第84話:夏の夜
深夜二時。
暗闇に包まれたリビングを支配していたのは、淀んだ空気と、絶望的なほどの静寂だった。
ピピッ、という無機質な電子音が、静かな部屋に虚しく響く。
俺は何度目かも分からない動作で、壁のリモコンのボタンを押し込んだ。しかし、天井近くに設置された四角い輪郭からは、ただの生温かい微風が弱々しく吐き出されるだけだった。
リモコンの液晶画面にはエラーコードが点滅し、本体のタイマーランプが不規則な瞬きを繰り返している。何度電源を入れ直しても、室外機が唸りを上げる気配は一向になかった。故障しているのは明らかだった。基板が焼けたような微かな焦げ臭さが、わずかに鼻を突く。
「……完全に死んでるな」
額から流れる汗をシャツの袖で拭いながら、俺は低く毒づいた。
数時間前、寝室のエアコンが前触れもなく沈黙した。慌ててリビングへ避難してきたものの、この家に並んで設置された古い空調システムは、申し合わせたかのように同時に寿命を迎えたらしい。
戻り梅雨が明けてからの数日間、東京の夜は容赦のない熱帯夜が続いていた。カーテンを閉め切っても、日中にコンクリートの壁が蓄えた熱が、じわじわと室内の温度を押し上げている。
窓を数センチだけ開けてみたが、外から流れ込んでくるのは、アスファルトの熱気をたっぷり吸い込んだ、息苦しいほどの湿気だけだった。網戸の向こうからは、狂ったように鳴き続ける蝉の声と、遠くの幹線道路を走る大型トラックの低い駆動音が聞こえてくる。重低音が網戸を震わせ、その微かな振動が床を通じて足の裏に伝わった。
一ミリも動いていないのに、じっとりとした汗が首筋を伝って背中を濡らしていく。Tシャツの生地が肌に張り付く感覚が、どうしようもなく不快だった。衣類が皮膚を締め付けるたびに、湿った不快指数が跳ね上がる。俺はたまらず、立ち上がってシャツの裾を翻した。
「……湊くん、やっぱりダメですか?」
暗闇の中から、ひどく掠れた、湿り気を帯びた声が聞こえた。
ソファの前に広げられた、二枚の薄い敷布団。その片隅で、詩織が大きめのTシャツの襟元をパタパタと仰ぎながら、俺を見上げていた。長い髪は鬱陶しそうにクリップで一つにまとめられ、首筋に浮かんだ寝汗が、かすかな月明かりを反射して妖しく光っている。
「ああ。コンプレッサーがいかれてる。物理的な寿命だ。……明日、一番に電気屋へ行く」
彼女は、ただ小さく頷いた。
彼女が座る布団の横には、脱ぎ捨てられたタオルケットがくしゃくしゃになっている。昼間はあれほど居心地の良かったこのリビングが、今は巨大なサウナの内部のように思えた。
「明日の朝まで、これ……ですか?」
「……耐えるしかない」
俺は押し入れの奥から引っ張り出してきた、古い扇風機のスイッチを足の指で押し込んだ。
ガタガタと頼りない音を立ててプラスチックの羽が回り始める。強風に設定しても、それはただ、部屋の中に溜まった熱い空気をかき混ぜているに過ぎなかった。首振りのたびにギシ、ギシと鳴る軸受の音が、神経に障る。
俺は、自分の敷布団の上に仰向けに寝転がった。
最悪の夜だ。目を閉じても、まぶたの裏にはまとわりつくような熱気がへばりついている。
だが、今の俺の神経を苛んでいるのは、部屋の室温の高さだけではなかった。
――近い。
物理的な距離が、あまりにも近すぎる。
普段なら、壁一枚を隔てた別々の部屋で眠る。それが俺たちの生活の最低限のルールであり、防波堤だった。
だが今、狭いリビングの床に、二枚の敷布団を並べて敷いているのだ。お互いの腕を横に広げれば、それだけで指先が触れ合ってしまうほどの距離。
扇風機が首を振るたびに、生温かい風が二人の間を通り抜けていく。
昼間、冷房の効いた部屋でソファに並んで映画を観ていた時は、あんなに心地よかった彼女の気配が、この暗闇の中では、まったく別の生々しい質量を持って俺の脳髄を締め付けてくる。
エアコンの音が消えただけで、部屋がやけに静かだった。
たぶん今、俺はこいつを意識しすぎていた。
熱を持った空気越しに聞こえる規則正しい呼吸音のせいで、頭の奥が落ち着かなかった。
トクン、トクン、と。
静寂の中で、自分の心拍音だけがやけに大きく響いていた。
*
一時間が経過しても、眠気は一向に訪れなかった。
横に横たわる詩織も同じなのだろう。時折、シーツが擦れる「カサッ」という微かな音が、暗闇の中で妙に鮮明に聞こえてくる。
寝苦しさに耐えかねて、彼女が小さく寝返りを打つ。
