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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第73話:白日のノイズ

 朝の通学路は、初夏特有の少し湿気を帯びた風が吹き抜けていた。

 空は薄い水色のベールを被ったように澄み渡り、街路樹の緑が陽光を弾いてきらきらと光っている。どこにでもある、ありふれた平日の朝の風景。

 だが、阿久津湊の足取りは、いつものように一定のリズムを刻んではいなかった。


 数歩歩くごとに、どうしようもなく昨夜の記憶がフラッシュバックしてくる。

 夜の川辺。遠くで弾けた花火の轟音。

 そして――頬に触れた、あの柔らかな感触と、泣きそうに微笑む少女の顔。


「……っ」


 湊は無意識に、右の手のひらで自分の口元を覆った。

 昨夜の余熱が、まだ皮膚の下でくすぶっている。一度自覚してしまえば、もう以前と同じ温度ではいられない。論理と効率だけで世界を管理してきたはずの自分が、こんなにも一つの感情に振り回され、足元を浮かせているという事実が、ひどく滑稽で、そして恐ろしかった。


 前方の交差点に、見慣れた後ろ姿を見つけた。

 指定のスクールバッグを両手で前に抱え、少し俯き加減で歩く詩織だった。

 家を出る時間をわざと数分ずらしたにもかかわらず、途中で追いついてしまったらしい。声をかけるべきか迷った湊の足音が、アスファルトの上で不自然に途切れた。


 そのわずかな音の変化に気づいたのか、詩織がゆっくりと振り返る。

 目が合った。


 一秒、二秒。

 初夏の風が、二人の間を静かにすり抜けていく。

 普段なら「おはよう」と短く交わして終わるはずの距離感が、今日はまるで透明なゼリーの中に沈んだように、もどかしく、そして息苦しい。


 やがて、詩織がほんの少しだけ頬を染め、花がほころぶような笑みを浮かべた。


「……おはようございます、湊くん」

「……ああ。おはよう」


 交わした言葉は、たったそれだけだ。

 並んで歩くわけでもなく、湊は数メートル後ろの距離を保ったまま、彼女の背中を追って歩き出した。

 だが、そのわずかなやり取りだけで、二人の間には明確な「昨日の続き」が流れていた。振り向くたびに目が合う。そのたびに、詩織が嬉しそうに目を細める。


 このまま、こんな穏やかで不器用な日々が続いていくのだと。

 この時の湊は、心のどこかで信じ切っていた。

 自分たちを包む薄氷が、すでに足元からひび割れ始めていることにも気づかずに。


 *


 学校に到着し、昇降口で上履きに履き替える。

 そこまでは、何一つ変わらない日常だった。

 だが、三年B組の教室の前に立ち、スライド式のドアに手をかけた瞬間。

 湊の張り巡らされた防衛レーダーが、強烈な警告音を鳴らした。


 ガラッ、と。

 扉を開けた瞬間。

 教室を満たしていたはずの騒がしい喧騒が、まるでスイッチを切られたように、一瞬にしてピタリと止んだのだ。


「あ……」


 誰かが小さく息を呑む音がした。

 窓際のグループで談笑していた女子たちが、一斉にこちらを見て、慌てて視線を逸らす。

 教卓の周りに集まっていた相沢たちのグループが、手元にあったスマートフォンを不自然な動きで伏せた。その画面が消える直前、湊は見た。昨夜の暗がりで撮られた、白い浴衣の影を。


(……昨日の夜中には、すでに拡散していたか)


