第88話:隠さない理由
体育祭。
学校という組織が定期的に発症する、集団狂騒イベントの一種である。
非日常の熱気と無駄なエネルギーの消費が学校全体で推奨される、俺にとっては十分に忌避すべき一日だ。文化祭のような出し物の準備期間がない分、事前の被害は少ないとはいえ、炎天下の中で無意味に大声を出し、汗と砂埃にまみれて順位を競うことに何の合理性があるのか、未だに理解できない。
だが、今朝のリビングの空気は、俺のそんな冷めた思考を許してはくれなかった。
「……湊くん、おはようございます!」
洗面所から戻ってきた詩織の声は、いつもより半音高く、明らかな期待に弾んでいた。
俺はキッチンで目玉焼きを皿に移す手を止め、振り返った。
そして、一瞬だけ言葉を失った。
彼女は、すでに学校指定の体操服に着替えていた。それだけなら珍しくもない。だが、いつもは肩の背後に下ろされている艶やかな黒髪が、今日は高い位置で一つにまとめられ、綺麗なポニーテールになっていたのだ。
歩くたびに、その毛先がふわりと揺れる。
無防備に晒された白いうなじと、首筋の細いライン。初夏の朝の光が、彼女の透き通るような肌を照らし出し、いつもとは全く違う活発な印象を与えていた。
家という完全に油断した空間で、見慣れない彼女の姿を真正面から浴びせられた。
見惚れたことくらい、自分でも分かっていた。
ただ。似合うな、という一言だけが、どうしても口から出てこなかった。
「……おはよう」
喉が詰まったような声が出た。俺は慌てて視線をフライパンへと戻す。
「どうですか? 競技の邪魔にならないように、結んでみたんですけど」
詩織が、少しだけ首を傾げて、自分の結び目を指差す。
「……競技向きだな。視界も確保できるし、首元の放熱効果で熱中症対策にもなる。合理的だ」
「もうっ。またそういう理屈ばっかり」
詩織は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに楽しそうにくすくすと笑いながら、自分の分の麦茶をグラスに注ぎ始めた。
彼女が動くたびに漂ってくるシャンプーの甘い香りが、俺の冷静な思考をことごとく溶かしていった。
*
学校に到着すると、グラウンドはすでに異様な熱気に包まれていた。
赤、青、黄、白の四色の巨大なテントが設営され、万国旗が初夏の青空の下ではためいている。本部席のスピーカーからは、やけにテンポの速い行進曲が大音量で流され、グラウンドには白線が幾重にも引かれている。土埃と石灰の匂いが、夏の始まりを告げていた。
俺は、クラスの指定された応援席の、一番後ろの目立たないパイプ椅子に陣取った。
ここなら日陰だし、誰の視界にも入らない。ただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
そう思って参考書を開こうとした時だった。
「おっはよー、湊くん! 朝から特等席キープして、準備万端って感じだねぇ」
頭上から、聞き慣れた、そして最も厄介な声が降ってきた。
顔を上げると、クラスの応援用ハチマキを首に巻いた春奈が、ニヤニヤとした笑みを浮かべて見下ろしていた。その後ろには、すでに汗だくになってクラスの旗を振り回している矢野の姿もある。
「……準備も何もない。俺は競技に出ないし、ただここで時間が過ぎるのを見るだけだ。非効率な行事に体力を削る趣味はない」
俺が冷たく返すと、奈々は「違う違う」と、指をチッチッと振りながら隣の空いたパイプ椅子に腰を下ろした。
「今日は『見る』のがメインイベントでしょ? 詩織ちゃんの晴れ姿を、特等席で観測するための準備、なんでしょ。ていうか、詩織ちゃんのポニテは反則だって。朝から私まで尊死するかと思ったし」
「……嫌な予感しかしない。お前、すでにスマホのカメラ立ち上げてるだろ」
「気のせい気のせい。でも、瞬きしてると見逃すよ?」
奈々がグラウンドの方を顎でしゃくった。
そこには、第一種目の五十メートル走のスタート位置に並ぶ、詩織の姿があった。
俺は、参考書を開いたまま、視線だけをグラウンドへと向けた。
*
そういえば以前、「私、結構足速いですよ」と本人が言っていたことがあった。
半分は冗談だと思っていたが。
パンッ! という乾いたピストルの音が響き、砂埃が舞い上がった。
スタートダッシュを決めた彼女の走りは、俺の勝手な予想を裏切るほどに力強く、そして速かった。
「……速いな」
思わず独り言が漏れる。
「冬馬さん速っ!」
「嘘、めっちゃ速くない!?」
応援席にいるクラスメイトたちからも、驚きの声が上がる。
ポニーテールが、彼女のスピードに合わせて左右に大きく揺れている。顔を真っ赤にして、歯を食いしばり、一生懸命にゴールを目指して走る姿。
結果は、僅差での二位だった。
