第72話:熱の余韻
朝。
網戸越しに吹き込む風は、夏がすぐそこまで来ていることを知らせるような、少し湿り気を帯びた生暖かいものだった。カーテンの隙間から差し込む陽射しが、フローリングを白く反射している。
阿久津湊は、キッチンのカウンターに寄りかかったまま、マグカップの底で渦巻く黒い液体をぼんやりと見つめていた。
目を閉じれば、昨夜の記憶が鮮明に蘇る。夜空を裂く花火の轟音。提灯の赤い光。そして――頬に触れた、柔らかな感触。
「……っ」
コーヒーを飲み込んだ瞬間、あまりの甘さに顔をしかめた。無意識のうちに、砂糖を三杯も入れてしまっていたらしい。甘い物すら効率で管理するはずの手が、まともに機能していなかった。
十月十五日。
頭の奥に錆びた釘のように刺さるその日付は、もはやカウントダウンのゴールではなく、目の前の時間を奪う暴力的な期限に変わっていた。
花火の音に掻き消されたとはいえ、俺が何を踏み越えようとしたか、彼女は確実に理解し、あの頬へのキスで「未来」へと先送りした。
もう、昨日までと同じ距離ではいられない。
なのに、その関係に名前だけが付いていなかった。
落ち着かない沈黙の中、
「……おはようございます、湊くん」
背後から、少し鼻にかかった柔らかな声がした。
振り返ると、少し大きめのスウェット姿で目をこすっている詩織が立っていた。艶やかな黒髪には寝癖がはねた、無防備な姿だ。
だが湊にとっては、昨夜の息を呑むような浴衣姿よりも、この「日常」の姿のほうがよほど心臓に危険だった。肌に残る微熱のせいで、昨日までと同じ距離感では彼女を見られなかった。
「……ああ。起きるのが遅かったな」
湊は視線を不自然に宙へ彷徨わせながら、平坦なトーンを作った。
「すみません。昨日の夜はなんだか……胸がいっぱいで、寝付けなくて」
詩織は悪びれる様子もなく、少しだけ上目遣いで湊を覗き込んでくる。その瞳の奥には、昨日確信を得たばかりの小さな余裕が揺れている。
湊は耐えきれず、シンクにカップを置いた。
「……朝飯、できてるぞ。今日はパンだ」
食卓につく二人。
いつもと同じ目玉焼きとトースト。だが、言葉を発しない空白の時間すら、息の詰まるような密度を持っている。
トースターから二枚目のパンを取り出そうとして、向かい側から手を伸ばしてきた詩織の指先が、湊の指に軽く触れた。
「あっ」
詩織が小さく声を上げる。湊は反射的に、火に触れたかのようにバッと手を引っ込めてしまった。
気まずい沈黙。しかし、詩織は俯くどころか、手を引っ込めた湊を見てくすくすと笑い始めた。
「……何がおかしい」
「いえ。……湊くん、昨日よりもずっと緊張してません?」
「……寝不足で反応が遅れているだけだ」
「ふふっ、そういうことにしておきますね」
詩織は楽しそうに笑い、紅茶を一口飲んでから、ふと真面目な顔になった。
「……湊くん」
昨夜の川辺がフラッシュバックし、湊の全身が硬直する。
身構える湊の前で、詩織は小さく首を傾げた。
「今日、お弁当いりますか? 湊くん、夕方から塾のバイトですよね」
なんでもない、日常の会話。
湊は、安堵とほんの少しの落胆が混ざった息を吐き出した。
「……ああ、頼む。助かる」
詩織は嬉しそうに立ち上がり、キッチンへ向かった。
彼女は、わざとやっている。湊がいきなり核心に触れる勇気がないことを見透かし、答えを急かさない。けれど、決して逃がすつもりもない。
すれ違う時に自然に袖を掴んできたり、目が合っても視線を逸らさなかったり。
想いが通じ合っているのに、決定的な言葉だけが存在しない。これほど心臓に悪く、幸福な日常があるだろうか。
*
その日の昼休み。
図書室で返却処理をしていた詩織は、エプロンのポケットでスマホが短く振動したのを感じた。
画面を確認する。初期アイコンで、意味を持たない英数字のアカウントからのメッセージ。
『昨日、祭りいたよね?』
『阿久津と一緒だった?』
ただの二文。詩織の指先が、スゥッと冷たくなった。
誰から? どうして連絡先を?
