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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第79話:期末テスト

 長かった戻り梅雨が去り、街にはいよいよ真夏の息苦しい熱気が戻ってきていた。

 教室の窓際では、朝からけたたましい蝉の声が響き渡っている。期末テストを一週間後に控えた教室の空気は、どこか浮き足立ち、落ち着きを失っていた。


 休み時間になるたび、あちこちの席から「今回マジで赤点やばい」「古典捨てるか迷う」といった切羽詰まった声が飛び交う。机の上に広げられた単語帳や問題集、そして赤い暗記シート。

 そんな喧騒の中でも、湊と詩織の周囲だけは、不思議なほど静かな空間が保たれていた。


 昼休み。

 湊が自分の席で英語の長文問題集を解いていると、斜め前の席から詩織がそっと振り返った。


「……湊くん。ここの訳、これで合ってますか?」


 彼女が控えめにノートを差し出してくる。

 湊はシャープペンシルを置き、数秒だけその英文と訳に目を通した。


「ここ、主語が抜けてる」


 湊は赤ペンを手に取り、ノートに小さく書き込んだ。


「あ、ほんとだ……」

「関係代名詞の先、修飾先を見落としてるから文意がねじれてるんだ」

「なるほど……ありがとうございます」


 それだけの、短いやり取り。

 だが、その呼吸はあまりにも自然だった。

 一ヶ月前なら、二人が言葉を交わすだけでクラス中の視線を集め、周囲の空気が強張っていたはずだ。だが今は違う。

 クラスメイトたちはすでに、「阿久津と冬馬はいつも一緒に勉強している」という風景を、当たり前の日常として受け入れていた。誰もあからさまな好奇心を向けないし、ヒソヒソ話もしない。


 その様子を後ろの席から見ていた矢野が、頬杖をつきながらニヤリと笑った。


「よお。今日も夫婦の家庭教師タイムか。熱心だな」

「……うるさい」

「てかお前ら、家帰ってまで一緒に勉強してんだろ? 同棲生活って、意外と大変じゃねえの?」

「別に」

「その『別に』で成立してんのが一番怖えよ」


 矢野が大げさに肩をすくめると、近くで聞いていた春奈が吹き出した。


「でも実際、詩織ちゃん最近すごく成績安定したよね。湊、教え方うまいでしょ」

「え、そう……かな?」


 突然話を振られ、詩織が少しだけ恥ずかしそうに頬を掻く。


「他人にはめちゃくちゃ雑な態度取るくせに、詩織ちゃんにはちゃんと言うこと言ってあげるんだねー」

「……否定できねえ」


 相沢が横から口を挟み、矢野が声を上げて笑う。つられて、周囲のクラスメイトたちからも軽い笑い声が漏れた。


 そこにあるのは、完全に悪意のない、ただのクラスメイトとしての「いじり」だった。

 湊は呆れたように小さく息を吐き、視線を問題集に戻す。


「……人に教えると、自分の知識も整理できる。それだけだ」

「はいはい、教育パパ乙」


 矢野が茶化すように締めくくり、再び教室はテスト前の雑談へと戻っていく。


 詩織は少しだけ伏し目がちにノートを見つめていたが、その口元には、隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。


 *


 放課後。

 二人はどこにも寄り道せず、夕飯の買い物だけを済ませて、真っ直ぐに自宅へと帰った。


 夜九時過ぎ。

 夕食を終えたリビングのテーブルには、学校から持ち帰った参考書とノート、そして筆記用具が広げられている。

 窓を閉め切った部屋の中では、エアコンが静かな駆動音を立て、隅に置かれた除湿機が低いモーター音を響かせている。麦茶の入ったグラスの表面には、冷たい水滴がびっしりと張り付いていた。


