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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第83話:無駄な時間と洗ったスプーン

 網膜を焼くような夏の光が、遮光カーテンの隙間から細い帯となってフローリングに伸びていた。


 遠くから聞こえるミンミンゼミのけたたましい鳴き声と、エアコンから吐き出される冷気の微かな駆動音。

 肌にまとわりつくような熱帯夜は過ぎ去り、冷房の効いた部屋の中で、俺はタオルケットの心地よい重みを感じながら、ゆっくりと意識を浮上させた。


 ぼんやりとした頭で、枕元のスマートフォンを手探りで掴み取る。

 画面をタップして表示されたデジタル時計の数字は、『11:03』を指していた。


「…………」


 ――十一時。

 その数字が脳で処理された瞬間、三年間染み付いた防衛本能が、反射的に警鐘を鳴らした。


(……寝坊した。生活のサイクルが崩れる。管理に隙が――)


 ビクッと身体が強張り、シーツを跳ね除けようと無意識に筋肉へ力が入る。

 だが、コンマ五秒後。

 静かに回るエアコンの風音と、ドアの向こうから聞こえるかすかな足音が、急激に跳ね上がった俺の心拍数を優しく撫で下ろした。


 ……そうだ。今日から、学校は夏休みだ。

 登校する理由もない。定時に起きなければ大人に怪しまれるという強迫観念もない。

 俺は、強張っていた肩の力を完全に抜き、短く息を吐いて、もう一度タオルケットを深く被り直した。


(……まあ、いいか)


 自己嫌悪も焦燥もない。寝坊したという事実が、ただの「日常の小さなミス」として、俺の中にすんなりと吸収されていく。

 俺は、ゆっくりとベッドから這い出した。


 リビングへのドアを開けると、そこには同じように寝癖をつけたままの、少し大きめのTシャツを着た詩織が、キッチンでぼんやりと冷蔵庫を開けていた。


 俺の足音に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返る。

 その顔は、まだ完全に夢の中に半分残っているような、見事なまでの寝ぼけ眼だった。


「……やべ、十一時か」


 俺が少しだけバツが悪そうに頭を掻きながら言うと、詩織は小さくあくびをして、ふにゃりと笑った。


「……夏休み、ですからね」


「……そうだな。朝昼兼用にするか」

「はい。……お素麺でも茹でますね」


 ただそれだけの、中身のない会話。

 かつては「生活が乱れる」と俺が声を荒げ、彼女が青ざめて謝罪していたであろう寝坊の事実が、無害な日常の風景として処理されていく。

 この、だらしなくて無防備な朝の空気が、今の俺たちにとっては、何よりも確かな「安全」の証明だった。


 *


 午後一時。

 アスファルトの照り返しが容赦なく体力を奪う中、俺たちは最寄りのスーパーマーケットへと向かっていた。


 自動ドアを抜けた瞬間、強烈な冷気が火照った肌を撫でる。

 俺は慣れた手つきで入り口のカートを引き寄せ、カゴを乗せた。詩織が自然な動作で俺の隣に並び、二人の足並みが揃う。


 数ヶ月前までの買い出しは、さながら軍事作戦だった。

 カロリー、日持ち、底値。あらゆるデータを瞬時に計算し、最短ルートで必要な物資だけをカゴに放り込んで、誰とも目を合わせずにレジへ向かう。そこには、「生き延びるため」の殺伐とした効率しか存在しなかった。


 だが、今の俺のカートは、異常なほどゆっくりと店内を進んでいた。


「……湊くん、これ、気になってたんです」


 アイスクリームのショーケースの前で、詩織が立ち止まる。

 彼女の指が示したのは、期間限定とデカデカと書かれた、濃厚そうなキャラメルナッツの新作アイスだった。


「……栄養価ゼロの糖分の塊だな。しかも割高だ」

「えー。たまにはいいじゃないですか、夏休みなんですから」

「お前の『夏休みだから』は、免罪符として優秀すぎるな」


 俺は呆れたように息を吐きながらも、そのアイスを手に取り、カゴの中に落とした。

 詩織が嬉しそうに「やった」と小さく笑う。


「湊くんは、いつものチョコミントでいいですか?」

「……ああ」

「じゃあ、映画観る時のお菓子も買っちゃいましょう。今日はしょっぱいのがいいですね」


 詩織はポテトチップスの袋を二つ選び、俺のカゴに放り込んだ。そして、当然のように無糖の炭酸水を二本、俺の好みを確かめることもなく追加する。


 俺もまた、それが当たり前のように受け入れている。

 何を食べるか、どう生き延びるか。そんな切実な問題から解放された俺たちの会話には、「何が食べたいか」「何を飲んで映画を観るか」という、人間らしい『人生の余白』が入り込んでいた。


