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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第77話:新しい日常

 月曜日の朝。

 初夏特有の、少しだけ湿気を孕んだ生ぬるい風が、わずかに開いたリビングの窓から吹き込んでいた。薄手のアイボリーのカーテンが、波を打つように静かに揺れている。

 玄関の冷たい金属製のドアノブに手をかけた湊の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。


 この扉の向こう側には、昨日までの静寂はない。噂という名の形のない悪意、同級生たちの好奇の目、そして大人たちの理不尽なシステム。そのすべてが、自分たちを待ち構えている。

 今日から始まるのは、ただの学校生活ではない。自分たちの歪な日常を、社会の只中で維持し続けるための、新しい戦いだった。

 呼吸を整え、ドアノブを押し下げようとしたその時だった。


「……湊くん」


 背後から、静かな声がした。

 振り返ると、そこには通学用のカバンを両手で抱えた詩織が立っていた。綺麗に整えられた制服のリボン。少しだけ固く結ばれた唇。彼女の顔に微かな緊張の糸が張り詰めているのが分かる。

 だが、先週まで彼女の瞳の奥に常に潜んでいた、あの小動物のような怯えはもうなかった。

 代わりにそこにあるのは、これから向かう場所への明確な覚悟と、隣にいる湊への絶対的な信頼だけだった。


「大丈夫です」


 詩織は、湊の目を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと頷いた。


「……一緒なら」


 その言葉の響きに、湊の胸の奥で何かが静かに熱を持った。

 湊も無言で小さく頷き返し、ドアを押し開けた。


 初夏の朝の空気が、二人を包み込む。

 いつもなら、誰かに見られるリスクを減らすために時間をずらし、別々のルートで家を出ていた。だが、今日は違う。二人は肩を並べ、同じ歩幅でアスファルトを踏み出した。


 通学路は、すでに多くの生徒たちで溢れていた。

 駅から学校へと続く長い坂道。二人が並んで歩いている姿を見つけるなり、前を歩いていたグループの足が不自然に遅くなり、すれ違う他クラスの生徒たちの視線が、あからさまに二人の全身に突き刺さる。