 湊は自分の世界史のノートをまとめながら、時折、向かい側に座る詩織へ視線を向ける。

 彼女は、数学の図形問題と睨めっこをしたまま、シャープペンシルの後端でコツコツとこめかみを叩いていた。


「……湊くん」


 数分後、ついに降参したように詩織が声を上げた。


「ん?」

「ここ、なんでこの展開式になるんですか? 何度計算しても合わなくて……」


 詩織がノートを両手で持ち、テーブル越しにひょいと差し出してくる。

 湊は自分のノートを閉じると、椅子から立ち上がった。そして、テーブルを回り込み、詩織の『隣』へと腰を下ろした。


 以前なら、テーブル越しの向かい合わせのまま、ノートを反転させて教えていた。

 だが今は、教えるために自然と隣へ移動するようになっている。


「貸せ」


 湊がノートを引き寄せ、詩織の手からシャープペンシルを受け取る。

 余白にスラスラと数式を書き込みながら、間違えている箇所を指摘し始めた。


「ここの符号の処理が間違ってる。マイナスで括り出す時に、後ろの項まで反転させてない」

「あ……本当だ」


 覗き込む詩織の顔が、湊の肩のすぐ横にある。

 湊が式を書き進めるたび、腕が僅かに動き、二人の肩がかすかに触れ合った。

 詩織の少し湿気を帯びた髪の毛が、湊の半袖から伸びる腕にさらりと掛かる。近すぎる距離と、普段より鮮明に感じる彼女の気配に、湊は一瞬だけ思考を止めた。


 ふと、詩織の動きがピタリと止まる。

 いつもなら、肩が触れれば「ごめんなさい」と小さく謝って、すぐに少しだけ距離を取っていたはずだ。

 だが、今の詩織は、少し身体を固くしたものの、決して離れようとはしなかった。


「……湊くん」

「ん」

「……近いです、ね」


 詩織の声は、少しだけ上擦っていた。

 湊は視線をノートに落としたまま、平然と答える。


「見えないだろ、遠いと」

「そ、そういう意味じゃなくて……」


 横目で見ると、詩織の耳の裏がほんのりと赤く染まっているのが分かった。

 湊は、その赤さに気づかないフリをして、そのまま解説を続行した。


「で、ここを括ったら、あとは公式に当てはめるだけだ。分かるか」

「……は、はい。分かります」


 詩織は慌てて頷いたが、その胸の奥で早鐘のように打つ心音は、湊にも聞こえそうなほどだった。


 *


 深夜十一時半。

 外の喧騒はとうに静まり返り、窓の外からは微かに虫の声だけが聞こえてくる。


 テーブルに向かって並んで座ったまま、二人は黙々とそれぞれの課題を進めていた。

 だが、詩織のシャープペンシルの動きが、先ほどから明らかに鈍くなっている。時折、コクンと小さく首が揺れ、慌てて目を見開く動作を繰り返していた。


 湊は自分の問題集から目を離し、横に座る詩織を見た。


「……寝ろ」

「……まだ、平気です。明日までに、このページ終わらせないと……」


 詩織は強がりを言うが、その声は完全にまどろみの中に沈みかけていた。

 無理もない。期末テストのプレッシャーと、連日の蒸し暑さ。体力的にはとっくに限界が来ているはずだった。


「いいから寝ろ。効率が落ちるだけだ」

「うぅ……でも……」


 詩織がノートの文字を必死に睨みつけた、その直後だった。

 カクン、と大きく揺れた彼女の頭が、重力に逆らうのをやめ、隣に座る湊の右肩にこつんと乗った。


 微かな衝撃。

 湊は、シャープペンシルを持つ手を止めた。


 数ヶ月前の彼女なら、ハッと飛び起きて「すみません!」と顔を真っ青にして平謝りしていただろう。湊に触れてしまったことへの恐怖と、怒られるのではないかという強迫観念で。

