↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

90/91

第89話:修学旅行準備

 秋の朝の空気は、少し冷たかった。

 窓を開けると、蝉の声はもう聞こえない。代わりに乾いた風が庭の木々を揺らしている。

 季節はいつの間にか夏を追い越していた。


 詩織が、学校から配られたばかりの修学旅行案内のプリントを、ダイニングテーブルの上に几帳面に広げ、何度も何度も読み直していた。人差し指の先で、文字の一つ一つをなぞるように動いている。


「……沖縄、修学旅行」


 彼女の口から漏れた声は、いつもよりわずかに半音高く、明らかな期待と、それと同量の形にならない不安が綺麗に綯い交ぜになっていた。

 三泊四日。飛行機に乗って海を渡るその旅路は、これまでこの一軒家という絶対的な安全圏の中で息を潜めて生きてきた彼女にとって、あまりにも長すぎる「外部の世界との接触」を意味していた。


「……湊くん」

「何だ」


 俺はキッチンで冷えた麦茶をガラスのグラスに注ぎながら、ゆっくりと振り返った。詩織の手元を見ると、印刷された案内プリントの端が、少しだけ強い力で握りしめられて皺が寄っていた。


「修学旅行、本当に沖縄に行くんですね」

「ああ。事前調査の段階で、学年の大半が希望したらしいからな。三年生は原則として全員参加だ」

「班決めとか、部屋割りとか、やっぱり今日あるんですよね……?」


 上目遣いで尋ねてくるその問いの真意を、俺は瞬時に理解した。

 今の詩織が最も不安に思っているのは、秘密が露見することではない。

 修学旅行の間、長時間俺と離れて過ごさなければならないことだった。


「班決めは今日のホームルームだ。部屋割りは放課後に最終調整らしい」


 俺は、いつものように静かな声で答えた。


「詩織、落ち着けばいい。何も心配するな」


 俺はグラスをテーブルの上に置き、彼女の微かに震える指先を一瞥した。

「心配するな」と言うのは簡単だ。

 だが、万が一の時の対応だけは考えておく必要がある。

 沖縄は遠い。

 頭の中で必要な手順を整理しながら、俺は小さく息を吐いた。

 ……面倒な行事だ。


 *


 四時間目の終了後、昼休み前のホームルームで、旅行代理店の担当者が教室に入ってきた。


「はい、みんな静かにしろ。自分の席につけ。これから修学旅行の自由行動における班決めを行う」


 担任の矢島が出欠簿で教卓をバンバンと叩き、あらかじめ印刷された班編成表の模造紙を黒板の真ん中に貼り出した。


 四人から五人程度で構成される班が列挙されている。その構成は、生徒の自主性を重んじるという名目でありながら、実際には学年の担当教師たちが過去の人間関係を考慮し、トラブルが起きないよう事前に計算し尽くした配置だった。大人の意図があらかじめ介入した、極めて管理された編成だ。