湊に心配をかけまいと、詩織は咄嗟に画面を伏せた。
「……で?」
突然背後から声をかけられ、詩織はビクッと肩を震わせた。振り返ると、ハードカバーの小説を抱えた春奈が、じっと顔を覗き込んできている。
「えっ? あ、奈々ちゃん……」
「あんた達、昨日の祭りで何あったの」
「な、何もないですよ! 普通にお祭りを見て回って……」
「顔真っ赤じゃん。……手、繋いだ?」
「……っ」
「うわ、図星。否定しないってことはガッツリ繋いだな。じゃあ、告白は?」
詩織はたまらず俯いたが、彼女の追及は止まらない。
「……あ、でも何か言い淀んでるってことは。え、まさかキスくらいまで行っちゃったとか?」
詩織は完全に言葉を失い、カウンターに突っ伏した。
「……え、待って。そこまで行った?」
春奈の声が初めて本気で裏返る。
「嘘でしょ……。なるほどねー、やっと一歩進んだってわけだ。おめでとう」
呆れたように笑ったが、その直後、真剣なトーンに変わった。
「……そういえばさ、昨日。誰か、詩織ちゃん達のこと撮ってなかった?」
その言葉に、詩織は顔を上げた。先ほどの不気味なメッセージがフラッシュバックする。
「撮ってた……?」
「いや、覗き趣味とかじゃないよ? 私が飲み物買いに行った時、たまたま見えただけ」
春奈は周囲を確認し、声を潜める。
「祭り撮ってるっていうより、“詩織ちゃんだけ”狙ってる感じだったんだよね」
空気が、一気に冷たくなった。
「気のせいならいいんだけどさ。湊くん、やたら周り気にしてたしさ。なんか隠してる感じだったんだよね」
詩織の背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
あの時、湊が人混みの中で必死に身を隠そうとしていた理由。そして、さっき届いた送信者不明のメッセージ。
自分たちの生活は、常に薄氷の上にある。
「……ちょっと気をつけてねって話。足元すくわれないようにね」
春奈が去った後、詩織は一人、ポケットの中のスマホをきつく握りしめていた。
*
放課後。
駅前のファミレスでアルバイトをしていた湊は、明らかに使い物になっていなかった。
「阿久津くん、注文確認。そこ、復唱抜けてる」
「……っ、すみません」
普段なら絶対にしないようなミスだった。
オーダーを取りながらも、ふとした瞬間に頬に触れた柔らかな感触と、幸せそうに笑っていた彼女の顔が割り込んでくる。
そのたびに、心臓が大きく跳ねる。
理性の外側から、じわじわと体温を書き換えられていく。
かつては、彼女を大人の悪意から隔離し、十月十五日まで無事に届けることが役目だと思っていた。それが終われば元の孤独な生活に戻るはずだった。
だが、一度自覚してしまえば、もう以前と同じ温度ではいられない。
守るだけでは、もう足りなかった。彼女のいない生活など、想像できない。
玄関を開けても、彼女の「おかえり」がない光景だけは、もう妙に現実味を持たなかった。それは恐怖にも似た、完全なる依存の自覚だった。
*
夜七時。
帰宅した湊が玄関の扉を開けると、リビングからパタパタという足音が近づいてきた。
「おかえりなさい、湊くん」
エプロン姿の詩織が笑って出迎える。たったそれだけの光景が、湊の心臓をきつく締め付ける。
「……ああ、ただいま」
詩織は、昼間の不気味なメッセージのことなど微塵も感じさせない、いつも通りの笑顔を作っていた。湊に心配をかけまいとする強がりだった。
夕食を終え、夜が更けていく。
点けっぱなしのテレビも、湊の手元の参考書も、二人にとってはただのノイズでしかない。
斜め向かいのソファで、膝にクッションを抱えた詩織がうとうとと船を漕いでいる。
その時。
詩織のポケットの中で、スマホが一度だけ、短く震えた。
詩織はビクッと体を揺らし、湊に見えないよう、そっと画面を伏せて手で覆い隠した。湊はその小さな不自然な動作に気づいたが、深くは追及しなかった。何かを隠しているのなら、理由があるはずだ。
やがて、詩織の体が傾き、こてん、と湊の肩に寄りかかった。
「……っ」
以前なら「邪魔だ」と振り払っていたはずだ。だが今は、首筋に触れる髪を、もう振り払えなかった。
湊は無意識のうちに、自分から少しだけ肩を彼女の方へ寄せた。
「……起きているなら、離れろ」
わざとらしく言うが、詩織は肩に頭を預けたまま、さらに密着してきた。
「離れません」
掠れた甘い声に、湊は息を呑んだ。
「……昨日の続き。いつか、ちゃんと聞かせてくださいね」
静かな追撃。湊は完全に言葉を失った。
二人の間にある境界線は、もう完全に溶け落ちている。
今はまだ、この静かな熱の余韻に浸っていたかった。
*
夜十一時。
朝食用のパンを買い忘れたことに気づき、湊は近くのコンビニへと足を運んだ。
人気のない住宅街の裏道を歩いていた時のことだ。
ふと。背中に、チリッとした悪寒のような違和感を覚えた。
誰かに、見られている。
湊は立ち止まり、鋭い視線で振り返った。
暗い路地。街灯の光が届かない電柱の影。誰もいない。
だが、前を向こうとした時、角の壁際から、白いスニーカーのつま先が一瞬だけ見え、サッと奥へ引っ込んだのが視界の端に映った。
湊の全身の毛穴が逆立った。
白いライン。あの学校指定のスニーカーを、湊は見間違えない。
ここで下手に追いかければ、自分と詩織が「この家」に一緒に帰ることを決定的に露呈させる。
湊は油断なく背後を視界の端に捉えながらも、あえて足早にその場を立ち去り、遠回りをして家へ向かった。
――同時刻。
散らかった学生部屋のベッドに寝転がる何者かの手元で、スマホの画面が冷たい光を放っていた。
画面に表示されているのは、昨夜の神社の裏手。頬を赤く染めた詩織と、彼女の手を強く握りしめている湊の姿が、鮮明に切り取られている。
指先が、ニヤニヤとした感情を乗せて画面をタップする。
写真が、クラスの裏グループラインに投下された。
『え、阿久津じゃん』
『冬馬と祭り行ってたの?草』
軽い面白半分の反応が、すぐに続く。
『待って、これ手繋いでね?』
『てか、この背景の道って駅の反対側じゃん。二人ともそっち方向なの?』
そして、決定的な一文が送信された。
『待って、これワンチャン同棲疑惑あるくね?』
画面の右上で、未読通知だけが静かに増え続けていた。
花火の夜は、まだ終わっていなかった。
彼らの小さな城の壁は、もうすでに外側から崩されようとしていた。
二人がその決定的な亀裂に気づくのは、明日、学校の教室の扉を開けた瞬間になる。




