第82話:三者面談
八月を目前に控えた教室は、エアコンが稼働しているにもかかわらず、どこかじっとりとした湿気と奇妙な熱気に包まれていた。
期末テストの返却もすべて終わり、夏休みという開放的な響きがすぐそこまで迫っている。だが、三年生の教室を満たしているのは、純粋な高揚感だけではなかった。
俺は、自分の机の上に配られた一枚のプリントを見下ろしたまま、シャープペンシルを指先で無意味に回し続けていた。
『進路希望調査(最終確認)』
上段には第一志望から第三志望までの大学名や就職先を記入する欄。下段には、三者面談の希望日程の記入欄。
どこにでもある、ありふれた高校三年生の夏の風物詩だ。
周囲の席からは、「お前、指定校推薦いけそう?」「国立は学費安いけど判定ヤバいわ」といった、リアルで切実な単語が飛び交っている。
俺のシャープペンシルの動きが、ピタリと止まった。
(……未来、か)
俺の脳内カレンダーは、これまでずっと『十月十五日』という日付でストップしていた。
詩織が十八歳になり、児童相談所や警察といった大人の強制介入から完全に自由になる日。俺が親の遺産をやり繰りし、彼女を匿い切るためのゴールテープ。
そこまでたどり着けば、俺たちの勝ちだ。ずっとそう思ってきた。
だが、その先は?
十月十五日を過ぎ、やがて三月が来て、高校を卒業した後。
親の遺したこの一軒家で、学生という身分というモラトリアムを剥奪された俺たちは、どうやって生きていくのか。
斜め前の席に視線を向ける。
詩織もまた、配られた進路希望調査のプリントを前に、じっと固まっていた。
彼女の細い背中が、どこか途方に暮れているように見えた。
これまで「明日をどう生き延びるか」しか考えられなかった俺たちに、社会は突然「五年後、十年後の自分を設計しろ」と要求してくる。
それが、これほどまでに重く、そして得体の知れない恐怖を伴うものだとは、思いもしなかった。
*
その日の放課後。
蝉の鳴き声が、グラウンドの熱気を切り裂くように響き渡っていた。
進路指導室の前。
本来ならば、生徒とその保護者、そして担任の三者が向かい合って座るはずのその部屋に、俺は詩織と二人で立っていた。
「……入れ」
ドアの向こうから、矢島の低い声がした。
俺がドアを開け、詩織を先に促して中に入る。
狭い部屋の中央に置かれた長机。その奥に矢島が座り、手前にはパイプ椅子が二つ並べられている。
本来、保護者が座るべきもう一つの椅子は用意されていなかった。
「……座れ」
矢島の声に従い、俺と詩織は並んで腰を下ろした。
詩織は膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。親権者である父親は行方を眩ませており、彼女には「保護者」としてこの場に同席できる大人が存在しない。
だからこそ、矢島は彼女の面談に、特例として俺を同席させたのだ。
「さて」
矢島は、手元にあった二人の進路希望調査の紙を、無造作に机の中央へ滑らせた。
二枚とも、志望校の欄は真っ白なままだった。
「お前ら、十月十五日まで逃げ切れば、それでハッピーエンドだとでも思ってたか?」
唐突な、そして鋭利な矢島の言葉に、俺と詩織は同時に息を呑んだ。
矢島は腕を組み、冷徹な目で俺たちを交互に見据える。
「十月十五日。冬馬が十八歳になる日。確かに、そこを過ぎれば法的な強制力は消える。学校も、児相も、お前たちを無理やり引き離す根拠を失う。……だがな」
矢島は、机を指先でコンと叩いた。
「それは『大人が守ってくれなくなる』ということと同義だ。高校を卒業すれば、お前らはただの社会人になる。家賃、食費、光熱費、国民年金、健康保険。……お前らのその『好きだ』という感情だけで、これから先の六十年を食っていけると思っているのか?」
容赦のない、圧倒的な現実の質量。
俺の胃の奥が、ギリギリと締め付けられる。
「阿久津。お前は頭がいいし、親の遺産もある。家計の管理もできている。だが、それはあくまで『高校生が一人で暮らす』ための予算だ。大人二人が、何十年も生活を維持するための資金には到底足りないはずだ」