 教室は一気に騒がしくなった。

 海だ、水族館だと好き勝手な声が飛び交う。

 相変わらず騒々しい場所だ。

 だが今は、この程度の騒がしさなら気にならなかった。


 黒板には、教師側で事前調整された班表が貼り出されていた。

 上から順に目で追う。


『第三班:矢野、春奈、田中、詩織、阿久津』


 ――一年前の俺なら嫌がっただろう。

 「班決め」と呼ばれてはいるが、実際には教師側でほぼ決められた配置だった。

 だが今はありがたい。これ以上安全な組み合わせもない。


 その班表を見た詩織は、小さく安堵の息を吐き出し、限界まで強張っていた両肩の力をふっと抜いた。


 矢野が言葉を切り、周囲の席を見渡した。体育祭以降、俺たちを取り巻く空気は少し変わっていた。クラスメイトたちは、どこか温かい視線を向けていた。


「第三班、私も一緒みたいですね。よろしくお願いします」


 控えめに手を挙げたのは、田中美咲だった。


「あ、美咲ちゃん。一緒の班なんですね」


 詩織が嬉しそうに声をかける。


「うん。よろしくね」


 美咲が微笑むと、詩織は嬉しそうに笑った。

 俺と詩織、矢野、春奈、そして美咲。この五人の構成なら、土足で境界線を踏み越えるような余計な詮索をしてくることはない。


「よし、これで三班のメンバーは全員確定だな! 男子は俺と湊くんしかいないから、自動的に同室だな。問題は女子だよな」


 矢野がホワイトボードのプリントを見ながら首を傾げた。その横から、春奈が少しだけ困ったような顔で付け加える。


「そうなのよね。ホテルの仕様で女子は『四人一部屋』って決まってるから、うちの班の三人に、あともう一人、別の班であぶれちゃった子が入ることになる予定」


「え……」


 詩織の顔が、わずかに強張った。

 自由行動の班は完璧な理解者だけで固まった。だが、夜のプライベートな時間を過ごすホテルの部屋にだけ、まだ見ぬ「他人の視線」が一人分、滑り込んでくることになる。


「まあ、誰が入るかは今日の放課後に全体の調整で決まるらしいから。分かり次第教えるね」


 春奈が詩織の肩をぽんと叩いた。詩織は「はい、分かりました」と答えたものの、その瞳には、完全な安心から一転して、小さな緊張のさざ波が立っていた。


 *


 班決めと部屋割りの喧騒が無事に終わった後、残された放課前の時間は「持ち物チェックリスト」の確認作業に充てられた。プリントには、パジャマ、下着、洗面用具といった一般的な項目が整然と列挙されている。そのリストの最下段、太字で強調された枠の中に、『常備薬』という二文字が明記されていた。


 その単語が視界に入った瞬間、詩織のペンを握る指先が、目に見えてピタリと止まった。


「……常備薬、ですね」


 詩織は小さく呟いた。

 修学旅行では、生活のほとんどを誰かと共有することになる。

 荷物も、着替えも、夜の時間も。

 今まで当たり前だったことが、急に少しだけ気になったのだろう。


「どうした」

「いえ……ちゃんと管理しないとなって思って」

「それだけだろ」

「……はい」


 詩織は少しだけ安堵したように微笑み、再びプリントに視線を落とした。


 *


 帰りの身支度を整えてカバンのファスナーを閉めていると、春奈が待ってましたと言わんばかりの足取りで、俺たちの席のすぐ横へとやってきた。


「ねえねえ二人とも、部屋割りもだいたい決まったことだしさ? 奈々様による『修学旅行のしおり・極秘裏ルート編』、作っちゃおうかと思うんだけど!」


「極秘裏ルート編……?」

 詩織がカバンを抱えたまま、不思議そうに首を傾げる。


「そう。男子部屋の野郎どもが夜中にどんな馬鹿丸出しの話をしてるかのリーク、女子部屋の深夜のガチ恋バナの内容、あとは……」


 春奈が自分のスマートフォンをカメラモードにしたまま胸元に構え、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「阿久津と冬馬の、南国の夜のテンションにうっかり流されての甘い密会風景の隠し撮り」


「……そのスマホを今すぐ没収するぞ」


 俺が冷めた声で告げると、春奈は「横暴だー!」と大げさに両手を上げた。


「ほら見て詩織ちゃん! 独裁者がここにいるよ! 沖縄だよ? 高校生の修学旅行だよ? 何も起きない方がおかしいじゃん! 夜の開放的なテンションで、うっかり誰かに告白されちゃったり、逆に告白しちゃったりして」

「されない」

「即答だ」


 春奈は呆れたように肩をすくめて笑った。


「……な、奈々ちゃんっ! もう、変なからかい方はしないでくださいっ!」


 詩織が完全に顔を真っ赤に染め上げ、慌てて否定する。


 そのやり取りを、俺は胸の奥にある種の確かな安心感を覚えながら、静かに眺めていた。一年前の俺なら、さっさと教室を出ていただろう。だが今は違う。くだらない会話を聞いている時間も、悪くないと思っていた。


「帰るぞ。家で持ち物リストをもう一度確認しないと、矢野みたいに当日現地に到着してから下着を忘れたと大騒ぎして周囲に迷惑をかける羽目になる」

「あははっ、確かに! 矢野くん、今日も昼休みに『ソーキそばのトッピングにおける紅生姜の重要性』について熱弁してましたし、絶対何か大事なもの忘れますよ。……ふふっ、行きましょう、湊くん」


 二人で並んで教室を出ると、古い校舎の廊下にはすでに、深い夕闇が静かに立ち込め始めていた。かつては他人の目を避けるためだけの無機質な空間だったこの場所が、今は俺たちの未来へと確かに繋がっている、一本の温かい通路のように感じられた。


