第81話:遅れてきた夏
期末テスト最終日の朝。街を包む真夏の熱気は、容赦なくその温度を上げ続けていた。
窓を開け放った三年B組の教室には、ジリジリとアスファルトを焦がすような熱気とともに、ミンミンゼミのけたたましい鳴き声が絶え間なく流れ込んでくる。
天井の扇風機が首を振り、申し訳程度に稼働しているエアコンの冷気をかき混ぜていたが、三十人以上の高校生が発する熱気と湿気を相殺するには到底足りていなかった。
詩織もすっかり元気を取り戻し、いつもの日常が戻ってきた。四時間目の終了を告げるチャイムが校舎に鳴り響いた瞬間、教室の空気は限界まで膨らんだ風船が割れたように弾けた。
「終わったぁぁぁ……!」
「古典死んだ! 完全に赤点!」
「物理も終わったわ。てか今回の範囲おかしくね?」
「お前、毎回死んでんな。夏休み補習確定乙」
教室のあちこで、解放感と疲労、そしてテストの手応えへの絶望が入り混じった気の抜けた会話が飛び交う。机に突っ伏してうめき声を上げる者、解答用紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てようとする者、すでに夏休みの予定を大声で話し始める者。誰もがここ数週間のピリピリとした緊張感から解放され、どことなく浮き足立っていた。
湊は自席で数学の参考書を閉じ、小さく、けれど深く息を吐き出した。
ようやく終わった。それが率直な感想だった。
この数週間、赤点だ、進路だ、模試だと、誰もが余裕を失っていた空気が、今は嘘みたいに緩んでいる。
その時、教室の前方のスライドドアがガラリと荒々しく開いた。
出欠簿を丸めた体育教師が、首にタオルを巻いた気怠そうな姿で入ってくる。
「はいはい、騒ぐなー。席つけー」
教師が教卓をバンバンと叩くが、生徒たちのざわめきはすぐには収まらない。
「今日の午後、予定通りプール掃除な。男女合同。サボったやつは問答無用で夏休みのプール補習行きだから覚悟しとけよ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、教室が一気にざわめきに包まれた。
「うわ、マジかよ……」
「暑すぎんだろ、今日三十五度あるぞ」
「でも水撒くのちょっと楽しみじゃね?」
「ていうかプール掃除とか小学生以来なんだけど!」
教師は黒板に大雑把な担当エリア分けをチョークで殴り書きしながら続ける。
「着替えは体操服かジャージな。制服のままやるバカはいないと思うが。あと、滑るからふざけすぎんなよー。去年みたいに水のないプールに落ちて足捻るやつが出たら即掃除中止だからな」
「それ矢野じゃん!」
「今年も落ちろよ、矢野!」
「うるせえ! あれは事故だ!」
顔を真っ赤にして抗議する矢野に、クラス中から容赦ない笑い声が浴びせられる。
そんな騒がしい熱気の中、湊はふと斜め前の窓際へ視線を向けた。
隣の席の春奈に何かを言われた詩織が、肩を震わせてくすくすと笑っている。
ここ数週間、ずっと張り詰めていたその横顔が、今日はやけに柔らかかった。
*
昼休みを挟み、午後の日差しがさらにきつさを増した頃。
男子更衣室で指定のジャージに着替えた湊は、廊下に出たところで一瞬だけ足を止めた。
女子更衣室の前。
いつもなら窮屈そうな制服に身を包み、身だしなみに細心の注意を払っている詩織が、今日は紺色のハーフパンツに、学校指定の白いTシャツというラフな姿でそこに立っていた。
少し大きめのTシャツの襟元から覗く、白い鎖骨。制服の長いプリーツスカートに隠されていた細い脚。
長い髪は高い位置で一つにまとめられ、うなじがあらわになっている。首元には汗を拭くためのスポーツタオルが緩く巻かれていた。
家では、毎日のように見ているはずのラフな格好だ。
それなのに、学校という場所で見ると、まるで別人のように新鮮に映った。
あまりに無防備で涼しげな彼女の姿に、湊は思わずうなじや脚へ視線を向けてしまい、慌てて目を逸らしてごくりと喉の奥を鳴らした。
不自然な挙動に気づいたのか、春奈と談笑していた詩織がこちらを振り向いた。
「あ、湊くん」
詩織が軽く手を上げる。湊は少しだけ気まずさを覚えながら、歩み寄った。
詩織は自分のTシャツの裾を軽く引っ張り、少し不安そうに上目遣いで湊を覗き込んできた。
「……あの、変、ですか?」
「は?」
「こういう格好で学校にいるの、なんだかすごく久しぶりで……浮いてないかなって」
湊はぶっきらぼうに視線を逸らし、自分のジャージの裾を無意味に引っ張った。
「……いや。別に」
「別に?」
「……似合ってる」
蝉の声にかき消されそうなほど小さな声だった。
