第90話:修学旅行(初日)
羽田空港の出発ロビーは、早朝から異様な熱気と喧騒に包まれていた。
天井が高く開放的なターミナルの空間に、修学旅行生特有の浮き足立った声が反響している。点呼を取る教師たちの怒声、キャリーケースがタイルの上を転がる車輪の音、数百人の高校生が放つ期待と緊張の混じった喧騒。それらがごちゃ混ぜになった空気は、ひどく密度の高いノイズとなって俺の鼓膜を叩き続けていた。
「はい、三年B組! 班ごとに並んで! 搭乗券を無くすなよ、無くしたら自腹で泳いで沖縄まで行ってもらうからな!」
担任の矢島が、手元のクリップボードを振り回しながら声を張っている。一年前の俺なら、この無秩序で非合理的な集団の渦の中にいるだけで体力を著しく消耗し、即座にノイズキャンセリングイヤホンを耳の奥まで押し込んで視界を閉ざしていたはずだ。他人の感情の波に巻き込まれることは、阿久津湊にとって最も避けるべきリスクに他ならなかった。
だが、今の俺の右隣には、自分のボストンバッグを両手でしっかりと握りしめ、少しだけ緊張した面持ちで周囲を見回している詩織の姿があった。
「……人が、すごいですね」
「学年全体だからな。他の一般客の目もある。はぐれないようにだけ気をつけろ」
「はいっ」
詩織は短く頷くと、俺の斜め後ろ、半歩分だけ遅れた位置に静かに立った。第三班の面々は矢野、春菜、美咲、そして俺たち二人の計五人。集合を終えた俺たちに課せられた次のミッションは、保安検査場を抜けて搭乗口へ向かうことだけだ。
「詩織ちゃん、飛行機初めてって言ってたよね? 酔い止め飲んだ?」
美咲が、隣から滑り込ませるようにして詩織を気遣う。詩織は「さっき飲みました。でも、ちょっとドキドキしてて……」と、小動物めいたトーンで本音を漏らした。
その光景を横目で見ながら、俺は小さく息を吐いた。うるさくて、鬱陶しくて、ひどく面倒な集団行動。だが、彼女がそうしてクラスメイトと当たり前のように会話を交わし、笑い合っている姿を見られるのなら、この騒々しい空間も、決して悪いものではないと思えた。
*
分厚い雲を抜け、機体が安定した高度に達すると、窓の外にはどこまでも続く抜けるような青空と、眼下に広がる濃い紺色の海が現れた。座席は三列シート。窓側に詩織、中央に俺、そして通路側に矢野という配置だ。
隣から、かすかに歯の根が合わないような、カチカチという小さな音が聞こえた。視線を向けると、詩織はシートの奥深くにしがみつき、爪が割れんばかりの力で肘掛けを掴んでいる。鼻先にはじっとりと汗が浮かび、呼吸が浅い。
「大丈夫か」
「……っ、は、い……でも、地面が、なくなって……重力が、喉の奥を押しつぶすみたいで……」
俺は無言のまま、彼女が死に物狂いでしがみついている肘掛けの上へ、自分の掌を滑り込ませた。強張った指先を一本ずつ静かに剥がすようにして、俺の体温の中へと閉じ込める。
冷え切った彼女の肌が俺の熱を吸い上げた瞬間、詩織の小さな肩がびくりと跳ねた。だが、すぐに拒絶ではなく、溺れる者が差し出されたロープにしがみつくような必死さで、その指先が俺の掌に深く食い込んできた。
「恐怖そのものは否定しない。だが、今ここでエンジンが爆発する確率より、俺たちが帰りのバスで居眠りして頭をぶつける確率のほうが数万倍高い。……論理的な恐怖に意味はない」
「……はい」
「高度はすでに安定している。どうしても怖いなら、到着まで目を閉じておけ」
俺が淡々と告げると、詩織は俺の掌の中でさらに強く指を握り返し、少しだけ緊張を解いたように「はい」と微笑んだ。
その時だった。
「お、阿久津。お前ら、離陸からずっと手繋いでんのな。高度一万メートルでも熱いねえ」
通路を歩いてきたサッカー部の松本が、俺たちの前で立ち止まり、ニヤニヤと笑いながらからかってきた。詩織がビクッと肩を揺らし、慌てて手を離そうとする。だが、俺はその手を離さず、冷静に松本を見上げた。
「彼女が飛行機の気圧変化とGに慣れなくて、酔いかけているだけだ。放っておけ」
「はいはい、ごちそうさま。そういうことにしておいてやるよ。あーあ、俺も沖縄で一緒に海歩いてくれる彼女欲しくなってきたわ。矢野、お前もそう思うだろ?」
「俺を巻き込むな! 俺の情緒はすでに沖縄のソーキそば(コーレーグース大量投入予定)に捧げられてるんだよ!」
松本のふざけた声が響いた瞬間、周囲の座席から「またやってるよ」と言いたげな、呆れ混じりの視線がいくつか突き刺さった。隣の席の女子がポテトチップスを囓りながら小さく吹き出し、後ろの席からは軽い舌打ち混じりの笑い声が聞こえる。彼らはすぐに、開いたばかりのガイドブックへと視線を戻していった。
「……あの、湊くん。見られちゃいましたね」
詩織が、耳の先まで赤くして視線を落とす。
「気にするな。ただの事実確認だ」
「でも……誰も、変な目で見ないんですね」
「そうだな」
一年前の俺たちであれば、奇異の目で見られ、遠巻きに噂の的にされていただろう。だが、今は違う。体育祭を経て、俺たちが互いを隠すことをやめた結果、クラスという生態系の中で「湊と詩織は、そういう距離感の二人」という認識が完全に定着していた。
