第80話:保健室
七月中旬。
長かった戻り梅雨が完全に明け、街は本格的な真夏の湿った熱気に包まれていた。
朝からジリジリとアスファルトを焦がすような白い日差しが照りつけ、開け放たれた窓の外からは、蝉の鳴き声が絶え間なく響いている。夜になっても気温は下がらず、エアコンを弱くつけたままでも、寝苦しい夜が連日続いていた。
その朝、リビングのテーブルでトーストを齧っていた湊は、向かいに座る詩織の様子が少しだけおかしいことに気がついていた。
いつもなら丁寧にジャムを塗る手が止まり、視線がぼんやりと宙を彷徨っている。元々白い肌が、今日は血の気が引いたようにさらに白く見えた。
「……おい」
「えっ、あ、はい。なんですか?」
湊が声をかけると、詩織はビクッと肩を揺らして顔を上げた。
「顔色悪いぞ。具合でも悪いのか」
「いえ、大丈夫です。ちょっと、昨日の夜暑くて寝苦しかっただけで……」
詩織は誤魔化すようにトーストを一口齧り、小さく笑ってみせた。
だが、湊の目には誤魔化しきれていない。期末テストを一週間後に控え、ここ数日、詩織は明らかに無理をして机に向かっていた。昨夜も、湊が先に寝た後、彼女の部屋のドアの下からは日付が変わる頃まで明かりが漏れていたのを湊は知っている。
それに加えて、この急激な猛暑だ。体力が削られていないはずがない。
「無理なら休め」
「本当に平気ですから。テスト前ですし、休めません」
頑ななその態度に、湊は小さく息を吐いた。これ以上言っても聞かないことは分かっている。詩織はいつもそうだ。自分に迷惑をかけまいとして、限界を超えても平気な顔をしようとする。
湊は無言のまま、自分のマグカップに残った麦茶を飲み干した。
「……今日、調子が悪くなったら、すぐに言え。倒れるまで我慢するなよ」
「分かってます。大丈夫ですから」
詩織は申し訳なさそうに微笑み、重い足取りで通学カバンを手に取った。
*
午前中の授業。三年B組の教室は、クーラーが稼働しているにもかかわらず、三十人以上の人間の熱気とテスト前の異様な焦燥感で、空気が重く淀んでいた。
教室のあちこちに積まれた参考書。休み時間になるたび飛び交う、「赤点やばい」「古典捨てるかも」といった切羽詰まった悲鳴。
四時間目の日本史。
黒板にチョークが打ち付けられる単調な音が響く中、斜め前の席に座る詩織の背中が、先ほどから不自然に揺れている。ノートを取る手が異常に遅く、俯いたまま、何度も小さく瞬きを繰り返していた。
湊は問題集を解く手を止め、黙ってその背中を見つめていた。
限界が近いのは明らかだった。
そして次の瞬間。
カタン、と小さな音が響いた。
詩織の指先から力が抜け、シャープペンシルが床に転がり落ちたのだ。
詩織は慌てて拾おうとしたが、めまいがしたのか、そのまま机に両手をついて小さく息を飲んだ。
「詩織ちゃん?」
隣の席の春菜が、すぐに異変に気づいて小声で囁いた。
「顔、真っ白だよ。平気?」
「うん……ちょっと、寝不足かも……」
詩織は力なく微笑もうとしたが、その声はひどく掠れていた。額には薄く冷や汗がにじんでいる。
春菜は少しだけ眉をひそめると、すっと手を伸ばして詩織の額に触れた。
「熱はなさそうだけど……顔色やばいよ。保健室、行こ」
「でも、授業が……」
「いいから。ほら、先生ー! 冬馬さんが具合悪いみたいなんで、保健室連れてきまーす」
春菜は有無を言わさず立ち上がり、教壇の教師に向かって堂々と声を上げた。
教師が「ああ、頼む。無理させるなよ」と頷く。春菜は詩織の腕を引き、ふらつく彼女を支えながら教室を出て行った。
湊はその一連のやり取りを、無言で見つめていた。
ふと、気がつく。
ほんの数ヶ月前なら、詩織が体調を崩しても、クラスの誰もあんなに自然に声をかけることはなかった。「冬馬さん、大丈夫?」と、腫れ物に触るように遠巻きに声をかけるのが精一杯で、そこには明確な『壁』が存在していた。
だが今の春菜の態度は、完全に『普通の友達』に対するそれだった。
*
十分後。
教室のスピーカーから、チロン、と短いチャイムの音が鳴り響いた。
『三年B組の、阿久津くん。至急、保健室まで来てください』
事務的な、けれど少しだけ気怠げな保健医の声だった。
そのアナウンスが流れた瞬間、教室内の空気が一瞬だけ止まった。教師の板書の手が止まり、生徒たちの視線が一斉に湊へと向く。
普通、女子生徒が倒れたからといって、クラスメイトの男子生徒が校内放送で個別に呼び出されることなどあり得ない。それは本来、家族や保護者に向けられるべき『身内』としての扱いだ。