 無駄なものを買い、無駄な時間を過ごすための準備。

 その豊かさが、俺のカートを少しずつ、心地よい重さで満たしていった。


 *


 帰宅後。

 外の暴力的な日差しを遮るため、リビングのカーテンを半分だけ閉めた。

 エアコンの温度を少しだけ低めに設定し、薄暗く冷えた部屋を作る。


 俺たちは、ソファに並んで腰を下ろした。

 テレビの画面には、定額制の動画配信サービスのメニュー画面が広がっている。


「……何観る?」

「んー……何も考えなくていいやつがいいです」


 詩織のリクエストに従い、俺は適当なB級のアクション映画を選んで再生ボタンを押した。

 画面の中で、派手な爆発音とともに物語が唐突に始まる。


 俺たちは、スーパーで買ってきたアイスの蓋を開けた。

 ソファの上の二人の距離は、肩と肩が触れそうなほどに近い。だが、そこに過剰な緊張感や、心臓が爆発しそうになるような恋愛特有の焦燥はなかった。

 ただ、隣に彼女の体温があることが、当たり前の前提としてそこにある。


「……一口、食べます?」


 詩織が、自分のキャラメルアイスをスプーンで掬って差し出してきた。

 俺は何も言わず、少しだけ身を乗り出してそれを口に含む。


「……甘すぎる。胸焼けしそうだ」

「ふふっ。美味しいのに。湊くんのチョコミントも、一口ください」


 俺の持っていたスプーンを、詩織が自然な動作で受け取り、チョコミントを掬って食べる。


「ん……やっぱり、歯磨き粉の味ですね」

「味覚が子供だな」


 そんな、どうでもいいやり取り。

 映画の中では主人公が車で派手なカーチェイスを繰り広げているが、俺たちの意識は半分も画面に向いていない。


「……今の爆発、絶対物理法則無視してるだろ」

「あはは,、確かに。車、飛びすぎですよね」


 くだらないツッコミを入れながら、ダラダラと時間が過ぎていく。

 特別なことは、何一つ起きない。

 大きな事件も、劇的な告白も、涙を流すような感動もない。


 ただ、冷房の効いた涼しい部屋で、甘いアイスを食べながら、どうでもいい映画を観て、同じ温度の空気を吸っている。

 それだけのことが、満ち足りていた。


 映画が中盤に差し掛かる頃、二人の会話は徐々に少なくなっていった。

 気まずい沈黙ではない。言葉を発する必要性を感じない、ただそこにいるだけで成立する、心地よい無音。


 コテン、と。

 右肩に、柔らかな重みが乗った。


 視線を移すと、詩織が俺の肩に頭を預けたまま、静かな寝息を立てていた。

 手には、空になったアイスの容器が握られたままだ。


 俺は、彼女を起こさないように、そっとその手から容器とスプーンを抜き取った。

 画面の中では相変わらず銃撃戦が続いているが、もはやストーリーの筋を追う気など、俺には一ミリも残っていなかった。


 俺はソファの背もたれに深く体重を預け、肩に伝わる彼女の微かな重みと、規則正しい呼吸のリズムに意識を委ねた。

 シャンプーの匂いが、エアコンの風に乗って鼻先を掠める。


 俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 何も起きない。何も焦らない。

 この、どうしようもなく退屈で、どうしようもなく安心できる時間。

 俺は、ただその時間を浪費することの贅沢さを、全身で味わっていた。


 *


 ふと目を覚ますと、部屋の中は夕暮れの気配に包まれていた。

 テレビの画面はとっくに映画のエンドロールを終え、配信サービスのトップ画面が無音でループ再生を繰り返している。


 結局、あの映画の結末がどうなったのか、俺も詩織も全く覚えていない。


 隣では、詩織がまだ俺の肩を枕にして、うとうとと微睡んでいた。

 俺は彼女の頭をそっとクッションに移し、立ち上がって小さく背伸びをした。


 キッチンのシンクへ向かい、二つの空になったアイスの容器を水で濯ぐ。

 カチャ、カチャと。

 洗い終わった二本のスプーンを、水切りカゴに並べて置く。


 振り返ると、リビングのローテーブルの上には、食べかけのポテトチップスの袋と、二本の炭酸水のペットボトルが転がっていた。

 窓の外からは、遠くの幹線道路の車の音や、夕飯の支度をする近所の生活音が、微かなノイズとして聞こえてくる。


 冷房の効いた部屋。

 ソファで目をこすりながら、小さくあくびをしている詩織。

 シンクに並んだ、二本のスプーン。


 こういう光景を、俺はずっと欲しがっていたのかもしれない。


「……湊くん。私、寝ちゃってました……」


 詩織が、眠そうな声でぼんやりとこちらを見る。


「ああ。映画の後半、まるまる寝てたな」

「うわぁ……結末、どうなったんですか?」

「さあな。俺も寝てたから、誰も知らない」


 俺がそう答えると、詩織は「ふふっ」と可笑しそうに笑った。


「……夕飯、どうする」

「んー……素麺の残りがあるので、お味噌汁に入れて、にゅうめんにしませんか?」

「……手抜きだな。まあいい、俺が作るから、お前はもう少し寝てろ」

「手伝いますよぉ」


 俺は、水切りカゴの上のスプーンを一瞥し、コンロの火をつけた。

 静かな夕暮れの部屋に、お湯が沸く小さな音が、ひどく優しく響いていた。

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