そのたびに漂ってくる、あの日モールで一緒に選んだアプリコットのシャンプーの匂い。汗ばんだ肌の匂いと混ざり合い、熱を持った空気の層を伝って、ダイレクトに俺の皮膚を刺激した。
いつもなら、彼女の立てる小さな生活音は、俺にとって「安全」を担保する安眠のためのBGMだった。
だが、今夜は違った。
世界からすべての遮音壁が取り除かれ、俺たちの間には、ただ生々しい距離感だけが横たわっていた。
繋いでいないはずの手のひらが、なぜかひどくジンジンと痺れている。
目を閉じると、余計に聴覚が鋭敏になる。彼女が布地を掴む音、小さく息を吐き出す音。そのすべてが、鼓膜を直接撫でられているような錯覚を引き起こした。
俺は無意識のうちに、シーツの端を強く握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、今の俺を現実に繋ぎ止めている唯一の感覚だった。
不意に、詩織が小さく身体を起こす気配がした。
「……湊くん、起きてますか?」
俺は目を開けた。
暗闇に目が慣れてきていた。月明かりがカーテンの隙間からかすかに差し込み、彼女の白い肌と、長く伏せられたまつ毛の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……起きてる。この温度で眠れるわけがないだろ」
「ふふ、そうですよね」
詩織は少しだけ安心したように息を漏らした。
彼女は敷布団の上に胡座をかき、額の汗を手の甲で拭った。そのシルエットが、扇風機の風に揺れている。髪の毛が細かく揺れ、Tシャツの襟元が風に煽られた。
「……水、飲むか」
俺は身体を起こし、キッチンへと向かった。
フローリングの床が、足の裏に少しだけ冷たくて心地いい。
冷蔵庫の扉を開けると、冷たくて鋭い光が暗いリビングを一瞬だけ白く照らし出した。その光の逆光の中に、詩織が膝を抱えて座っているシルエットが浮かび上がる。Tシャツの裾から伸びた細い脚が、月明かりと冷蔵庫の光を浴びて白く光った。
俺は、スーパーで買ってきた無糖の炭酸水のペットボトルを取り出した。プラスチックの表面には、細かい水滴がびっしりとついている。
グラスを二つ用意し、冷凍庫から氷を取り出す。
カラン、カランと、ガラスと氷がぶつかる硬質な音が、熱帯夜の空気をわずかに冷やした気がした。
ペットボトルのキャップを捻る。プシュッ、とガスが抜ける短い音がして、炭酸の弾ける匂いが鼻腔をかすめた。
俺はグラスを両手に持ち、敷布団の横へ戻った。
詩織に一つを差し出す。彼女は両手でそれを受け取り、グラスの表面に浮かんだ水滴の冷たさを確かめるように、そっと頬に押し当てた。その冷たさに、彼女が小さく満足げに吐息を漏らすのが分かった。
「……冷たい。生き返ります」
「一気に飲むなよ。胃が驚く」
俺は自分のグラスに口をつけ、炭酸の刺激を喉の奥へ流し込んだ。
シュワシュワとした微炭酸が、乾ききった食道を心地よく刺激する。
扇風機が首を振り、再び生温かい風を俺たちに吹き付ける。風が彼女の髪を揺らし、アプリコットの香りが鼻腔を通り抜けた。
「なんだか、不思議ですね」
グラスを両手で包み込んだまま、詩織がぽつりと呟いた。
「何がだ」
「学校の時は、みんなの前で『ただのクラスメイト』のふりをするのが、あんなに息苦しかったのに。……今、こんなに暑くて息苦しいのに、全然嫌じゃないです」
詩織の言葉が、俺の喉の奥をチクリと刺した。
グラスを持つ手に、わずかに力が入る。グラスの中の氷が、また一つ小さく音を立てて欠けた。
数ヶ月前。息を潜めていたあの頃とは違う。
今は、こうして同じ暑さに文句を言い合っていられる。
世間の高校生から見れば、それはただの不運な、不条理なアクシデントだ。だけど、俺たちにとっては、その「不条理」を文句を言いながら笑い合えること自体が、かつて血を吐くような思いで掴み取った日常の証明だった。
「……ただの熱帯夜だぞ。お前、暑さで脳がやられてるんじゃないか」
「酷いです。私は真面目に言ってるのに」
詩織は少しだけ口を尖らせる気配を見せたが、すぐに「……でも」と声を落とした。
「……なんだか、安心します。こうして、湊くんの隣で、明日何を食べようか考えながら夜更かしできるの」
俺は、何も言い返せなかった。
手の中のグラスの氷が溶け、カチリと音を立てた。
自分の耳の後ろが、部屋の温度とは全く関係のない別の熱で、火傷しそうなほど熱くなっていくのが分かった。