 だが、今は違う。


「……ちょっと、だけ……」


 半分眠りに落ちたような声で小さく呟くと、詩織は湊の肩にゆっくりと体重を預けてきた。

 すり寄るような、完全に安心しきった動作だった。


 湊の肩に、詩織の柔らかな髪と、静かな寝息の規則正しいリズムが伝わってくる。

 湊は、動揺して肩を引くような真似はしなかった。ただ、小さく息を吐き出し、乱れた彼女のノートをそっと閉じた。


「……五分だけだからな」


 その言葉が彼女の耳に届いているかは分からない。

 湊は、右肩にわずかな重みを感じたまま、左手で自分の単語帳のページをゆっくりとめくった。


 *


 五分後。

 湊がそっと肩を外し、静かに立ち上がってキッチンへ向かう。

 戻ってくると、詩織はテーブルに突っ伏したまま、まだうとうとしていた。


 コトリ、と。

 湊は二つのマグカップをテーブルに置いた。


「ほら、起きろ」

「……ん……」


 詩織がゆっくりと身を起こし、目を擦る。そして、目の前に置かれたマグカップから立ち上る湯気を見て、小さく瞬きをした。


「……コーヒー?」

「薄めにしてある」


 詩織は両手でマグカップを受け取り、ふうふうと息を吹きかけてから、恐る恐る一口飲んだ。


「……苦いです」

「子供か」

「だって、コーヒーなんて普段飲まないですもん……」


 詩織は不満そうに唇を尖らせた後、湊の手元にあるマグカップを見た。


「湊くんのは?」

「ブラック」

「よく飲めますね、そんな苦いの……」


 詩織が呆れたように言い、小さく笑い声を漏らす。

 湊は向かいの席に座り直し、自分のマグカップを手に取った。コーヒーの深く苦い香りが、部屋の中にゆっくりと広がっていく。


 静かな夜だった。

 ほんの数ヶ月前まで、二人は「生き延びるため」に一緒にいた。

 大人たちに見つからないように。社会のシステムに引き裂かれないように。誰にも壊されず、奪われないために、ただ必死で同じ場所にしがみついていた。


 けれど、今は違う。

 眠くなればコーヒーを淹れ、分からない問題があれば隣で教え、同じ机で当たり前のようにテスト勉強をしている。

 それはもう、特別な逃避行ではなかった。

 どこにでもある、けれど二人にとっては奇跡のような、穏やかな共同生活だった。


「……湊くん」


 マグカップの縁を両手でなぞりながら、詩織がぽつりと声を掛けた。


「ん?」

「なんか、普通ですね」

「何がだ」

「こういうの」


 詩織は、温かいマグカップを胸元で抱え込みながら、少しだけ恥ずかしそうに、けれど心底嬉しそうに笑った。


「一緒にテスト勉強して、眠くなって、コーヒー飲んで……」

「……そうだな」

「去年の今頃は……こんなふうに、誰かと同じ机を囲んで笑ってるなんて、想像もしてませんでした」


 湊はコーヒーを一口飲み、小さく頷いた。


「……俺もだ」


 少しの間、静寂が降りる。

 詩織は、マグカップの中の揺れる水面を見つめながら、静かな声で言葉を継いだ。


「でも、今、結構好きです。こういうの」


 湊は、参考書のページをめくろうとしていた手を、ピタリと止めた。

 視線は文字の羅列に向けられたまま、動かない。

 ただ、エアコンの静かな風音だけが、二人の間を通り抜けていく。


「……そうか」


 湊の返事は、いつも通り短く、平坦なものだった。

 だが、マグカップを持つ詩織の位置からは、湊の耳の裏が、ほんのりと不自然な赤みを帯びているのがはっきりと見えていた。


 窓の外では、夏の夜風が静かに木々を揺らしている。

 特別な事件は、何も起きない。

 誰かが傷つくことも、怯えることもない。

 ただ、同じ机を挟んで、同じ夜を過ごし、同じ時間を重ねていく。


 毎日続いていく、その退屈で愛おしい“普通”。

 それが、今の二人にとっては、何よりも尊く、甘い幸せだった。

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