第87話:続きのページ
文化祭が終わった翌週の学校は、驚くほど平然とした顔で通常授業へと戻っていた。
廊下を埋め尽くしていた模擬店の屋台は跡形もなく撤去され、壁に貼られていた色鮮やかなポスターはすべて剥がされ、元の味気ないコンクリートの壁が露出している。
一週間前までのあの狂乱じみた熱狂など、最初から存在しなかったかのように、学校という組織は驚くほど切り替えが早かった。非日常の祝祭は一瞬で消費され、生徒たちはまた、時間割という冷徹なシステムの中へと組み込まれていく。
阿久津湊は、放課後の教室で、自分のカバンに教科書を詰め込んでいた。
かつての俺にとって、文化祭など学校というシステムが最も騒がしくなる忌避すべきイベントだった。だが今年は、少しだけ違う。
黒板の隅に、消し忘れたチョークの跡がうっすらと残っている。『三年B組 大成功!』という、矢野が殴り書きした文字の残骸。祭りの熱気は完全に消え去ったはずなのに、教室を満たす空気は、以前のような冷徹な閉鎖空間とはどこか違っていた。かすかに柔らかい、他人の体温の残滓のようなものが、そこには確かに漂っている。
斜め前の席では、詩織がいつも通り静かに帰り支度を整えていた。その隣には、奈々が当然のように寄り添っている。
もう、俺と詩織が同じ歩幅で歩いていることも、放課後に言葉を交わすことも、クラスの誰も不思議に思わなくなっていた。隠さなければならない「秘密」は、この騒がしい日常のノイズの中に、完全に心地よく溶け込んでいた。
「あー、マジで撮りすぎたわ。スマホの容量パンパンなんだけど」
前の席で、矢野が自分のスマートフォンを弄りながら大声を上げた。クラスのグループチャットに、文化祭の記録写真が大量に投下されているらしかった。
俺は興味のないふりをしてカバンのファスナーを閉めたが、視線は手元の画面に向いていた。投下されたサムネイルの束を、静かにスクロールしていく。
画面の中で、矢野が馬鹿みたいな顔で笑い、奈々が呆れたようにカメラを睨み、放置されたままの段ボールが背景に写り込んでいる。そして――詩織が、少しだけ俺の肩に寄り添っている。
三年間、どこにも所属しなかった俺が。
『三年B組、ここにあり』
俺は、ちゃんとその中にいた。
「……湊くん」
ふいに、詩織が机の横からこっそりと話しかけてきた。
「なんだ」
「あの……これ、昨日も家で見ちゃいました」
彼女が差し出してきたスマホの画面には、合唱コンクールで、俺がカメラのファインダー越しに切り取った彼女の笑顔が映し出されていた。
「そんなに見るものか。自分の顔だろう」
「見ますよ。何度も見ちゃいます。……だって、これを見ると私、ちゃんとここにいられたんだなって、みんなと一緒に笑えてたんだなって、ちゃんと思えるので」
その言葉が、俺の胸の奥を静かに突いた。
あの日、雨の降る繁華街で震えていた少女。世界から消えてしまいたいと願っていた彼女にとって、写真という不変の記録は、自分がこの社会の中に存在していいという、何よりの免罪符であり、救いなのだ。
「……お前が満足なら、それでいい」
俺がぶっきらぼうに返すと、詩織はふにゃりと、文化祭の時と同じ柔らかい笑顔を浮かべた。
*
「ちょっとそこ、二人で内緒話しないの。ほら湊くん、文化祭の写真、整理するの手伝ってよ。クラスの共有アルバム用」
奈々が大量のプリントアウトされた写真の束を抱えて、俺たちの机に近づいてきた。
「お前が撮りすぎんだ。なぜ俺が他人の顔の仕分けをしなければならない」
「何言ってるの、湊くんが笑った奇跡の記念写真だよ? 責任持ってよね」
「消せ。不鮮明なデータはゴミだ」
「永久保存に決まってんじゃん」
いつもの、中身のない軽口。
俺は嫌そうな顔を作りながらも、手渡された写真の束をパラパラとめくった。
その中の一枚、後夜祭の片付けの最中、矢野が奈々の隣をごく自然に確保して、二人で並んで歩いている後ろ姿の写真で、俺の指先がふと止まった。
夕方の光が二人の影を長く伸ばし、どことなく妙な距離感を醸し出している。
「……そういえば。矢野とはどうなったんだ」
奈々の動きが、ピタリと止まった。