図星だった。
俺の『資産・維持管理簿』の計算式は、高校卒業までのランニングコストしか考慮していない。今のままの生活を続けていけば、いずれ必ず資金は底を突く。
「……冬馬」
矢島は、隣で震えている詩織へと視線を向けた。
「お前はどうするつもりだ。高校を出た後、阿久津の家にただ寄生して生きていくつもりか?」
「っ……」
詩織の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
俺は反射的に口を開きかけた。
「矢島先生、俺はこいつを――」
「黙ってろ、阿久津。俺は冬馬に聞いている」
矢島の鋭い声に、俺は奥歯を噛み締めて言葉を飲み込んだ。
詩織は、真っ青になった顔で俯き、膝の上のスカートを強く握りしめていた。
「冬馬。お前はこれまで、生きるために精一杯だった。親に振り回され、明日のご飯の心配をしてきた。……だが、阿久津がその恐怖を取り除いてくれた。お前は今、安全な場所にいる」
矢島の声が、ほんの少しだけ、教師としての穏やかな温度を帯びた。
「だからこそ、考えろ。……安全になったお前は、これから『自分の足』で、どこへ歩いていくんだ?」
沈黙が、進路指導室に落ちた。
扇風機の首が回る音だけが、重苦しい空気をかき混ぜている。
詩織の細い肩が、微かに震えていた。彼女にとって、「未来」を考えることなど、これまでの人生で許されていなかった贅沢であり、同時に最大の恐怖だったはずだ。
やがて。
詩織は、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って顔を上げた。
その瞳には、かつて俺の背中に隠れて怯えていた小動物のような弱さは、もうなかった。
「……私」
詩織の、透き通るような声が響いた。
「私は、湊くんの……重荷には、なりたくないです」
俺の心臓が、大きく跳ねる。
「私、ずっと考えてました。湊くんが私のために、どれだけのものを背負って、どれだけ無理をしてくれているか。……だから、高校を卒業したら、私、働きます」
詩織は、矢島の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「湊くんは、頭がいいから……本当は、もっといい大学に行って、やりたいことができるはずなんです。でも、私との生活を守るために、きっと自分の可能性を諦めようとしてる。……私は、それが一番嫌です」
「……詩織、お前」
「だから」
詩織は、俺の方を向いて、少しだけ泣きそうに、けれど力強く微笑んだ。
「私が働いて、湊くんの学費を半分出します。……ずっと守ってもらってたから、今度は私が、湊くんの隣で、一緒に生活を支えたいんです。……それが、私の『進路』です」
息が、止まった。
俺の構築してきた、俺が彼女を一方的に庇護し、管理するという前提のシステムが、彼女自身の口から完全に、そして美しく破壊された瞬間だった。
矢島は、ふっと口元を緩め、短く息を吐き出した。
「……聞いたか、阿久津」
「……はい」
「お前の過保護な管理は、どうやらとっくに必要なくなっていたらしいな。こいつはもう、お前が囲っておくべき『迷子』じゃない。……一人前の、お前の相棒だ」
俺は、何も言えなかった。
喉の奥が熱く、視界がわずかに滲む。
彼女は、俺が思っているよりもずっと強く、そして俺の未来のことまで、こんなにも深く考えてくれていたのだ。
「……冬馬。働くのはいいが、高卒での就職は甘くないぞ。資格もないまま飛び込めば、安月給で買い叩かれるのがオチだ。阿久津を支えるどころか、お前自身が潰れる」
矢島は、引き出しから数枚のパンフレットを取り出し、机の上に広げた。
「これを見ろ。うちの学校から推薦枠のある、専門学校と短大の資料だ。医療事務、簿記、情報処理……。奨学金制度や、働きながら資格を取れる夜間コースもある」
「これは……」
「お前ら、二人でよく話し合え。阿久津、お前もだ。自分の学力に見合った国公立の大学をきちんと探せ。家から通える範囲で、学費を抑えられる場所はいくらでもある」