 ヒソヒソと囁き合う声。スマートフォンの画面を見せ合いながら、こちらを盗み見る仕草。すれ違いざまに漏れ聞こえる無遠慮な感嘆詞。


 先週末に裏グループで拡散された祭りの夜の写真と、二人が同棲しているというスキャンダルは、確実に学年中の火薬庫に火をつけていた。


 だが、湊は表情筋を微動だにさせず、ただ前だけを見て歩いた。

 隣を歩く詩織も、俯くことはなかった。彼女の細い肩が時折小さく震えるのが分かったが、それでも逃げずに、同じ歩幅でアスファルトを踏みしめている。


 校門をくぐる。

 昇降口で上履きに履き替える。

 廊下を歩くたび、教室の窓際から、階段の踊り場から、無数の視線が降り注ぐ。

 だが、湊はその視線の質が、先週までの「暴こうとする純粋な悪意」とは微妙に異なっていることに気がついていた。

 腫れ物に触るような、遠巻きの好奇心。決定的な糾弾の言葉を投げかけてくる者は、一人もいない。


 教室の前。

 喧騒が漏れ聞こえるそのスライドドアの前で、湊は一度だけ深く息を吸い込み、迷いなく扉を開けた。


 *


 ガラッ、と。

 扉が開いた瞬間、教室内の空気が一瞬だけ完全に凍りついた。

 誰一人として言葉を発しない。それまで部屋を満たしていた週末の出来事や冗談が、まるで鋭利な刃物で切り落とされたかのように、完全に消失した。


 誰も何も言わない。その沈黙が、かえって鼓膜を圧迫するほどに重い。

 誰かがノートに文字を書くシャープペンシルの先が、紙の上でピタリと止まる微かな音が響いた。

 誰かが座り直した椅子の脚が、リノリウムの床を擦って小さく軋む。

 そして異様な静寂の中で、教卓の上に置かれていたスマートフォンのバイブレーションだけが、無機質に机を叩き続けた。

 誰もが呼吸を潜め、二人の出方を窺っている。それは、好奇心と警戒が入り混じった、張り詰めた空気の滞留だった。


 湊はすべての視線と気配を無視するように、いつも通りの歩幅で自分の席へ向かい、椅子の背にカバンをかけた。

 斜め前の席では、詩織も静かに着席し、カバンの中から筆箱とノートを取り出している。その一連の動作の間に、不自然な野次は一つも飛ばなかった。

 ただ、周囲の視線だけが、執拗に二人の一挙手一投足を追い続けている。


 その時だった。


「よお。堂々としたもんだな、阿久津」


 隣の席から、楽しげな声が降ってきた。矢野だ。

 彼は頬杖をつき、すべてを面白がっているような表情で湊を見ている。

 その矢野の声に反応して、教室の空気が、ピリッと微かに張り詰めるのを感じた。周囲の生徒たちが、スマホをいじるフリをしながら全神経を集中させて聞き耳を立てている。


「……何か用か」


 湊が平坦な声で返すと、矢野はわざと周囲に聞こえるような、絶妙なボリュームで言葉を継いだ。


「いやさ。お前ら、マジで親の許可もらって一緒に住んでんだってな」


 聞き耳を立てていた周囲の肩が、ビクッと揺れた。


「……どこで聞いた」

「先週の金曜、たまたま職員室の前を通った時にな。矢島先生が学年主任と話してる声が聞こえたんだよ」


「……」


「『本人たちの安全が確保され、親権者の正式な同意もある以上、学校が一方的に引き離すことはできない』ってな」


 矢野は肩をすくめた。


「まあ、細かい法律のことなんて俺には分からねえけどさ。少なくとも先生たちは、ただ面白半分で騒いでる俺らとは違って、本気で二人のこと考えてるってことだろ」


 矢野はあっけらかんと笑って見せた。

 横から、たまらず相沢が身を乗り出して口を挟む。


「てか矢野、それマジなの? いくらなんでも高校生が同棲って、普通親に殺される案件だろ」

「だから、ただの同棲じゃなくて『親公認の監護』なんだろ。俺らには分かんねえ複雑な事情があんだよ。まあ、あのお堅い学年主任が手出しできないってことは、法的に筋が通ってるってことだ」


 矢野は、シャープペンシルを指先で器用に回しながら、相沢の野次馬根性を鼻で笑い飛ばした。


「まあ、本人たちが覚悟決めてて、親も学校も動いてるならさ」


 矢野は肩をすくめる。


「俺らが面白半分で騒ぐ話じゃねえだろ」


 矢野がそう締めくくると、クラスの空気から一気に毒気が抜け落ちた。

 相沢たちも「……まあ、学校が認めてるなら、俺らが騒いでもしょうがねえか」と、意外なほどあっさりと話題を切り上げる。窓際の女子グループからは「完全に夫婦じゃん……」という、小さな笑い声すら聞こえてきた。


 誰も、もう二人に直接触れようとはしなかった。

 クラスメイトたちは、二人を「そういう特殊な事情を抱えた腫れ物」として、諦めにも似た納得とともに処理し始めていたのだ。


 始業のチャイムが鳴り、担任の矢島が入ってくる。彼は教卓に立つと二人を一瞥したが、顔色一つ変えずに、いつも通りの低い声で出席を取り始めた。


 退屈な、朝のホームルーム。

 だが、その「いつも通り」の風景が、今の二人にとっては何よりも尊く、奇跡のように思えた。


 *


 二時間目が終わり、十分間の休み時間。

 詩織が席を立った時、前方から春奈が近づいてきた。


「詩織ちゃん、ちょっといい?」


 彼女の目の奥には、冷たく鋭い光が宿っていた。

 二人は、廊下の隅にある人気のない階段の踊り場へと移動した。


「……先週は、色々と大変だったね」

「うん……。本当に、ギリギリのところで助けてもらったから」


 春奈はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出し、無言で画面を操作した。

「はい、これ」と軽い手つきで、その画面を詩織の目の前に突きつける。

 表示されていたのは、見知らぬ生徒のプロフィールページだった。だが、投稿もフォロワーもゼロ。完全に凍結されているかのような状態だった。


「これが……どうしたの?」


「祭りの夜、あんたたちを後ろから隠し撮りして、裏グループLINEに流したやつのアカウント。……ちょっと『お掃除』しといた」


 まるで机の上の消しゴムのカスを指先で払ったかのような、信じられないほどの軽さで言った。そのあまりに軽やかな動作が、かえって詩織の背筋に冷たいものを走らせる。


「二年の田村ってやつ。投稿した本人に削除させた。あと、面白半分で保存していた人たちにも全部消してもらった」


 春奈はスマホをしまう。


「ネットって怖いんだよ。一度広がったら、誰かを傷つけるためだけに残り続けるから」


「だから、芽が小さいうちに摘んだだけ」。あと、面白半分で詮索しようとしてた連中にも、一人ずつ丁寧に『お願い』しといたよ」


「奈々ちゃん、……何したの?」


 詩織の問いかけに、春菜はいつも通りの屈託のない笑顔で答えた。


「別に。あたしの大事な友達が理不尽に困ってたから、ちょっとお掃除を手伝っただけ。気にしないで」


 春奈はそう言って、詩織の頭をぽんぽんと撫でた。


「これからは堂々としてていいよ」

 それだけ言い残し、春奈は一人で教室へと戻っていった。


 *


 昼休み。

 湊は一人、屋上のフェンスに寄りかかっていた。

 初夏の日差しを正面から浴びながら、眼下に広がる街並みを眺めている。


「阿久津」


 振り返ると、矢島がそこにいた。

 身体の線に馴染みすぎた、くたびれたスーツ姿。その背中には、彼が教師として背負ってきた数々の生徒の重荷と、解決できないまま放置された諦念が、形を成して纏わりついているようだった。


