせ返るような蘭の香りが鼻腔を突いた。
古代遺跡を模したような赤レンガの建造物と、頭上を覆い尽くす鬱蒼とした亜熱帯の植物たち。矢野の宣言とは裏腹に、順路を外れた散策路は完全に迷宮と化していた。
「……おかしいな。さっきもこのビクトリア温室を通った気がするぞ」
湊がパンフレットの地図と目の前の景色を見比べながら眉をひそめる。目の前には、先ほども見た気がする極彩色の花が咲き乱れていた。
隣で歩く詩織の足音が、規則正しく響いている。不思議と、苛立ちはまったく湧いてこなかった。
「ふふっ。湊くんが道に迷うなんて、すごく珍しいですね」
「笑い事じゃない。矢野のやつ、絶対適当なこと言ったな」
「でも、綺麗だからいいじゃないですか。ねえ湊くん、ここからは地図を見るの、やめてみませんか? 自分の勘だけを信じて歩くんです」
「……遭難者の発想だな」
文句を言いながらも、湊はあっさりとパンフレットを四つ折りにし、ズボンのポケットに突っ込んだ。
二人はあてもなく、木漏れ日の落ちる石畳を歩き始めた。
やがて、熱帯の木々の隙間から、天を突くようにそびえ立つ塔――遠見台が見えてきた。
「あそこまで登れば、出口がわかるかもしれない」
「行ってみましょう!」
塔の入り口をくぐり、薄暗い螺旋階段に足を掛ける。
カツン、カツンと、二人の靴音が円筒形の空間に反響する。一段登るごとに風通しが良くなり、頬を撫でる空気が冷たくなっていく。
少しずつ息が上がり始める。石造りの壁に開いた細い窓の隙間からは、高い太陽に照らされた青い海がちらちらと見えた。
上へ、上へ。二人は無言で階段を駆け上がっていく。
そして、ついに頂上の展望台へと飛び出した。
「わぁ……っ!」
一気に吹き抜ける強い海風が、詩織の長い髪を大きく揺らす。
視界を遮るものは何もない、完全な三百六十度のパノラマだった。眼下には濃密な緑の絨毯が広がり、その先には、眩いほどに輝くエメラルドグリーンの東シナ海が横たわっている。
水平線が薄く霞んでいた。
果てしなく広がる海を背に、詩織がぽつりとこぼす。
「……とっても綺麗。ずっと見ていたいです。……また、来たいですね」
湊はポケットの中で丸まった地図から手を離し、真っ直ぐに詩織を見つめた。
「……来年も、再来年も、二人で一緒に来よう」
湊の言葉に、詩織は視線を海から湊へ移す。
その瞬間だった。
「……その時は、三人かもしれませんね」
ふと口から零れ落ちた言葉。
言った本人が一番驚いたのか、耳から首筋にかけて、みるみるうちに赤く染まっていく。
「ま、待ってください、今のはその……っ!」
あわあわと両手を振り回し、今にも塔から飛び降りんばかりにうろたえる詩織。
湊は、額に手を当てて深く溜息をついた。
「……詩織」
「は、はい!」
「おまえ、大胆だな」
一拍、鼓動が遅れた。
次の瞬間、まとめて胸を叩き始める。
海風が頬を撫でた。
――が、その余韻は、塔の階段下から響いてきた声によって瞬時に粉砕された。
「三人!? 今、三人って言ったよな!?」
螺旋階段の下から、矢野の馬鹿でかい声が突き抜けてきた。
見下ろせば、矢野が興奮気味に腕を突き上げている。その横では春菜が自分の頬を両手で覆い、真っ赤になって下を向いていた。
「……もう、阿久津くんたちってば……!」
春菜はそう言いながらも、隠しきれない笑顔で横にいる矢野をちらりと盗み見た。
「田中さん、顔が真っ赤だぞ」
「うるさいわね矢野! あんたも人のこと言えないでしょ!」
美咲も「やだ、もう……進みすぎじゃない?」と、顔を両手で扇ぎながらもじもじと身をよじっている。
「お前ら……どこから聞いてたんだ!」
「全部! お前らなら、展望台くらい来ると思ったぜ!」
矢野の勝ち誇ったような叫びに、湊は舌打ちをした。
詩織は「ううぅ……」と涙目になりながら真っ赤になって湊の背中に隠れる。パニックになる詩織を見て、湊は思わず天を仰いだ。
塔の頂上に響き渡る友人たちの笑い声。沖縄の突き抜けるような青空の下、冷やかしと祝福が混ざり合った騒がしい空気が、足元からじんわりと這い上がってくる。
ポケットの中で何かが震えた気がした。
湊はそのまま階段を駆け下りた。
「……ま、まずは今のテストを乗り切るのが先だな、お前ら!」
湊は顔の熱を隠すように、声を荒らげて塔の階段を駆け下りた。
その後ろを、詩織が「待ってください湊くーん!」と笑いながら追いかけていく。
カツン、カツン。
螺旋階段に響く足音は、下へ行くほど賑やかになっていった。