だが、詩織は一瞬目を丸くした後、花が綻ぶように嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その柔らかい声が、夏の湿った風の中に溶けていく。
湊が居心地の悪さに首の後ろを掻いていると、横からニヤニヤとした笑みを浮かべた春菜が割り込んできた。
「はいはいそこー! 掃除前に廊下でイチャつかないのー!」
「誰がイチャついてる」
「え、違うの? どう見ても新婚夫婦の休日の朝なんだけど」
「違いますっ」
詩織が慌てて否定し、顔を赤くする。春奈がケラケラと笑い声を上げた。
「ほら、行くよ詩織ちゃん。出遅れると面倒な場所やらされるから」
「あ、うん。……じゃあ、後でね、湊くん」
春奈に手を引かれながら、詩織が振り返って小さく手を振る。
湊は無言で軽く手を振り返し、二人の背中を見送った。
*
プールサイドに足を踏み入れると、底に溜まった泥と藻の青臭い匂いが鼻を突いた。
半年以上放置されていた水のないコンクリートの底は太陽の熱を吸収し、じりじりとシューズの裏から熱を伝えてくる。
生徒たちはデッキブラシやタワシを手にし、緑色にこびりついた汚れを汗だくになってこすり落としていた。
「はい、男子はプールの底! 女子はプールサイドとシャワー室周辺! ホースは順番に使えよー!」
教師の号令とともに、一斉に作業が始まる。
デッキブラシがコンクリートを擦るシャカシャカという音。ホースから噴き出す水音。照り返しの熱気。
プールは、あっという間に喧騒に包まれた。
「矢野! そっち水流せ!」
「うおっ、冷てぇ! 足にかけるな!」
「きゃっ!? ちょ、水はねた!」
「お前ら遊ぶなって言ってんだろ!」
教師の怒鳴り声すら、どこか夏の騒ぎに溶け込んでいる。
最初は真面目に泥を掻き出していた生徒たちも、暑さに耐えかねて次第にホースの水を自分たちに向け始め、それは徐々に「作業」から「水遊び」へと変容していった。
湊はバケツで水を運んでいたが、ふと視線を横に向けると、少し離れたプールサイドで春奈と詩織が掃除をしていた。
「詩織ちゃん、そっち水流すよー!」
「え、ちょっ――きゃっ!」
春菜がホースの先をわざと詩織の方へ向け、勢いよく水が放たれる。
詩織の足元で水しぶきが上がり、Tシャツの裾が濡れた。
「冷たい……! 奈々ちゃん、やめてよー!」
「あはは、ごめんごめん! 手元狂っちゃった!」
春奈は全く悪びれる様子もなく、カラカラと笑っている。
湊はバケツを持ったまま、その光景に少しだけ目を細めた。
「奈々ちゃんっ!」
詩織が笑いながら、プールサイドに置かれていた別のホースを掴み上げた。
勢いよく噴き出した水が、逃げようとした春奈のジャージを直撃し、「きゃあっ!」という悲鳴と笑い声が同時に弾けた。
春奈が逃げ回り、詩織がホースを持って追いかける。
まとめた髪が解けかかり、濡れた前髪が頬に張り付いている。Tシャツの裾には泥水が跳ね、白いスニーカーは完全にずぶ濡れになっていた。
それでも詩織は気にした様子もなく、子どもみたいにお腹を抱えて笑っている。
数ヶ月前の彼女なら、誰かに水をかけられれば顔を青くして縮こまり、視線を気にして、自分が「目立っていないか」を常に確認していたはずだ。
だが、今は違う。
彼女は今、完全に「普通の女子高生」として、このクラスの輪の中に存在していた。
「おい阿久津! ぼーっとしてんな!」
突然、横から大量の水がバシャッと飛んできた。
湊が反射的に顔をしかめると、ホースを持った矢野がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「ははっ、油断しすぎだろ!」
「お前……仕事の邪魔だ」
「奥さんばっか見てるからだろーが!」
「見てねえよ」
湊が短く返し、手元のバケツの水を矢野の足元に向かって勢いよくぶちまける。
「うおっ!? やめろ、靴濡れる!」
矢野が大げさに飛び退いた。
その騒ぎを聞きつけてか、今度は春奈と詩織がこちらに向かってきた。
「湊くーん! 詩織ちゃん止めてー!」
「奈々ちゃんが先です!」
「絶対楽しんでるじゃん!」
詩織が笑いながらホースを湊と矢野の方へ向ける。
水しぶきが太陽光を反射し、きらきらと白く散った。周囲の男子たちも「おおっ、なんだなんだ」「俺にも貸せ!」と巻き込まれ、もはや誰が掃除をしているのか分からないほどのカオスな水かけ騒動に発展した。
「うおっ!?」
「ちょ、押すな!」
「うおぉぉっ、滑っ――!」
ホースの水を避けようと後ずさりした矢野が、濡れたコンクリートで派手に足を取られた。
腕を大きく回してバランスを取ろうとしたものの、無情にも重力に逆らえず、バケツを抱えたまま尻からプールの底へ向かって落下していく。
ドシャアアアッ!!