「……先生」

「一人か。冬馬はどうした」

「図書室で本を読んでると思います」


 矢島は湊の隣に並び、フェンスに腕を乗せた。しばらくの、重い沈黙。


「……先週は、ありがとうございました」

「礼などいらん。最悪の事態を防ぐために当然のことをしたまでだ」


 矢島が、缶コーヒーを一口飲み、短く遮った。その声が、一段低くなる。


「終わったわけじゃない。あの紙切れ一枚で、一時停止ボタンを押しただけだ。十月十五日まで、何が起きるか分からない」


 湊は黙って頷いた。


「これからどんな代償を払うのか。それは、お前たち自身が決めることだ。……だが、もし一人でぶっ壊れそうになったら、その時は言え」


 矢島は、湊の肩を一度だけドンッと軽く叩き、踵を返して屋上を後にした。

 重い鉄扉が閉まる音が、ガシャンと響く。

 残された湊は、深く、長く息を吐き出した。


 矢島が立ち去った後の屋上には、鉄扉の閉まる余韻がいつまでも響いていた。

 湊は、叩かれたばかりの肩をさするでもなく、フェンスに体重を預けて立ち尽くした。


 お礼を言うべきだったのかもしれない。

 だが、湊の口からは、感謝の言葉はついにこぼれなかった。


「……言えるわけがない」


 独り言は、風の中に溶けて消えた。

 矢島が差し出したのは、単なる助言や救いの手ではない。この先、二人が社会から踏み外していくことへの――あるいは、大人たちの理不尽なシステムを裏切ることへの、黙認と共犯の誓約だ。


 そんな重いものを背負わせた相手に、「ありがとうございました」などという軽々しい言葉はあまりに無礼で、そして白々しい。


 湊はフェンスを強く握りしめた。

 手のひらに冷たい鉄の感触が残る。

 感謝という感情を言葉にすることは簡単だ。


 だが、矢島が背負ったものは、そんな一言で返せるほど軽くない。


 ならば、自分が返すべきものは言葉ではない。


 詩織を守ること。


 そして、自分たちで選んだ未来を最後まで維持すること。


 それが唯一、矢島に対してできる報いだった。


 湊は、高く澄み切った青空を見上げた。

 その視界の端で、風になびく矢島のコートの裾が見えたような気がした。


 *


 放課後。

 湊と詩織は、並んで校門を出た。


「……今日、意外と平気だったね」


 詩織が、少しだけ前を歩きながら、ほっとしたように笑って振り返る。


「ああ。矢野のやつも、裏で上手くやってくれたみたいだ」

「奈々ちゃんも、色々とお掃除してくれたって言ってた」

「……そうだな」


 二人は、夕日に照らされた帰り道を歩く。

 アスファルトが長くオレンジ色に染まり、建物の影が伸びていた。


「湊くん」

「ん?」

「……手、繋いでもいい?」


 下校中の生徒の姿がちらほらと見える中で、詩織が聞いてきた。

 湊は何も言わず、自然な動作で手を伸ばし、彼女の小さな手を包み込むように握った。

 夕暮れの街を、二人は並んで歩く。もう、日陰を選ぶ必要はない。


 見慣れた一軒家に着く。

 ドアを開け、「ただいま」と「おかえり」という二人の声が、小さな玄関で重なった。


 リビングに灯りをつけ、カバンを置く。

 湊はブレザーを脱ぎ、ネクタイを緩めながらキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開け、中にある食材をざっと確認する。

 昨日のうちに買っておいた玉ねぎと人参、半分残っていたじゃがいも。冷凍庫には小分けにしていた牛肉もある。


「今日はカレーでいいか」


 独り言のように呟きながら、湊はまな板を引き寄せた。

 少し遅れて、着替えを終えた詩織がリビングへ戻ってくる。

 制服姿の時とは違う、薄手のパーカー姿。そのまま彼女は、何も言わずに食器棚からエプロンを取り出し、自分で身につけた。


「何かやることありますか?」

「ああ。玉ねぎ、頼む」

「はい」


 それだけの短いやり取り。

 だが、その呼吸は驚くほど自然だった。


 トントントン、と包丁の音が静かな部屋に響く。

 コンロの上では、火にかけた鍋の中で油が小さく鳴り始めていた。

 学校では、あれほど多くの視線に晒され続けたというのに。この家に戻ってくると、不思議なほど神経が静かになっていく。


 詩織が切った玉ねぎをボウルへ移しながら、小さく息を吐いた。


「……なんか、疲れましたね」

「ああ」

「でも、思ってたより平気でした」


 湊は、人参を切る手を止めないまま、小さく頷いた。


「そうだな」


 窓の外では、夕日が完全に沈みかけていた。

 背後で炊飯器の蒸気が白く揺れ、部屋の中に、炊き立ての米の匂いがゆっくりと広がっていく。


 十月十五日。期限までは、まだ時間がある。

 このまま静かに過ごせばいいのか、それとも二人でこの「普通」を壊してしまうのか。


 答えは出ない。

 それでも今だけは、鍋の中で煮えていくカレーの匂いと、隣で包丁を動かす小さな音だけが、この家を満たしていた。


 これを幸せと呼ぶのかは、まだ分からない。


 そんな定義付けに意味はないと、湊はすぐに考え直す。


 ただ、この時間を失いたくないと思った。


 それだけで十分だった。

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