腫れ物のように遠巻きにされるでもなく、異物として排除されるでもなく。ただの『面倒な距離感のバカップル』という、極めてありふれた、けれどひどく居心地の良い席がそこに白線で引かれていた。かつて他人の視線すべてを「敵意」と定義していた俺にとって、その無関心に近い温情は、奇妙なほど胸の奥を軽くさせた。
*
十月中旬。那覇空港の自動ドアが開いた瞬間、肺に流れ込んできたのは空気ではなく、熱を持った潮の塊だった。本州の梅雨とは違う、もっと生命力の強い、どこか獣じみた温かさだ。観光バスの窓にへばりつくと、外の景色が歪んで見える。
緑はどぎついほどに濃く、空は焼けるように青い。俺の分析的な脳が「気象学的・地理的条件」を論理的に整理しようとするが、その思考すらも、この亜熱帯の陽光に溶かされそうになる。
「海、本当に青いんですね……空まで溶け込んでいるみたいです」
詩織が窓に額を寄せ、息を呑む。
「沖縄の海は、珊瑚礁の影響で透明度が極めて高い。光の乱反射による視覚効果だな。……だが、そうだな。あえて言葉にするなら『痛いくらいに青い』といったところか」
俺の理屈を、今の詩織は笑い飛ばすことも、鬱陶しがることもない。彼女の瞳に、その青色が真っ直ぐに映っている。
宿泊先のホテルは、海沿いに建つ巨大なリゾート施設だった。豪華絢爛なエントランスと吹き抜けのロビー。管理が行き届いたその空間は、慣れない環境の中で過ごす俺たちにとって、数日間の拠点として十分な機能を備えていた。
部屋に入ると、図書委員の女子生徒がすでに荷物を解いていた。詩織が身を強張らせる。
「……冬馬詩織です。よろしくね」
小さな会釈。相手も微笑み返す。以前の詩織ならできなかった「社会の一員としてのやり取り」が、そこにはあった。
*
夕食バイキングの大広間は、生徒たちの熱気で溢れていた。食事が終盤に差し掛かると、詩織の指先がテーブルの下でナイロン製のポーチを何度も無意味にまさぐり、カチャ、カチャという小さな金属音を立てた。図書委員が身じろぎするたび、詩織の視線がびくりと揺れる。喉の奥が干からびたように、彼女は小さく唾を飲み込んだ。
「詩織」
「……あっ、はい」
「俺はドリンクバーへ行ってくる。お前の分も麦茶を持ってきてやる。……あ、さっきから胃が痛いと言っていただろう。沖縄の油っこい料理のせいかもしれない。俺のバッグの中に常備用の胃薬がある。今のうちに飲んでおけ」
俺が自然なトーンで告げると、彼女は俺の意図を察して小さく頷き、素早く錠剤を飲み込んだ。同席していた図書委員が心配そうに声をかけるが、彼女は「これを飲めばすぐ良くなるので、大丈夫です」と笑顔で返した。
*
夜九時。男子部屋には矢野たちが入り浸り、床に座り込んでトランプに興じていた。
「阿久津のところは、安定感えぐいよな。熟年夫婦みたいっていうか」
「……別に、普通だ」
「いやいや、冬馬さんは『絶対に落とせない高嶺の花』って扱いだったんだからな」
彼らの言葉には嫉妬や悪意はない。俺と詩織の関係は、彼らの中で完全に消化され、クラスという生態系の風景の一部として定着していた。スマートフォンが振動した。詩織からのメッセージだ。
『女子部屋、今、奈々ちゃんたちの恋バナがすごくて……楽しいです』
『同室になった図書委員の子も意外とノリノリで、私のことも色々聞かれて、ちょっと恥ずかしいです』
気付けば、画面を見たまま口角が上がっていた。
『俺の部屋にも矢野たちが入り浸っている。適当にやり過ごせ』
『消灯十分前に、部屋の外の自販機前に行け。飲み物を買ってやる』
「お、阿久津。今の彼女からのメッセージか? 顔がにやけてるぞー」
「……気のせいだ。ほら、早くカードを出せ」
*
午後九時五十分。自販機コーナーに行くと、パジャマの上にカーディガンを羽織った詩織が、窓枠に寄りかかって外の海を眺めていた。
「湊くん。お疲れ様です」
「ああ。そっちの部屋はもう落ち着いたのか」
「はい。同室の子もすごくいい人でした。私、変に緊張しすぎてたみたいです」
彼女は、自販機で買った温かいミルクティーを両手で包み込んだ。
「修学旅行、楽しいです」
「そうか」
「はい。普通の高校生になれたんだなって、実感しています」
俺たちが隠さずに踏み出したこのクラスという社会は、俺たちを異物として排除するのではなく、彼らなりの寛容さで受け入れ、その中に確かな席を用意してくれた。
「……悪い修学旅行じゃ、なさそうだな」
「はい。最高の修学旅行です。……湊くんが、一緒にいてくれるから」
俺は視線を逸らした。繋いだ手のじっとりとした温もりと、遠くの客室から漏れ聞こえるバカ騒ぎが、波の音と混ざっていく。俺はただ、そのぬるい空気の中で、自分の胸の鼓動がかつてないほど穏やかに脈打っているのを確かめていた。
旅は、まだ始まったばかりだ。その先には、彼女が十八歳になる十月十五日――修学旅行が終わってすぐの、あの運命の日が待っている。だが、今の俺たちには、どんな未来が待っていようとも、それを恐れる理由はもう何一つなかった。この夜の海に沈む未来など、俺が力ずくで書き換えてやればいい。そんな傲慢な意志が、初めて俺の胸の奥で、静かに、しかし熱く灯った。
消灯を知らせるホテルの館内アナウンスが、静かに廊下に響き渡った。