ゴールテープを切った詩織は、息を切らしながら膝に手をつき、ひどく悔しそうに顔をしかめた。だが、すぐに同じ組で走った女子たちに囲まれ、「お疲れー!」「惜しかったね!」と背中を叩かれると、顔をくしゃくしゃにして笑い、ハイタッチを交わしていた。
――楽しそうだな。
俺は、無意識のうちにそんなことを思っていた。
一年前の彼女なら、運動会なんて「目立たないように、誰の記憶にも残らないように」ただ息を潜めてやり過ごすだけの時間だったはずだ。
それが今、太陽が照りつけるグラウンドの真ん中で、友達に囲まれて、全力で悔しがり、全力で笑っている。
俺が用意した安全な檻の中ではなく、彼女自身の足で立って、この世界を楽しんでいる。
その姿が、ほんの少しだけ……いや、ひどく誇らしかった。
「……顔」
不意に、隣から春奈の声がした。
「何だ」
「今、自分でどんな顔してたか分かってる?」
「知らん」
「完全に彼氏だったよ」
「……」
「残念でした。ちゃんと撮れてます」
春奈はスマホの画面を見せびらかしながら、腹を抱えて爆笑している。
俺は反論する言葉を見つけられず、ただ耳の裏が火傷しそうに熱くなるのを感じていた。
*
昼休み。
午前中の競技がすべて終わり、グラウンドは強い日差しに照らされ、むせ返るような熱気に包まれていた。
生徒たちは三々五々に分かれ、日陰を求めて昼食を取っている。
俺は応援席のテントの奥で、家から持ってきた弁当を一人で食べ終えたところだった。気温が高く、じっとしているだけでも額から汗が滲んでくる。
「……湊くん!」
不意に、テントの入り口から声がした。
見ると、首にタオルを巻いた詩織が、小走りでこちらに向かってくる。彼女の額には汗が光り、体操服には少しだけグラウンドの土埃がついていた。
「お疲れ様です、湊くん」
詩織は俺の目の前で立ち止まると、手に持っていた冷たいスポーツドリンクのペットボトルを、スッと差し出した。
ペットボトルの表面には、無数の水滴がびっしりとついている。
「……俺は競技に出ていない。疲れるようなことは何もしていない」
「でも、ずっと外にいて暑いですから。喉、渇いてるでしょ?」
詩織は、全く悪びれることなく、ふわりと笑った。
俺は、差し出されたそのペットボトルと、彼女の笑顔を交互に見つめた。
前なら断っていた。
人前で特定の女子から飲み物を受け取る。そんな噂の種になる行動は避けていたはずだった。
だが。
目の前に立つ彼女は、周囲の視線など微塵も気にしていない。ただ、当たり前のように俺へ飲み物を差し出している。その行為を、隠そうともしていないのだ。
俺の右手は、ほとんど無意識のうちに動き、彼女の手からそのペットボトルを受け取っていた。
冷たい水滴が、熱を持った掌に心地よく張り付く。
「……ありがとう」
短く答えた瞬間。
「おー!!」
「仲良いなぁ、お二人さん!」
周囲の応援席に座っていたクラスメイトの男子数人が、一斉に囃し立てた。
女子たちも「詩織ちゃん、優しいー!」「完全に差し入れじゃん!」と、ニヤニヤしながらこちらを見ている。
俺は一瞬フリーズしたが、そこへ弁当箱を持った矢野が乱入してきた。
「おっ! 阿久津ー! 彼女から愛の差し入れかー! 炎天下で熱いねぇ!」
「……うるさい。ただの水分補給だ」
「ほら、否定しない! みんな聞いたか、阿久津が否定しなかったぞ!」
周囲から、ドッと爆笑が沸き起こった。
騒ぎの端で、スマホの画面をタップした春奈が「よし。飲み物ページ確保」と小さく呟くのが聞こえた。
俺は真っ赤になった顔を隠すように、スポーツドリンクのキャップをひねり、一気に喉に流し込んだ。
横目で見ると、詩織は少しだけ照れくさそうに頬を掻いていたが、決してその場から逃げ出そうとはしなかった。
*
午後。
クラス対抗リレー。体育祭のメインイベントであり、最も熱を帯びる競技だ。
詩織は、クラスの女子アンカーに抜擢されていた。
グラウンドを囲むように、クラス全員が総立ちで声援を送っている。
俺も、気がつけば参考書を閉じ、応援席の最前列でその行方を見守っていた。
バトンが詩織に渡る。順位は三位。
彼女はバトンを受け取るなり、猛然とダッシュを開始した。
ポニーテールが風を切り、土埃を巻き上げてグラウンドを駆け抜ける。
前を走るランナーとの距離が、少しずつ、少しずつ縮まっていく。
「行け! 冬馬!」
「抜けるぞ、詩織ちゃん!」
クラス中が絶叫する中、詩織は最後の直線で一人を抜き去り、見事に二位でゴールテープを切った。
優勝ではない。
だが、倒れ込むようにしてゴールした彼女の顔には、すべてを出し切った清々しい笑顔が浮かんでいた。
クラスメイトたちが駆け寄り、彼女を囲んで歓喜の声を上げる。
勝った、負けたじゃない。
あいつはもう、世界から逃げる側じゃない。誰の背中にも隠れず、ちゃんと自分の足で、あんなに騒がしい場所の先頭に立っている。
気付けば、俺も立ち上がっていた。
「冬馬ー!」
クラスの誰かが叫ぶ。