 沈黙は、ほんの一秒にも満たない。

 すぐにまた「今日の一時間目なんだっけ」「小テストの範囲どこだ」と、わざとらしい日常のノイズが再開された。

 だが、空気の質は完全に変質していた。

 教室中の視線の矢印が、透明な糸のように、すべて湊の背中に絡みついている。


 湊は表情筋を微動だにさせず、真っ直ぐに自分の席へと向かった。

 カバンを机の横にかけ、椅子に腰を下ろす。参考書を取り出そうとしたところで、予想通り、斜め前の席に座る相沢が、ニヤニヤとした笑みを貼り付けて身を乗り出してきた。


「よお、阿久津。おはようさん」

「……何か用か。提出物の締め切りなら明日だぞ」

「いやいや、委員長としての業務連絡じゃなくてさ」


 相沢は、周囲のクラスメイトに聞こえるような、絶妙なボリュームで言った。


「お前さ、昨日、商店街の祭りいた?」

「……いたが」


 隠す意味はない。あの人混みだ、見られていたとしても不思議ではない。

 湊が平然と答えると、相沢の隣にいたタカシが、待ってましたとばかりに口を挟んだ。


「マジで!? じゃあさ、冬馬さんと一緒にいたのもお前?」


 教室中の聞き耳が、一気に湊の周囲に集中するのが分かった。

 誰も直接は見てこない。だが、シャーペンを動かす手を止め、全員が湊の次の言葉を待っている。


「……たまたま会っただけだ」

「えー? たまたま会ったにしては、ずいぶん親密そうだったって聞いたけどなー」

「おいおい阿久津、隠すなよ! もしかして、マジで冬馬さんと付き合ってんの?」


 男子特有の、下世話で悪意のない冷やかし。

 普段のラブコメ的な「お似合いじゃん」という空気。

 湊は深いため息をつき、参考書のページを開いた。


「……集団の不確かな推測に付き合う暇はない。俺は忙しいんだ」


 否定も肯定もしない。いつもの「鉄仮面の阿久津」を演じ切る。

 それが一番、この場を早く沈静化させる方法だと判断したからだ。

 周囲からは「なんだよノリ悪いなー」「でも否定はしなかったぜ」というクスクス笑いが漏れた。


 ここまでは、まだ想定内だった。ただの高校生の、平和な恋愛ゴシップ。

 だが、本当の地獄はここからだった。


 数分後。

 始業のチャイムが鳴る直前、教室の前扉が開き、詩織が入ってきた。


 その瞬間、教室の空気が、先ほど湊が入ってきた時よりもさらに露骨に、そして鋭く凍りついた。

 今度は女子側の反応が早かった。

 ヒソヒソという囁き声が、あちこちからさざ波のように湧き上がる。

 詩織は、その異様な気配に一歩足を踏み入れたまま立ちすくんだ。彼女の大きな瞳が、戸惑いと恐怖に揺れている。


「詩織ちゃん」


 通路側の席に座っていた女子の一人――普段から詩織に親しげに話しかけてくる柳瀬という生徒が、恐る恐る、しかし明確な興味を持って詩織に声をかけた。

 そして、自分のスマートフォンの画面を、詩織の目の前に突きつけた。


「……これ、ほんと?」


 画面に映っていたのは、夜の暗がりの中。

 提灯の赤い光に照らされた、白い浴衣姿の詩織と、その手をしっかりと握りしめる湊の姿だった。背後から撮られたその写真は、画質こそ粗かったが、二人の親密さを証明するには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。


