↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

79/88

第78話:雨の帰り道

 七月の朝。

 梅雨明けを目前に控えた空は、重く低い雲に覆われていた。戻り梅雨のような湿った空気が、わずかに開いたリビングの窓から部屋へ流れ込んでくる。

 アイボリーのカーテンが、水分を含んだように重たく揺れていた。


 湊は無言でベランダのガラス戸の前に立ち、昨日干したばかりのシャツを見つめていた。指先で生地に触れると、微かに湿り気が残っている。

 背後から、スリッパのパタパタという足音が近づいてきた。

 振り返ると、すでに制服への着替えを終えた詩織が、少し眠たそうな目をこすりながら立っていた。


「……おはようございます、湊くん」

「ああ」


 詩織は湊の隣に並び、ガラス越しに灰色の空を見上げた。


「今日は、降りますかね」

「天気予報では、午後から崩れるらしい」


 湊は短く答え、玄関へと向かった。

 靴箱の端に立てかけてあった折り畳み傘を手に取る。そして、もう一本、少し小ぶりな紺色の折り畳み傘も引き抜き、自分の通学カバンのサイドポケットに無造作に突っ込んだ。


「あ……」


 詩織が小さく声を漏らす。

 湊は振り返らず、「念のためだ」とだけ言い残して、靴を履き始めた。

 詩織は少しだけ目を細め、静かに「はい」と微笑んだ。


 *


 午前中の教室には、雨の前の静けさのような、少しだるい空気が漂っていた。

 先週まで教室を支配していた、あのピリピリとした張り詰めた緊張感は、嘘のように鳴りを潜めている。


 一時間目の休み時間。

 詩織がノートを整理していると、前の席を通った春菜が「おはよー、今日髪まとまらないよね」と、ごく自然なトーンで声をかけてきた。詩織も「うん、湿気がすごくて」と普通に返す。