その声に混ざって、一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
「行け」
と、俺の口からも声が漏れていた。
*
午後三時。競技の合間の休憩時間。
俺は応援席のパイプ椅子に座り、強烈な日差しに目を細めていた。ただ座っているだけでも、首筋からとめどなく汗が流れ落ちてくる。
そこへ、息を弾ませた詩織が戻ってきた。
そして彼女は、何も言わずに。
自分の首に掛けていた水色のスポーツタオルを外し、スッと俺の顔の前に差し出した。
「……?」
「汗」
詩織が、自分の額を指差して小さく笑った。
「使ってください。目に入りますよ」
俺は、差し出されたそのタオルを見つめた。
彼女が、さっきまで自分の首に巻いていたタオルだ。
周囲には、クラスメイトたちがひしめき合っている。確実に、見られる。
一瞬だけ、昔の癖が顔を出した。
目立つな。余計な噂を作るな。距離を取れ。
以前の自分なら、絶対に断っていた。隠れている方が楽だったからだ。
だが。
俺の目の前でタオルを差し出している彼女の瞳には、打算も恥じらいもない。
ただ、汗をかいている俺を気遣う真っ直ぐな善意だけがある。
俺との関係を、隠そうとしていない。
こいつが隠そうとしていないのに。
俺だけが隠れる理由は、もうどこにもなかった。
いや。本当は、もう隠したいとも思っていなかった。
俺は、小さく息を吐き出した。
そして、右手を伸ばし、彼女の手からその水色のタオルを受け取った。
「……借りる」
「はいっ」
詩織が、花が綻ぶように嬉しそうに笑った。
俺はタオルを顔に押し当てた。柔軟剤の匂いと、彼女の微かな体温が、タオルの繊維越しに直接俺の肌へと伝わってくる。
「公開イチャイチャ!」
「もう結婚しろよ!」
「俺ら、いつからあいつらの応援団になったんだっけ?」
クラスメイトたちから、愛のある野次と笑い声が飛ぶ。
シャッター音と共に、春奈が「はい、ここ見開き確定。全国の阿久津ファンに謝って?」とニヤニヤしながら呟いた。
「……そんなものは存在しない。ただの汗拭きだ」
俺はタオルで顔を隠しながら吐き捨てた。
顔から火が出そうに熱い。耳の裏が沸騰しているのが自分でも分かる。
だが。もう、その騒がしい冷やかしを嫌だとは思わなかった。
*
夕方。
すべての競技が終わり、閉会式も済んだグラウンドは、祭りの後のような独特の寂寥感に包まれていた。
傾きかけた西日が、長く伸びた生徒たちの影を土の上に描き出している。
テントの解体や、パイプ椅子の片付けが各所で行われていた。
俺が重ねたパイプ椅子を運んでいると、詩織が小走りで近づいてきた。
彼女の体操服はすっかり土埃で汚れ、ポニーテールも少し解けかかっていたが、その表情はとても晴れやかだった。
「今日は、すごく楽しかったです」
「ああ」
詩織は、グラウンドの隅で旗を片付けている下級生たちの姿を、少しだけ眩しそうに見つめた。
「……最後なんですね」
俺たちは三年生だ。この学校での体育祭は、これが最後になる。
彼女の声には、終わってしまった行事に対する、微かな寂しさが混じっていた。
「……そうだな」
俺はパイプ椅子を置き、夕日に染まる空を見上げた。
少しの沈黙。そして。
「でも、写真は残る」
その言葉に、詩織は少しだけ目を見開き、ふふっと柔らかく笑った。
「……また、アルバム増えますね」
「増えるだろうな」
俺がそう答えた、まさにその時だった。
「朝のポニーテール。二位のゴール。飲み物。タオル。夕焼け」
遠くから、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、数メートル離れた場所で、奈々が自分のスマートフォンを構え、俺たちにレンズを向けていた。
「あ、四じゃなかった。五ページだ」
「何の話だ」
「今日の観測記録。今日だけで特集組めるよ。はい、チーズ!」
――カシャッ。
無機質な電子音が、夕暮れのグラウンドに小さく響いた。
春奈が満足げに去っていくのを見送りながら、俺は小さく息を吐き出した。
隣を見ると、詩織が夕日を受けて、本当に幸せそうに笑っていた。
一年生の頃。
俺は誰にも見つからないように息を潜めて生きていた。目立たないこと。関わらないこと。期待されないこと。それが一番楽だった。
でも今は違う。
隣にいるこいつを、わざわざ隠したいとは思わない。
誰かに見られてもいい。
こいつが笑っているなら、それで十分だった。
隠す理由が、なくなったのだ。
いや。
本当は違う。
俺がもう、隠したくなくなっただけなのかもしれない。
体育祭は終わった。
また一枚、あのアルバムにページが増える。
公園デート。
雨の日。
花火大会。
文化祭。
そして今日。
どれも、昔の俺なら隠していたはずの記憶だ。
それでも。
あのアルバムに貼られるのなら。
それも、悪くないと思った。