いつもなら、どんな話題でも即座に茶化し、鋭いツッコミで煙に巻くはずの委員長が、ほんの一瞬だけ、明確な「間」を置いた。
「……別に」
奈々は写真を奪い取るようにしてファイルの奥に引っ込めた。
「別に、とは何だ。好意はあるのか」
「うるさいな」
奈々はそっぽを向いたが、その耳の裏が、わずかに朱に染まっているのを俺は見逃さなかった。
「毎日、一緒に帰っているらしいな。駅前のマックに寄っているのを見たという目撃情報もある」
「ちょっと、その情報源どこ!? 完全にプライバシー侵害なんだけど!」
「お前が言うな」
「なんで!?」
「自覚がないのが一番怖いな。俺と詩織のアルバムを勝手に作った人間が何を言っている」
「あれは文化財だから」
「意味が分からん」
「奈々ちゃん、それ昨日も言ってました」
詩織まで頷いて加勢した。
「言ったけど?」
「反省は?」
「してない」
俺は心底呆れたようにため息をつき、おでこを押さえた。
「で」
俺は話を戻した。
「お前の方はどうなんだ」
奈々はしばらく沈黙した。教室のざわめきが少し遠退いたような静けさの中、彼女は手元に残った文化祭の写真――そこには、お盆をひっくり返しそうになって慌てている矢野の間抜けな笑顔が写っていた――をじっと見つめていた。
「……悪い気は、しないかな」
奈々は写真から目を離さないまま言った。
「だってあいつ、隠せないじゃん」
「何をだ」
「全部」
奈々は肩を竦めた。
「嬉しいも、悔しいも、焦ってるのも。全部顔に出る」
「知っている」
「だから安心するんだよ。私に対して、一ミリも嘘をつけない人だから」
それは、常に他人の嘘や噂話を観察し、防壁を築いてきた奈々にとって、最大級の好意の表現だった。矢野のあの底抜けの馬鹿正直さが、彼女の頑固な心の鍵を、一番正しい方法で開けたのだろう。
「おーい、奈々、湊! 写真の仕分け終わったか?」
廊下の向こうから、備品を片付け終えた矢野が大きな声を上げて走ってくる。
「あいつ、本当にタイミングが良いんだか悪いんだか……。ほら、詩織ちゃん、荷物まとめて帰るよ!」
奈々が照れ隠しのように慌ててカバンを掴み、走ってくる矢野を「遅い!」と怒鳴りつけながら教室を後にした。矢野は「ええっ!? なんで怒られてんの俺!?」とパニックになりながら彼女の後を追っていく。
その騒がしい背中を見送りながら、俺と詩織は自然と顔を見合わせ、小さく息を漏らした。
*
帰り道、夕闇に包まれた住宅街を、俺たちはいつものように並んで歩いていた。
街灯の光が、二人の影をアスファルトの上に長く伸ばしている。
すっかり秋の温度になった風が、色づき始めた街路樹の葉をカサカサと揺らしていた。
「……奈々ちゃん、なんだかすごく可愛かったです」
詩織が、繋いだ手を小さく揺らしながらぽつりと言った。
「そうか。俺にはいつもの怒り肩にしか見えなかったが」
「もう、湊くんは男の子なのに、そういうところ全然気づかないんだから。奈々ちゃん、矢野くんの話をしてる時、ずっと私と同じ顔をしてましたよ」
「どういう意味だ」
「好きな人のことを考えてる時の顔、です」
詩織は足を止め、俺を振り返った。
夕闇の向こう、遠くのグラウンドからは、部活動の掛け声と、秋の冷ややかな空気だけが静かに漂ってきている。
「文化祭、本当に楽しかったですね」
「……ああ」
彼女はもう、誰の目からも隠れていない。学校生活そのものを、この理屈っぽくて面倒な社会そのものを、自分の足で歩き、受け入れようとしている。
「……帰るか。冷える前に」
「はい!」
詩織が小さく笑い、再び歩き出す。二人の影が、同じ歩幅で我が家へと伸びていく。
それは、ただの寄り道だったはずの生活が、確かな「居場所」へと変わった瞬間だった。
*
カチャリ、と静かなリビングの鍵を開ける。
部屋に入り、「ただいま」と二人の声が重なった。
学校での喧騒が嘘のように、家の中は静まり返っていた。
だが、その直後。
インターホンが、遠慮のない音量でピンポーン、と鳴り響いた。
「はーい、お邪魔しますよー!」
ドアを開けるなり、奈々が大きなプラスチックの袋を抱えてリビングへ突入してきた。
「……なぜお前がここにいる。帰れと言ったはずだ」
