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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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8/10

第8話:陥落の夜、俺の平穏は月曜日に殺された

 リビングの天井に張り付いた古びた蛍光灯が、チチッ、と不規則に爆ぜる乾いた音を立てている。

 その断続的なノイズが、静まり返った部屋の空気を小刻みに震わせていた。


 テーブルの上には、ショッピングモールの喧騒から持ち帰ってきたばかりの紙袋が、中身を溢れさせたまま静かに鎮座している。

 オフホワイトの柔らかな布地が、薄暗い部屋の照明を吸い込んで、やけに生々しい。


 俺は、震えがようやく収まりかけた指先で『資産・維持管理簿』の分厚い頁をめくる。

 ボールペンを握り直し、深呼吸を一つ。

 だが、さっきからペンの先が、一行も進まない。


 インクの金属臭が鼻につき、真新しい頁の白さが目に痛い。


 計算しなければならない。

 明日の食費、今月の光熱費、今日失われた数字の補填計画を。

 親が遺したこの家と、僅かな保険金という防壁。

 それだけを頼りに、大人たちの干渉を許さずに生き抜くためには、一円の誤差も許されない。


 数字は裏切らない。

 数字だけが、俺を不確かな感情から守ってくれる唯一の避難所なのだ。


 だというのに。

 背後から忍び寄る微かな気配が、俺の思考をノイズで埋め尽くしていた。


「……湊くん。あの、着替えてみたんだけど。……どうかな?」


 柔らかな衣擦れの音がした。

 鼓膜を直接撫でられるような、遠慮がちで、湿り気を帯びた声。


 振り返ると、そこには買ったばかりのオフホワイトのニットに身を包んだ詩織が、所在なげに立っていた。

 少し長めの袖口から覗く細い指先が、もじもじと交差している。


 我が家の、少し黄ばんだ明かりに照らされた彼女は、恐ろしいほど現実味を帯びていて、それでいて、俺の風景を塗り替えていた。

 使い古された合皮のソファも、傷だらけのテーブルも、彼女の着るニットの圧倒的な白さに照らされ、その貧相さをはっきりと浮かび上がらせていた。


 彼女がそこに立つだけで、この殺風景で冷え切った空間に、あってはならない体温が混じる。


「……一回転、してみてくれ。変装の精度を確かめなきゃいけないからな」


 俺は努めて事務的に、検品でもするかのような冷めた声を絞り出した。

 肺に溜まった重い空気を、細く吐き出す。


 詩織は「もう、湊くんたら」と、少しだけ鼻を鳴らして笑った。

 昨日までの絶望からは想像もつかない、悪戯っぽい苦笑い。

 そして、ゆっくりと独楽のように一回転してみせる。


 ふわり、とニットの裾が揺れた。

 彼女の体温が、洗剤の匂いと混ざり合った風となって、俺の頬を撫でていく。


「……悪くない。不審者には見えない、程度だ」


 俺は、ノートから一切目を離さずに言った。

 嘘だ。

 視界の端に焼き付いている彼女は、この家にあるすべてのものの中で、最も場違いなほどに鮮烈だった。


「……ふふっ。でもさ、湊くん。……こんなに可愛い服だけど、私なんかが着て、そんなに変わるかな?」


 詩織が、少しだけ首を傾げて俺の顔を覗き込んできた。

 その瞳は、純粋な疑問と、ほんの少しの期待を孕んで、湿った熱を帯びている。


 喉の奥が、焼けた鉄を流し込まれたみたいに熱い。

 喉の粘膜が張り付いて、うまく動かない。


 お前が変わったんじゃない。

 お前がそこに立っているだけで、俺の視界そのものが歪んでいるんだ。