 *


 帰宅後。

 夕食をすべて終え、テレビの音も消した静かなリビングで、詩織は修学旅行の持ち物チェックリストを左手に握りしめ、ソファの上にちょこんと座り込んでいた。


 詩織が、プリントの項目を小さな声で読み上げながら、丁寧に畳まれた衣類を旅行用のボストンバッグの奥へと隙間なく詰め込んでいく。

 俺は、ソファの反対側に腰掛け、手元で読みかけの文庫本を開きながらも、その彼女の荷造りの様子を、視線の端で静かに見守っていた。


「あ、湊くん。絆創膏とか、万が一怪我をした時のための消毒薬って、救急箱の中にありますか?」

「医薬品の類いは、小分けにしてナイロン製のポーチに一式まとめて、すでに用意してある。お前のカバンの右側のポケットに入れておいた。持ち物リストの最下段を確認しろ」


 詩織が手元のプリントの最後の項目に目を落とし、「あ、本当だ。書いてある」と、安心したように小さく笑った。


「いつも、湊くんが私の気づかないところまで先回りして細かく準備してくれるので……私、本当に助かってます」


 その言葉には、俺に対する絶対的な信頼が含まれていた。だが、その直後、詩織は次にカバンに入れるはずのパジャマを両手で持ったまま、ふと動きを止めた。


「……湊くん。飛行機って、離陸の時どんな感じなんでしょうか。私、乗ったことがなくて」

「強いGがかかって耳が痛くなるだけだ。飴でも舐めておけ。それより気にするべきなのは、到着後のスケジュールだ」

「あ、水族館ですよね! ジンベエザメ、見たいです」

「スケジュールに入っている」

「あと、海も」

「十月だから泳ぐなよ」

「泳ぎません」

「信用できないな」

「ひどいです」


 詩織が小さく口を尖らせた後、ふふっと楽しそうに笑った。

 沖縄という未知の土地への想像が、彼女の中にある「集団行動への恐怖」を少しずつ期待で上書きしていくのが分かる。


「……でも。修学旅行に行ったら、湊くんがこうして準備してくれたことを、私、全部自分で確認して、自分で責任を持って管理しなくちゃいけないんですよね」

「そうだな」

「……大丈夫かな。私、湊くんのいない場所で、一人で、ちゃんと最後までできるかな……」


「お前なら、大丈夫だ」


 俺は、手元の文庫本をパタンと閉じた。


「忘れ物をするかもしれない」

「失敗もするかもしれない」


 詩織が不安そうにこちらを見る。


「それでいい」

 俺は短く答えた。

「今回はそういうための旅行だ」

「俺がいない場所で、自分で考えて、自分で決める」

「失敗したら、その場でどうするか考えればいい」


 少しの沈黙。


「……それだけですか?」

「それだけだ」


 俺は肩をすくめた。


「どうせ卒業したら嫌でも全部自分でやることになる。だったら今のうちに慣れておけ」


 詩織は数秒黙り込み、やがて小さく笑った。


「はい。私、頑張ります」


 彼女の手が、再び迷いのない動きでチェックリストへと戻る。その真剣な横顔からは、さっきまで彼女の輪郭を濁らせていた微かな不安は完全に消え去り、代わりに静かで確かな決意の光が宿っていた。


 一つ一つ、チェックボックスに斜線を入れながら、丁寧に荷物を確認していく。常備薬も、下着も、タオルも、カメラも。そのすべてが、彼女自身の手で用意され、彼女自身の責任において管理されるための、自立の準備だった。


 *


 夜遅く。


 詩織がすべての持ち物をカバンの中にきれいに詰め込み終わった時、リビングの壁掛け時計の針は、すでに午前零時を回っていた。

 心地よい疲労感を滲ませながら、パンパンに丸く膨らんだボストンバッグのジッパーを閉め、詩織はふと、静かで物憂げな声で呟いた。


「去年の今頃は、自分がこんな風に誰かと暮らして、学校の行事を楽しみにできるようになるなんて、想像もしていませんでした」

「そうだな」


 一年前、行き場を失って雨の降る街からこの一軒家へと命からがら逃げ込んできた彼女。あの頃の俺たちにとって世界はすべて敵だらけで、明日を無事に生き延びられるかさえ、何一つのデータも保証されていなかった。毎日が薄氷を踏むような緊張の連続だった。

 それが今、どうだ。彼女は修学旅行に参加し、信頼できるクラスメイトたちと自ら班を組み、笑顔で部屋割りを決めている。


「悪いことばかりじゃないって、今はちゃんと思えるんです」

 詩織は微笑んだ。

「湊くんがいてくれたから、ここまで来られたから」


 しばらく沈黙が落ちた。

 俺は窓の外へ視線を向ける。

 秋風が木々を揺らしていた。


「……それでも、いつかは自分で歩けるようにならないとな」

 俺が言うと、詩織は小さく頷いた。


「そうだな。少なくとも、お前が一人で歩けるようになるまでは」


 詩織が目を丸くした。

 それから、少しだけ困ったように笑う。


「私、もう歩いてますよ」

「まだ足りない」

「厳しいです」

「事実だ」


 そう言うと、詩織は嬉しそうに笑った。


 詩織は、目の前に置かれた自分のカバンを、愛おしそうにそっと撫でた。その中には、チェックリストに従って彼女自身の手で詰め込まれた、すべての品物が入っている。

 自分で確認した。自分で準備した。

 修学旅行という、高校生活最後の大イベントへ向けた、彼女なりの自立への覚悟が、そこにはぎっしりと、重い質量を持って詰まっていた。


「……楽しみです」


 詩織が小さく呟いた。

 俺は答えなかった。ただ、その声が不安ではなく期待に変わっていることだけは分かった。


 修学旅行まで、あと一週間。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。