盛大な水音と泥はね。
プールの底の、まだ掃除が終わっていない緑色の水たまりのど真ん中に、矢野が尻餅をついて落下した。
一瞬の、完全な静寂。
そして。
「お前またかよ!!」
「去年と全く同じ落ち方してんじゃねえか!!」
「学習しろアホ!」
「ダッセェェェ!!」
クラス中が、爆発したみたいに笑い出した。
男子も女子も、腹を抱えて笑い転げる。
「いててて……おい! なんで俺が落ちると毎回そんなウケんだよ!」
矢野が泥まみれになりながら抗議するが、それがさらに笑いを誘う。
「お前がアホだからだろ!」
「自業自得だ!」
「だからふざけるなって言っただろお前らぁ!!」
教師が怒鳴りながら走ってくるが、その顔も笑いをこらえきれずに引きつっていた。
爆笑の渦。
詩織もホースを手放し、膝に手をついて笑い転げている。春奈は隣で涙を拭いながらヒィヒィと声を上げている。泥だらけの矢野が、周囲に悪態をつきながら立ち上がる。
その光景の中心で、湊はゆっくりと周囲を見渡した。
誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが水をかける。
そのすべての喧騒が、熱を帯びた夏の空気と一緒に自分の肌にぶつかってくる。
ああ。
自分は今、この輪の中にいるんだ。
ほんの数ヶ月前まで、世界は敵だらけだった。大人から逃げ、同級生の目から隠れ、ただ息を潜めて生き延びることだけを考えていた。
それが今、どうだ。
誰も自分たちを排除しようとしない。誰も自分たちを特別扱いしない。
ただの三年B組の生徒として、このバカバカしくて騒がしい空間のど真ん中に立っている。
ふいに、肩の奥にあった強張りが、スッと抜けていくのを感じた。
気付けば、喉の奥から自分でも予想していなかった乾いた音が漏れていた。
「……っ、はは」
湊が笑った。
腹を抱えるほどではない。けれど、堪えきれずに自然とこぼれ落ちたような、無防備な笑い。
それに気づいた周囲の生徒たちが、大げさなほどに目を丸くする。
「うわ、阿久津が笑った!」
「初めて見たんだけど!」
「おい、この夏一番の奇跡だぞ!」
「写真撮れ写真!」
クラスメイトたちが野次を飛ばす。
だが、その声にトゲはない。
ただの、クラスの面白い出来事に対する、ありふれた突っ込みだ。
「うるさい。お前らがアホみたいに騒ぐからだろ」
湊は少しだけバツが悪そうにそっぽを向いたが、口元の緩みはどうしても消せなかった。
その様子を見て、クラスメイトたちは「照れてんぞ!」「おい阿久津も落とせ!」とさらに囃し立てる。
誰かがホースの水を湊に向け、湊がバケツで応戦する。
詩織がまた笑い出し、春奈が加勢する。
水しぶきが上がり、誰かが転び、また笑い声が起きる。
その騒がしさが、今の湊にはただただ心地よかった。
*
掃除が終わる頃には、空は淡いオレンジ色に染まり始めていた。
綺麗になったプールの底が、夕暮れの光を反射して青白く光っている。
クタクタになった生徒たちが、プールサイドに座り込んだり、寝転がったりしていた。
湊と詩織も、少し離れたコンクリートの縁に並んで腰を下ろしていた。
濡れたTシャツとジャージが、夕方の風に吹かれて少しだけ冷たい。
火照った身体には、それがかえって心地よかった。
春奈やクラスメイトたちは、もう二人を特別扱いしなかった。
隣にいることも、名前を呼び合うことも、並んで座っていることも、全部がクラスの日常の風景として完全に溶け込んでいた。
詩織がタオルで濡れた髪を拭きながら、隣の湊を覗き込んだ。
泥が少し跳ねた頬。ほどけかかった髪。
それでも、その表情には一点の曇りもなかった。
「……楽しかったですね、今日」
詩織がぽつりと、心底満たされたような声で呟く。
湊は、グラウンドの向こうに沈みかけている夕陽を見つめながら、少しだけ考えた。
そして、濡れた前髪を無造作にかき上げ、静かに返した。
「……まあ、悪くなかった」
「ふふっ」
詩織が小さく笑う。
夕陽に長く伸びた二人の影が、アスファルトの上を寄り添うように滑っていく。
「おい湊ー! お前ら早く着替えてこいよー!」
「詩織ちゃん、置いてくよー!」
更衣室の方から、矢野や春奈の騒がしい声が飛んでくる。
「お前らさっさとホース片付けろ!!」
それに被さるように、体育教師の怒鳴り声が響いた。
詩織が「あはは、怒られてる」と笑って立ち上がる。湊も小さく息を吐いて、その後に続いた。
うるさくて、騒がしくて、どこにでもある放課後。
背後では、まだクラスメイトたちのバカバカしい笑い声が校舎に反響していた。
遅れて始まった二人の夏は、この心地よい喧騒とともに、確かに幕を開けていた。