 湊が自分の席で参考書を開いていると、隣の矢野がシャープペンシルを回しながら身を乗り出してきた。


「よお。今日も夫婦で仲良く登校乙。お前ら、毎朝同じタイミングで家出るの面倒くさくねえの?」


 もはや揶揄ともつかない、ただの世間話のような軽口。

 湊は顔を上げず、「お前には関係ないだろ」とだけ返した。矢野は「つれないねえ」と肩をすくめ、すぐに相沢たちのゲームの話へと混ざっていった。


 周囲の視線が完全に消えたわけではない。

 他クラスの生徒が廊下を通る際、ちらりとこちらを見ることはまだある。だが、クラスメイトたちはすでに、湊と詩織の存在を「教室の風景の一部」として処理し終えていた。

 過剰な反応も、悪意のあるヒソヒソ話もない。ただ、そこにある日常。

 それが、二人が命がけで勝ち取った平穏だった。


 昼を過ぎた頃から、空は急速にその色を濃くしていった。

 六時間目の途中、ついに堪えきれなくなった空から、土砂降りの雨が落ちてきた。

 雨粒が容赦なく窓ガラスを叩きつける。教室は夕方のように暗く沈み込み、教師の黒板を叩く音も、遠くで鳴る低い雷鳴に掻き消されそうになっていた。


「うわ、最悪……」

「今日チャリなんだけど。マジで帰れねえ」


 授業中にもかかわらず、生徒たちの間から不満の声が漏れる。

 湊は窓の外の白く煙る校庭を眺めながら、ふと斜め前の席に目をやった。

 詩織が、窓の外の豪雨を見つめながら、小さく溜息をついている。彼女の視線が、自分のカバンへと向けられ、そして少しだけ困ったように眉が下がった。


 ――忘れたな。


 湊は自分のカバンのサイドポケットに触れた。そこには、朝に入れた二本の折り畳み傘がある。だが、湊はまだ何も言わなかった。


 *


 放課後。

 昇降口は、雨宿りをする生徒たちでごった返していた。

 外はバケツをひっくり返したような大雨。濡れたコンクリートの匂い、無数の靴が発する湿気、開かれた傘から滴る水。騒がしい話し声が、狭い空間に反響している。


 詩織は昇降口の端に立ち、ひどい雨足の先を茫然と見つめていた。

 湊が隣に立つと、彼女は少しだけ肩をすくめ、申し訳なさそうに見上げてきた。


「……湊くん。ごめんなさい、私、傘、忘れちゃったみたいです」

「ああ」

「少し待っててください。駅前のコンビニまで走って、買ってきますから」


 詩織は、自分だけ濡れる覚悟を決めたように、カバンを胸に抱え直した。

 まだ、彼女の中には遠慮がある。湊にこれ以上、面倒や余計な視線を向けさせたくないという、染み付いた癖のようなものだ。


 湊は何も言わず、カバンのサイドポケットから折り畳み傘を一本だけ引き抜いた。

 朝、二本入れたはずの傘。だが、ここで二本出せば、別々に帰ることになる。

 湊はもう一本の傘をポケットの奥に押し込んだまま、手にした一本の柄を引いた。


 バサッ、と黒い生地が開く。

 湊は、開いた傘を少しだけ詩織の方へと傾け、短く言った。


「行くぞ」


 詩織は一瞬だけ目を丸くした。

 周囲には、まだ大勢の生徒がいる。ここで一つの傘に入れば、否が応でも目立つ。

 だが、湊の迷いのない横顔を見て、詩織は小さく息を吐いた。そして、ほんの少しだけ口角を上げると、「……はい」と呟いて、湊の隣へと歩み寄った。


 雨の中へ踏み出す。

 折り畳み傘の骨組みは、二人を覆うにはあまりに狭かった。

 雨風を防ごうとすれば、必然的に二人の距離は近づく。歩幅を合わせるたび、肩と肩が触れ合い、制服の湿った生地越しに、微かな体温が伝わってくる。

 激しい雨音が、周囲の雑音をすべてかき消し、傘の下だけが二人だけの静かな密室になっていた。


 駅へと続く通学路を、しばらく無言で歩く。

 やがて、詩織が雨のアスファルトを見つめながら、小さく口を開いた。


「……前だったら、絶対無理でしたね」

「何がだ」

「こうやって、みんなの前で一緒に帰るの」


 詩織は、照れたような、けれど安堵したような声で小さく笑った。


「前は、誰かに見られるだけで怖かったから」


 湊は少しだけ沈黙して、前方を見据えたまま答えた。


「……今も、全部平気になったわけじゃない」

「はい」

「でも、お前が俯かなくなった」


 詩織は一瞬だけ目を見開いた。それから、照れ隠しのように傘の先へと視線を逸らす。


「……湊くんもです」


 すれ違う同級生たちは、一つの傘に入る二人を見ても、もう足を止めない。

「あ、お疲れ」と軽く会釈をされ、湊も短く返す。誰も冷やかしはしない。誰も、スマホを向けて騒ぎ立てたりはしない。

 ただ雨音だけが、二人の足元で静かに鳴り続けていた。


 *


 途中のコンビニに寄り道をする。

 自動ドアをくぐると、設定温度の低い冷房の風が、雨に濡れた肌を撫でた。

 湊は真っ直ぐにホット飲料のコーナーへ向かい、迷いなく温かいミルクティーのペットボトルを二つ手に取る。

 レジを済ませ、入り口付近で詩織に一つを手渡した。


「……これ」

「温かいの、いいんですか?」

「冷房で冷えるだろ」


 詩織は温かいペットボトルを両手で大切そうに包み込み、小さく微笑んだ。


「……矢島先生にも、ちゃんと感謝しないとですね」


 ふと、詩織が思い出したように言う。


 湊は自分のペットボトルのキャップを捻りながら、小さく息を吐いた。


「あの人、多分かなり無茶したぞ」

「……ですよね」


 詩織は両手の温もりを確かめるように、ぽつりと呟いた。

「奈々ちゃんも、矢野くんも……みんな、助けてくれました」

「ああ」


 少しの間が空く。

 自動ドアの向こうで、雨がアスファルトを叩き続けている。

 そして詩織は、どこか迷うように、恐る恐る言葉を継いだ。


「……お父さんも」


 湊はすぐには答えなかった。

 手に持ったミルクティーの熱が、指先からゆっくりと伝わってくる。

 父親が残していった、あの同意書。それがなければ、二人は今頃、別々の場所でこの雨を見ていただろう。


「……あの人なりに、責任を取ったんだろ」


 湊の声は平坦だった。

 それは、過去のすべてを水に流すような許しでも、手放しの肯定でもない。だが少なくとも以前のような、剥き出しの憎悪と拒絶ではなかった。


 *


 見慣れたアパートに着くと、玄関には濃密な雨の匂いが充満していた。

 靴を脱ぎ、リビングへ入る。

 湊は洗面所からタオルを二枚持ってくると、一枚を詩織の頭にふわりと乗せた。


「風邪引くぞ」

「はい、ありがとうございます」


 詩織は濡れた髪をタオルで拭きながら、小さくくすりと笑った。


 湊は濡れたブレザーをハンガーに掛け、ネクタイを緩めながらキッチンへと向かう。

 着替えを終えた詩織が、薄手のパーカー姿でリビングに戻ってきた。彼女は何も言わずに食器棚の横からエプロンを取り出し、自分で身につける。


「何かやることありますか?」

「ああ。冷蔵庫に白菜があったはずだ。切っといてくれ」

「分かりました」


 短く、機能的なやり取り。

 だが、その呼吸は驚くほど自然に噛み合っていた。

 トントントン、と包丁の音が静かな部屋に響く。

 コンロの上では、湊が火にかけた小鍋の中で、出汁がふつふつと鳴り始めていた。

 今日は、温かい肉うどんだ。


 詩織が切った白菜をザルへ移しながら、窓の外の雨粒を見つめてぽつりと呟いた。


「……去年の今頃は、こんなふうになるなんて、思ってませんでした」


 湊は、小鍋の灰汁を掬う手を一瞬だけ止めた。

 去年の今頃。二人はまだ、ただの隣の席の、口も利かない同級生だった。

 誰にも見つからないように息を潜め、傷だらけで、いつ崩れ落ちてもおかしくないギリギリの線を歩いていた。


「……俺もだ」


 湊が短く答えると、詩織は少しだけ目元を緩ませて、「そうですよね」と静かに笑った。

 外では、まだ激しい雨が容赦なく降り続いている。時折、風が窓ガラスを強く叩く。

 詩織は、その黒い窓を見つめながら、穏やかな声で言った。


「……なんか、不思議ですね」

「何がだ」

「外、あんなに雨なのに」


 詩織は小さく笑った。


「今、全然怖くないです」


 湊は、鍋の火加減を少しだけ落としながら、窓の外に目を向けた。

 大人たちの理不尽なシステムは、依然として外の世界に口を開けて待っている。十月十五日という期限も、二人の未来も、何一つ確かなものはない。

 それでも。


「……家だからな」


 湊がただそれだけを答えると、詩織は少しだけ目を細め、嬉しそうに頷いた。


 除湿機が、微かなモーター音を立てて稼働している。

 部屋干しされた制服が、その風を受けて小さく揺れていた。

 世界はまだ冷たい雨に沈んでいる。それでもこの部屋だけは、温かい出汁の匂いと、静かな生活の音で満たされていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。