矢島は、白紙の進路希望調査のプリントを指先で叩いた。
「十月十五日は、ゴールじゃない。お前らが二人で生きていくための、ただのスタートラインだ。……そのスタートラインに立つための武器を、残りの半年で死ぬ気で揃えろ」
大人からの、これ以上ないほど現実的で、そして温かいエールだった。
「……はい」
「……ありがとうございます、矢島先生」
俺たちは、深く頭を下げた。
*
進路指導室を出ると、校舎はすでに夕日に赤く染まっていた。
遠くから聞こえる吹奏楽部の音色と、グラウンドの土の匂い。
俺と詩織は、並んで家路についた。
これまで、夕暮れの帰り道は「今日一日を無事にやり過ごせた」という安堵の象徴だった。
だが今日は違う。
俺たちの手には、数枚の学校のパンフレットと、白紙の進路希望調査が握られている。
「……湊くん」
歩きながら、詩織が少しだけ申し訳なさそうに声をかけてきた。
「さっきは、勝手なこと言って、ごめんなさい。私、湊くんの負担になりたくないって、そればっかり考えてて……」
「……謝るな」
俺は、前を向いたまま、短く遮った。
「俺の方こそ、すまなかった」
「え……?」
「俺は、お前を十月十五日まで守り切ることしか考えていなかった。その先の、お前の人生のこと……お前がどう生きたいかを聞こうともしなかった」
俺は足を止め、詩織に向き直った。
夕日が、彼女の髪を黄金色に透かしている。
「……俺は、国公立の経済学部を狙う。家から自転車で通える範囲の大学だ。それなら、今の生活基盤を維持したまま、学費も最小限に抑えられる。奨学金も借りる」
それは、俺がたった今、頭の中で構築したばかりの、新しい『未来の設計図』だった。
「詩織。お前はどうしたい。俺のためじゃなく、お前自身が、どんな大人になりたいんだ」
詩織は、少し驚いたように目を見開いた後、手元にあるパンフレットをぎゅっと抱きしめた。
「……私」
彼女は、夕日の差す空を見上げて、少しだけ照れくさそうに笑った。
「私……誰かを、安心させてあげられる人になりたいです」
「安心?」
「はい。……あの雨の日、湊くんが私に居場所をくれて、ご飯を作ってくれて、安心させてくれたみたいに。……だから、医療事務とか、受付のお仕事とか。困っている人に、最初にお手伝いできるような資格の勉強が、してみたいです」
その言葉は、地に足のついた、とても彼女らしい、優しい未来の形だった。
「……そうか。なら、夜間じゃなく、全日制の専門学校を探そう。学費の計算は俺がやる。奨学金の手続きも、矢島先生に協力してもらえば通るはずだ」
「でも、それだと湊くんの負担が……」
「馬鹿を言え」
俺は、彼女の頭にポンと軽く手を乗せた。
「俺たちは『共犯者』だろ。お前が資格を取って一人前になるまでの先行投資だ。数年後、俺が就活で躓いたら、その時はお前が俺を養え」
「っ……!」
詩織の顔が、ぱぁっと明るく輝いた。
それは、「守られるだけの存在」から解放され、俺と対等な未来を約束されたことへの、心からの喜びの表情だった。
「……はいっ! 任せてください。私、絶対に立派に稼げるようになりますから!」
「ああ。期待してる」
俺は、自然に手を伸ばし、彼女の小さな手を握りしめた。
詩織も、もう戸惑うことなく、俺の手を強く握り返してくる。
繋いだ手から伝わる体温は、これまでのような「怯えを鎮めるための熱」ではない。
もっと力強く、明日へと向かうための熱だった。
家に帰ったら、テーブルにパンフレットを広げよう。
二人で、電卓を叩いて、どうやったらこの先の何十年を一緒に生きていけるか、徹底的に計算しよう。
未来は、恐ろしい。
大人の社会は理不尽で、俺たちの足元にはまだまだ地雷が埋まっている。
十月十五日は、ただのスタートラインに過ぎない。
けれど、もう怖くはなかった。
俺たちは、夕焼けに染まるアスファルトの上を、同じ歩幅で歩き出した。
長く伸びた二人の影が、未来へ向かって、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。