 さっきから心拍数が跳ね上がり、指先が痺れているのは、お前が、その――。


「……ああ。……服も、お前も……かわいいぞ」


 言葉が口から出た瞬間、俺自身が一番驚いていた。


 しまった、と思った時にはもう遅い。


 俺は慌てて視線をノートへ戻す。


「……勘違いするなよ。別に、お世辞を言ったわけじゃない」


「……え?」


「俺は、思ってもいないことを言う趣味はない。似合っていると思ったから、そう言っただけだ」


 自分でも、何を必死になって説明しているのかわからなかった。


「…………っ」


 詩織が、目を見開いたまま固まった。

 白かった彼女の頬が、見る間に鮮やかな朱色に染まっていく。

 その赤みは、耳たぶや首筋まで一気に波のように広がった。


 彼女の指先が、ニットの裾をぎゅっと、引きちぎらんばかりに強く掴んだ。


 その身体の震えを見て、俺は弾かれたように椅子を引き、ペンをノートに叩きつけるようにして視線を逃らした。

 耳の裏が、火傷しそうに熱い。

 首筋から背中にかけて、嫌な汗が噴き出す。


 これは、ただの事務的な回答に過ぎない。

 そう自分に必死に言い聞かせるが、握りしめたペンの先がガタガタと震えて、ノートの余白に無意味な黒い点を穿っていく。


 重く、甘い、沈黙。


 チチッ、チチッ、という蛍光灯の音だけが、やけに大きく部屋の空気を揺らしていた。


「……さっさと、脱いで洗濯の準備をしておいてくれ。明日からは、地獄が待ってるんだからな」


 裏返りそうな声を限界まで絞り出した、突き放す言葉。

 隣で詩織が、真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら。


「……バカ」


 蚊の鳴くような、けれど熱を持った声。

 俺がこれまで築き上げてきた鉄の防壁は、音もなく塵となって溶け落ちていった。


 ◇


 月曜日の朝。

 薄暗いキッチンに、トースターのタイマーが弾ける乾いた音が響いた。

 窓の外からは、誰かが自転車のブレーキを軋ませる不快な音が聞こえてくる。


 日常の音が、ひどく無神経に耳に突き刺さる。


 洗面所の鏡の前で、俺はネクタイを締め直す。

 鏡の中にいるのは、感情を漂白し、平穏という名の保護色を纏った、ただの阿久津湊だ。

 第一ボタンまで留めたワイシャツの首回りが、今日はひどく窮屈だった。


 昨夜の心拍数はもうない。

 いや、無理やりにでも押さえ込まなければならなかった。


 リビングに戻ると、詩織がテーブルの前に立っていた。

 彼女が着ているのは、昨日の柔らかなニットではない。指定の、紺色のセーラー服だ。

 俺が時間をかけて慎重にアイロンを当てたもの。


 プリーツの折り目はナイフのように鋭く、襟元のシミも完全に消し去ってある。

 昨日までの二人の世界が、制服という冷徹な記号によって、強制的に社会のルールへと引き戻されていく。


「……おはよう、湊くん」


 その声のトーンには、まだ昨夜の熱が微かに残響している。

 俺は、強引にそれを意識の外へと追いやる。


「……勘違いしないでくれ。ここから先は、ただの業務連絡だ。登校時間は、俺が先だ」


「……うん」


「学校の敷地に入ったら、俺とお前は完全に赤の他人だ。廊下ですれ違っても、絶対に目を合わせないでくれ。もし、緊急事態が起きた時は」


 俺はそこで言葉を切り、初めて彼女の顔を正面から見た。

 制服姿の彼女は、昨夜の甘い空気の残滓をまだ瞳に宿したまま、俺を見つめていた。


 その無防備な期待を、俺は冷徹に切り刻まなければならない。


「……必ず、『阿久津くん』と呼んでくれ。一文字でも間違えたら、その瞬間に、この生活は終わりだ。……分かったな」