彼女はもう、俺に嫌われることを恐れて正解を探すような人形じゃない。自分の不器用な好意を、真っ直ぐに届けてくる。
俺はグラスをフローリングの床に置き、再び仰向けに寝転がった。
「……氷が溶ける前に飲め。炭酸が抜けるぞ」
「はい。……おやすみなさい、湊くん」
詩織もグラスを置き、ゆっくりと布団に身を横たえた。
暗闇の中で、二人の呼吸音が再び混ざり合う。
扇風機の羽音が、不規則なリズムを刻み続けていた。
俺は、今夜が永遠に終わらなければいいとすら思った。この不自由で、熱くて、息の詰まるような時間が、何よりも愛おしかった。
*
深夜三時半。
フローリングに置かれたグラスの表面からはとっくに水滴が消え、温くなった炭酸水の中には、小さな気泡すら残っていない。
俺の目は完全に冴えきっていた。
暑さのせいもあるが、それ以上に、隣にいる彼女の存在が大きすぎた。
詩織の呼吸が、少しずつ深く、規則正しいものへと変わっていった。
ようやく、暑さの限界を超えて眠りに落ちたらしい。
俺はゆっくりと上体を起こし、暗闇の中で彼女の寝顔を見下ろした。
だぶだぶのTシャツの襟元からは、華奢な鎖骨が覗いている。
額に張り付いた前髪、少しだけ開いた唇。
昼間、あんなに楽しそうにアイスを分け合っていた少女が、今は俺の手の届く場所に、無防備に横たわっている。
彼女が寝返りを打つたび、シーツが小さく擦れる。
その音だけで、妙に意識が逸らせなかった。
ふと、詩織が夢の中で小さく身悶えし、寝返りを打った。
「ん……」という微かな寝言と共に、彼女の身体が俺の敷布団の方へと少しだけ転がってくる。
その拍子に、彼女の小さな右手が、布団の境界線を越えて、俺のシーツの上へと滑り込んできた。
――触れるか、触れないか。
俺の右手のすぐ横、わずか数ミリの距離に、彼女の指先が止まる。
指先が触れてもいないのに、そこだけ感覚が妙に過敏だった。
俺の視線は、その数ミリの隙間に完全に釘付けになっていた。
手を伸ばせば、届く。
このまま、その指先を包み込んでしまえば、彼女の寝顔にもっと近づける。
だが、俺は自分の右手を、ゆっくりと、音を立てずに自分の方へと引き寄せた。
今は、まだ。
この曖昧な熱のままでいたかった。
関係に無理やり名前をつける必要も、劇的なイベントを起こす必要もない。ただ、この壊れやすい、けれど何よりも温かい距離を、一歩ずつ、壊さないように確かめながら進んでいく。
俺はもう一度、静かに横たわり、天井の木目を見つめた。
相変わらず、部屋は暑くて、湿っていて、最悪の環境だった。
けれど、耳の奥に届く彼女の静かな寝息を聴いているだけで、俺の胸の奥には、確かな安堵の温度が満ちていた。
扇風機が生温かい風を運び、カーテンがわずかに揺れる。
その風鈴のような微かな摩擦音を聞きながら、俺は少しずつ、深い眠りの底へと落ちていった。
*
翌朝。
遮光カーテンの向こう側が完全に白く染まった頃、俺は再び目を覚ました。
室温は昨日と変わらず高いままで、肌には不快な汗の膜が張り付いている。
蝉の鳴き声が、すでに昨日以上の音量で外の空気を支配していた。
だが、隣を見ると、詩織はまだタオルケットを胸元まで引き上げたまま、小さくあくびをして目をこすっていた。
その髪は寝汗で少し額に張り付いており、大きなTシャツの肩が片方ずり落ちている。
「……おはよ」
寝ぼけた声で、彼女が俺を見る。
「……おはようございます、湊くん。……やっぱり、暑いですね」
「ああ。地獄だな。……ほら、さっさとシャワー浴びてこい。その間に、俺が冷たいにゅうめんでも作っておく」
「はーい」
詩織はくすくすと笑いながら、タオルを持って洗面所へと向かった。
一人残されたリビング。
ローテーブルの上には、昨夜飲み干した炭酸水の空き瓶と、氷が完全に溶け切って生ぬるい水だけが残ったグラス。
そして、床に並んだ、二枚の敷布団。
劇的なことは、今日も何も起きない。
エアコンは壊れたままで、今日も最悪に暑い一日が始まる。
電気屋に電話をかけなければならないし、室内の温度管理という面倒なタスクが山積みだ。
俺の心は不思議と軽かった。
敷布団を畳み、部屋の隅へ寄せる。
散らかったリビングの片隅、重なり合うように置かれた二足のスリッパ。
洗面所から、シャワーの水の音と、詩織の鼻歌が微かに聞こえる。
俺は鍋に蓋をして、ぬるい麦茶を一口飲んだ。
麦茶はもう、あまり冷えていなかった。