「文化祭終わったでしょ」
「だから何だ」
「イベント終わったら更新するに決まってるじゃん」
「誰が決めた」
「私。……はい、詩織ちゃん、アルバム」
「はい」
詩織は慣れた手つきでテレビ台の引き出しを開け、一冊のアルバムを取り出した。
雨の日から始まった、俺たちの記録。奈々が勝手に作り、勝手に押し付け、今では当たり前のように更新され続けている迷惑な記録帳だ。もはや自宅の備品の場所まで把握している奈々に、俺は今さら何か言う気力も失せていた。
奈々は小型のポータブルプリンターをスマホに接続し、今日クラスチャットに上がった写真を次々と印刷し始めた。
ジジジ、と小さな駆動音を立てて、鮮やかな色彩が紙の上に定着していく。
「はい、まずはこれ。詩織ちゃんが注文間違えてフリーズしてるところ」
奈々が糊を使って、アルバムの新しいページに写真を貼り付ける。手際よく、迷いのない動作だ。そして、その下に油性ペンで勝手に文字を書き加えた。
『詩織、注文間違える。でも世界は終わらなかった』
「奈々ちゃん、そんなこと書かないでくださいよぅ」
詩織が顔を赤くして抗議するが、その表情はとても幸せそうだった。
「次はこれ。合唱コンクールで、湊くんがカメラ構えて真面目な顔してるところ」
カチリ、とアルバムに写真が収まる。
『湊、珍しく真面目に働く。ファインダーの先には……?』
「お前、いい加減にしろ。プライバシーの侵害で訴えるぞ」
「はいはい、石ころくんは黙ってて。最後はこれ! クラスの集合写真!」
奈々が、ページの真ん中に一番大きな写真を貼り付けた。
矢野が馬鹿みたいな顔で笑い、奈々が呆れたような顔をしていて、詩織が少しだけ俺の肩に寄り添っている写真。
その下に、奈々は小さく、けれど丁寧な文字で書き添えた。
『三年B組、ここにあり。湊、ちゃんとその中にいる』
「……フン」
俺は麦茶を口に含み、わざとらしく視線を逸らした。
だが、胸の奥に広がる確かな熱までは、誤魔化しきれなかった。写真の中の自分は、驚くほど自然に、その騒がしい風景の一部として存在していたからだ。
*
二時間が経ち、嵐のような奈々が「じゃ、お幸せに!」と言い残して去っていった後。
リビングには、再び心地よい静寂が戻ってきた。
時計の針は、夜の九時を回っている。
詩織は、ソファの上に置かれたままのアルバムを、愛おしそうに最初からめくり直していた。
トントン、とページがめくられる静かな音。
最初のページ。雨の降る繁華街で、怯えていた彼女の手を引いたあの日。
初めて、この一軒家から制服を着て登校した朝。
夜空に大輪の華が咲いた、あの花火大会の夜。
エアコンが壊れて、狭いリビングで二枚の敷布団を並べて過ごした、暑くて息苦しい夏の夜。
実質、生き延びるためだけの避難所だったこの城が、少しずつ、少しずつ形を変えていく過程が、そこには鮮明に記録されていた。
そして――今日加わった、騒がしくて温かい、文化祭の記録。
「……少しずつ、増えましたね、湊くん」
詩織が、アルバムを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
俺も、彼女の隣に腰を下ろし、そのページを覗き込んだ。
「……そうだな」
確かに、増えていた。
写真という記録だけではない。
俺たちがこの場所で、お互いの体温を確かめ合いながら積み重ねてきた、時間そのものが、この一冊の中に確実に蓄積されていた。
「次は何が増えるんでしょう」
詩織が、アルバムの次のページをめくった。
そこには、まだ何も貼られていない、まっさらな白紙のページが広がっていた。
彼女は、その空白の未来を愛おしむように、小さな指先でそっと撫でた。
「さあな」
俺は、少しだけ考えてから、静かに言葉を繋いだ。
「……そのうち、分かるだろ」
「ふふっ、そうですね。楽しみに待ってます」
そんな、どうでもいいやり取り。
白紙のページから目を離せなかった。
以前なら、何も書かれていないことに安心していたはずなのに。
今は違った。
次のページが埋まる日を、少しだけ楽しみにしている自分がいた。
俺は詩織の隣で、静かに目を閉じた。