静まり返る教室。
その沈黙を破ったのは、隣の席の矢野だった。
「おーい阿久津。奥さんダウンしてるぞ。早く行ってやれよ」
矢野がニヤニヤと笑いながら茶化す。
その言葉を合図にしたように、クラス中からドッと笑い声が起こった。
「うわ、学校公認の旦那じゃん」
「阿久津、早く行かないと怒られるぞー」
「保健室だってさ、行ってやれよ」
相沢たちまでが普通にそう言う。
そこにあるのは、陰湿な冷やかしでも、ルールを逸脱した者への糾弾でもなかった。
ただの、クラスメイトへの悪意のないヤジ。
湊は表情を変えず、ただ無言で席を立った。
教師も「……よし、阿久津。荷物まとめて行ってこい」と、呆れたように、けれど咎めることなく許可を出す。
誰も、湊を止めない。誰も、好奇の目でヒソヒソと詮索しない。
むしろ、教室中が「早く行ってやれ」という空気に満ちていた。
湊は自分のカバンを肩に掛け、クラスメイトたちの軽い野次を背中に浴びながら、迷いなく教室を後にした。
*
保健室のドアを開けると、消毒液と湿布の入り混じった、特有の匂いが鼻を突いた。
夏の日差しを遮るように引かれた白いカーテンの奥から、保健医の女性が顔を出す。
「あ、阿久津くん。ごめんね、授業中に」
「……いえ。あいつは」
「奥のベッド。熱は大したことないんだけど、軽い貧血と睡眠不足ね。クーラーに当たって体が冷えてたみたいだから、少し休ませるわ」
保健医は、湊のことを『保護者』や『家族』に対するような、ごく自然なトーンで扱っていた。そこに、高校生同士の同棲に対する偏見や厄介者を扱うような空気は一切ない。
湊は小さく一礼し、カーテンの奥へと足を踏み入れた。
薄暗い空間。真っ白なシーツに包まれたベッドの上で、詩織が浅い寝息を立てていた。
顔色は相変わらず優れないが、先ほどよりは少しだけ呼吸が落ち着いているように見える。
湊は、ベッドの脇に置かれた丸椅子に、音を立てずに腰を下ろした。
静かな保健室。
遠くのグラウンドから聞こえる運動部の声と、窓の外の蝉時雨だけが、この空間を満たしている。
数分後。
シーツが微かに擦れる音がして、詩織がゆっくりと目を開けた。
寝惚けたように何度か瞬きをした後、ベッドの横に座る湊の姿を視界に捉え、彼女の瞳がわずかに見開かれる。
「……湊くん」
その瞬間、詩織の顔に浮かんだのは、驚きではなく、ひどく安心しきったような柔らかい表情だった。
「……起きたか」
「授業……抜けさせちゃって、ごめんなさい」
「別にいい。どうせ日本史だ」
湊は短く答え、丸椅子に深く座り直した。
「昨日、無理しただろ」
少しの沈黙の後、湊が静かに言うと、詩織はシーツの縁をギュッと握りしめ、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「……ちょっと、だけ」
「テストが終わるまで、夜更かしは禁止だ。十二時には電気を消す」
「……はい」
詩織は素直に頷いた後、ふと悪戯っぽく口角を上げた。
「でも、それ、湊くんもですよ」
「……俺は平気だ」
「ダメです。連帯責任です」
微かな熱を帯びた声で、詩織が小さく笑う。
湊も、思わず呆れたように小さく息を吐いた。
そこにあるのは、互いを気遣い、生活のルールを押し付け合う、どこにでもいる『家族』のようなやり取りだった。
カーテンがシャッと開き、保健医が顔を覗かせる。
「冬馬さん、少し顔色良くなったわね。……阿久津くん、冬馬さん、帰れそうなら一緒に帰る? 先生の方から、担任には早退の連絡入れといてあげるけど」
あまりにも自然な提案だった。
まるで最初から、それが当然の対応だったかのように。
「……はい。連れて帰ります」
湊が答えると、詩織はベッドの上で、嬉しそうに目を細めた。
*
湊が詩織の荷物を取りに三年B組の教室へ戻ると、授業はすでに終わりのホームルームへと切り替わるところだった。
「お、旦那帰還」
矢野がニヤつく。
「完全に保護者枠だった?」
「うるさい」
湊は詩織のカバンを手に取った。
前席の春菜が振り返り、矢野の机をバンッと軽く叩く。
「はいはい、矢野は静かに。湊、詩織ちゃんにしっかり休むように言っといてね。プリントの範囲はあとでLINEで送っとくから」
「……助かる」
湊が詩織のカバンを肩に掛けると、周囲のクラスメイトたちも「お大事になー」「早く帰って寝かせとけよー」と、思い思いに声をかけてきた。
誰も騒ぎ立てない。誰も、二人を特別視してヒソヒソと詮索しない。
ただ、体調を崩したクラスメイトと、その付き添いに対する、ごく普通の労わりの言葉。