 詩織は少しだけ肩を跳ねさせ、スカートのプリーツを指先でなぞった。


「……うん。わかったよ、阿久津くん」


 昨日までの距離を冷たく否定するように発音された、俺の苗字。

 その硬い響きが、胸の奥をチクリと刺した。


 俺は逃げるように鞄を掴み、「火の元は絶対に確認しておいてくれよ」と言い残して、玄関の扉を開けた。


 ◇


 廊下。

 古びたワックスと、舞い上がる埃の匂い。

 向こうから、女子数人のグループに混ざって歩いてくる詩織の姿が見えた。


 心臓が、肋骨を内側から殴りつけた。

 俺は視線を床に落とし、存在感を消してすれ違う。


 すれ違いざま、彼女の制服から、アイロンをかけた時の残熱と、柔軟剤の匂いが鼻先をかすめた。


 俺の手が、あいつを「綺麗」にしてしまった。

 その事実が、嫌な汗となって首筋を濡らす。


 誰も気づいていない。

 そう言い聞かせながら、俺は振り返ることなく教室へ足を進めた。


 ◇


 教室の引き戸の前に立つ。

 深く、長い深呼吸を一つ。

 俺は空気だ。


 ガラッ。


「――おっ、おはよう。阿久津」


 俺の席のすぐ隣。

 机に腰を掛けた矢野が、顔を上げた。


「……ああ。おはよう」


 表情を殺し、ただの作業のように椅子を引く。


「なあ、阿久津。昨日の、あの可愛い親戚さん。無事に家に着いた?」


 ノートを取り出すふりをして、机の木目を睨みつけたまま答えた。

 喉が渇いて、声が出ない。


「……ああ」


 矢野が、じりじりと距離を詰めてくる。整髪料の匂いが鼻につく。


「あの子、黒いマスクしてたじゃん? 顔の上半分しか見えなかったんだけどさ。……あの子、冬馬じゃね?」


 血液が一瞬にして沸騰し、急速に冷えきっていく。

 息ができない。


「……は? 何言ってるんだ。似てるわけないだろ」


「俺、冬馬が体育の時に、隅っこで膝抱えてた時の目。すげー似てるなって思って。今日、冬馬が来たら、確かめてみてもいいよな?」


 矢野の口元が、残酷に歪む。

 俺が唇を開きかけた、まさにその時だった。


 ガラッ。


 引き戸が引かれる重い音がした。

 ガタッ、と、教室の後ろの方で椅子が床を擦る高い音が響く。

 騒がしかったクラスの空気が、一瞬にして凍りついた。


 入り口に立っていたのは、冬馬詩織だった。


 サラサラと光を反射して肩に流れ落ちる髪。

 アイロンの当たった、折り目正しいセーラー服。

 そして、顔の下半分を覆う、あの黒いマスク。


 詩織は、クラス中の視線を浴びながらも、俯いて自分の席へと歩き出した。

 矢野の視線が、獲物を狙う獣のように彼女を舐め回す。


 俺は、机の角を掴む指の力が抜けそうになるのを必死に堪えていた。

 爪が木の角に食い込み、乾いた痛みが手のひらに走る。


 俺が、あいつを変えてしまった。

 その事実が、今この教室で浮かび上がっている。


 詩織が自分の席に座り、鞄を下ろす。

 その瞬間、矢野が机からゆっくりと腰を下ろし、俺の耳元へと顔を寄せた。


「……なぁ、阿久津」


 楽しそうで、それでいて残酷な囁き。

 ふと見やった矢野の瞳は、呆れたように、けれど全てを分かっているとでも言いたげに笑っていた。


「あのマスク……昨日、阿久津の横にいた子が着けてたやつと、まったく同じなんだけど。個包装の、あの柄までさ。……これでもまだ、気のせいって言い張る気か?」


 時計の秒針の音が、脳内に直接響く。

 天井から、あの不気味な蛍光灯の「チチッ」という音が降ってきたような気がした。


 俺の築き上げた完璧な平穏が、今、完全に足元から崩れ去る音を聞いていた。

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