*
昼過ぎ。早めに帰宅した自宅の部屋は、日中の熱気がこもり、むっとするような暑さに包まれていた。
湊は詩織をソファに座らせると、すぐにエアコンの電源を入れ、設定温度を少し低めにした。
静かな部屋に、冷風が吹き出す稼働音が響き始める。
湊は洗面所へ向かい、救急箱から冷えピタを取り出した。キッチンで冷蔵庫を開け、よく冷えた麦茶と、エネルギー補給用のゼリー飲料をトレイに乗せる。
リビングへ戻ると、詩織はソファの背もたれに深く寄りかかり、目を閉じていた。
「ほら。とりあえずこれ飲んで、横になっとけ。脱水になるぞ」
湊がゼリー飲料のキャップを開けて手渡すと、詩織は少し驚いたように受け取った。
続けて、湊が手際よく冷えピタのフィルムを剥がし、彼女の額にそっと貼り付ける。ひんやりとした感覚に、詩織が心地よさそうに小さく息を吐いた。
「……手慣れてますね」
「前にも、お前が熱出したことがあっただろ」
「あ……あの時ですね」
同棲を始めたばかりの頃、文化祭の準備期間に心労と疲労で詩織が寝込んだ日のことを思い出し、彼女は照れくさそうに小さく笑った。
あの時は、互いにどう接していいか分からず、不器用な距離感が横たわっていた。だが今は、湊の手つきにも、詩織の態度にも、余計な緊張はない。
詩織はソファにゆっくりと身を横たえ、タオルケットを胸元まで引き上げた。
窓の外では、まだ真夏の日差しが白く輝き、蝉の鳴き声が遠く聞こえている。だが、冷房の効いたこの部屋の中だけは、外界から完全に切り離されたように静かで、涼しかった。
「……前だったら」
不意に、ソファに横たわった詩織が、天井を見つめながらぽつりと呟いた。
「こんなの、絶対無理でしたね」
「何がだ」
「学校で私が倒れて、湊くんが放送で呼ばれて、みんなの前で一緒に早退して帰ってくるなんて……」
詩織は、額の冷えピタをそっと指先で押さえながら、静かに言葉を紡ぐ。
「前だったら、誰かに見られるだけで怖かった。二人の関係がバレたら、また大人がやってきて、引き離されるんじゃないかって……ずっと怯えてました」
少しの沈黙。
エアコンの低い駆動音だけが、部屋の中に響いている。
「でも、今日」
詩織は、ソファの隙間から湊の方へと顔を向けた。
その瞳は、熱のせいだけではない、どこか満ち足りたような柔らかい光を帯びていた。
「私が保健室に運ばれても、湊くんが教室を出ていっても……誰も、変な顔をしませんでした。誰も、私たちを責めなかった」
「……」
「それが、すごく……不思議で、嬉しかったんです」
湊は、手元の麦茶の入ったグラスを見つめた。
氷が溶け、カラン、と小さな音を立てる。
二人が戦ってきた数ヶ月間。世界は常に敵であり、いつ崩れ去ってもおかしくない薄氷の上を、息を潜めて歩き続けてきた。
――でも、もう以前みたいな不安はなかった。
湊はグラスをテーブルに置き、窓の向こうの夏空を見上げた。
「……慣れたんだろ。周りの連中も、学校も。……それに、俺たちもな」
「……はい」
詩織は、心の底から安堵したような、深く静かな声で頷いた。
「ゆっくり寝ろ。夕飯は、消化のいいものを作っておく」
「ありがとうございます……おやすみなさい、湊くん」
詩織はゆっくりと目を閉じ、やがて規則正しい、静かな寝息を立て始めた。
湊はソファの横に座ったまま、その穏やかな寝顔をしばらく無言で見つめていた。
*
翌日の朝。
十分な睡眠をとった詩織の顔色は、見違えるように良くなっていた。
ただの疲労と寝不足だったのだ。
朝のホームルーム前。
二人が並んで三年B組の教室に入ると、矢野がニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「よお、熱は下がったか?」
「ああ」
「昨日も湊が手厚く看病したんだろ。お熱いねえ」
「……うるさい」
春菜も「やっぱ湊、詩織ちゃんにはデレデレじゃん」と笑いながらノートを広げている。
でも、誰もそれ以上は踏み込んでこない。冷やかしはしない。
そういうのは、もう当たり前になっていたから。
詩織は自分の席に座り、カバンから筆箱を取り出しながら、小さく笑った。
「……普通ですね」
その呟きは、斜め後ろに座る湊だけに届いた。
「そうだな」
湊も、いつもと変わらない平坦な声で答える。
外の世界は、相変わらず眩しくて騒がしい。
それでも、二人の距離は、もう確実に変わっていた。
隠す必要のない距離。認められた距離へ。
朝のチャイムが鳴り響く中、湊は静かに参考書を開き、いつもの日常へと戻っていった。