「あっ……」


 詩織の口から、小さな悲鳴のような音が漏れた。

 顔から一気に血の気が引き、陶器のように真っ白になる。彼女は震える両手で自分のカバンの持ち手を強く握りしめ、言葉を失った。


 その明確な「動揺」を見た瞬間、クラスの空気が『疑惑』から『確信』へと変わった。


「えっ、マジじゃん!」

「阿久津くんと冬馬さん、付き合ってるの!?」

「やばーい、手繋いでる!」


 悪意はない。ただの純粋な好奇心。

 だが、他人の秘密を暴き、それを共有して消費する集団の熱は、時としてどんな悪意よりも残酷に人を傷つける。


「ねえねえ、いつから?」

「てかさ、阿久津くんからなの? 詩織ちゃんから?」

「浴衣似合ってたよー! 春菜ちゃんが貸したやつ?」


 質問が、悪意のない刃となって、次々と詩織に突き刺さる。

 詩織は後ずさり、何も答えられずに俯いた。

 耐えきれなくなった詩織が震える足でもう一歩後ずさりしたその時。


「朝からあんたたち、うるさいんだけど」


 バンッ!と、乱暴に机を叩く音が教室に響いた。

 春菜奈々だった。

 彼女は気怠そうに立ち上がると、スマホを見せていた女子たちを冷たい目で一瞥した。


「人の恋愛事情でキャーキャー騒ぐの、中学生で卒業してくれない? 暇なの?」


 その氷のような一言に、女子たちがビクッと肩を揺らし、「……ごめん」とそそくさと席に戻っていく。

 春菜はそのまま詩織の腕を引き、彼女の席まで無理やり連れて行った。

 すれ違いざま、春菜は詩織の耳元で、誰にも聞こえないような小声で囁いた。


「……もう三年全体には完全に回ってる。覚悟した方がいい」


 その言葉に、詩織の指先がカタカタと小さく震え始めた。

 湊は、自分の席からその光景をただ見つめていることしかできなかった。

 立ち上がって庇うことは容易い。だが、今ここで自分が動けば、二人の関係をさらに決定づけ、火に油を注ぐだけだ。


 参考書を握る手に、じわりと汗が滲む。

 歯を食いしばり、ただ前を向く。

 自分の論理が、現実の暴力の前に無力化されていくのを、湊は肌で感じていた。


 *


 一時間目の現代文。

 黒板を叩くチョークの音だけが響く中、教室の空気は最悪の方向へと煮詰まっていた。

 教師が板書のために背を向けるたび、教室の後方から、微かな、しかし粘着質なヒソヒソ声が漏れ聞こえてくる。


『……てかさ、阿久津って西口の方に住んでるよね?』

『冬馬さんも、いつも西口の方に帰ってない?』

『え、でも冬馬さんの家って、親の都合で遠いから電車通学じゃなかった?』


 湊の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。

 話題の質が、変わった。

 ただの「付き合っている」という青春のゴシップから、「生活圏の不一致」への追及へ。


『駅の反対側だよな。いつも二人で一緒に帰ってるし』

『あ、私も見たことある。先週の金曜日、スーパーで買い物してた』

『マジで? 二人で?』

『……もしかしてさ』


 誰かの、ひどく無神経で、核心を突いた一言。


『……同棲、してんじゃね?』


 その単語が落ちた瞬間。

 教室の空気が、決定的に変質した。

 ピンク色の恋愛ゴシップが、黒々とした「スキャンダル」へと姿を変えたのだ。


『え、マジで? 高校生で?』

『それヤバくない? 親どうなってんの?』

『てか、学校にバレたら普通に退学とか停学でしょ』

『未成年なのに大丈夫なの?』


 周囲の女子たちすら、引き気味の声をヒソヒソと交わし始める。

 好奇心が、不道徳への嫌悪と興奮に変わっていく。


 湊は、手元のシャープペンシルを、芯が折れるほど強く握りしめていた。

 怒りの矛先は、無責任に噂を広めるクラスメイトたちではない。

 他でもない、自分自身へだった。


(……俺の、せいだ)


 祭りの夜。浮かれていた。

 彼女の浴衣姿に目を奪われ、初めての夏を共有する幸福感に酔いしれていた。

 誰も見ていないと高を括り、人混みの中で堂々と彼女の手を握った。


 守ることだけを考えて積み上げてきた三年間を、たった一夜で壊した。

 壊したのは誰でもない。俺自身だ。


 雨の日。あの薄暗い路地裏で、傷だらけの少女を拾った日から。

 湊は、彼女を守ることだけを考えて生きてきた。

 バイトで稼いだ金で食事を用意し、学校では距離を保ち、誰にも気づかれないように細心の注意を払ってきた。

 それは義務感だった。保護者としての責任だった。


 だが、いつからか。

 彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥が熱くなるようになった。

 彼女のいない生活など、想像できなくなった。

 そして昨夜――花火の光の中で、ついに自分の感情に嘘をつけなくなった。


 俺が、俺自身の感情を優先したせいで。

 三年間かけて、息を潜めるようにして守り抜いてきた「安全な城」を、自らの手で崩してしまったのだ。


 ふと視線を斜め前に向ける。

 詩織は、ノートを開いたまま、一文字も書き込むこともできずただうつむいていた。

 その白く細い指先が、微かに、震えているのが分かった。


 大人たちから逃れ、やっと見つけたはずの安息の場所が、今、同級生たちの無自覚な悪意によって剥がされようとしている。彼女がどれほどの恐怖を感じているか、痛いほどに想像がついた。


 守りたかったのに。

 一番傷つけたくない人間を、俺の不注意で、晒し者にしてしまった。


 ギリッ、と。

 奥歯を噛み締める音が、自分の頭蓋骨の中だけで響いた。

 黒板の文字は、もう何一つ頭に入ってこなかった。

 時計の秒針が、カチ、カチ、カチと。

 拷問のように、一秒ずつ時を刻んでいく。


 *


 一時間目が終わり、休み時間。

 詩織は席を立つこともできず、机に突っ伏したまま動かなかった。

 その周りを、クラスメイトたちが遠巻きに眺めている。


「……ねえ、詩織ちゃん。大丈夫?」


 近づいてきたのは、普段から詩織と仲の良い田中美咲だった。

 その声は心配そうに聞こえたが、目の奥には隠しきれない好奇心が光っている。


「変なこと聞くけどさ……本当に阿久津くんと、その、一緒に住んでたりするの?」

「私たち心配してるんだよ? 何かあったら相談してね」


 善意を装った質問攻め。

 詩織は顔を上げることもできず、小さく首を横に振ることしかできなかった。


「あ、ごめんね。無理に聞いたりしないから」


 田中たちが去った後、詩織のポケットの中でスマートフォンが振動した。

 一度、二度、三度。

 立て続けに届く通知。


 震える手で画面を確認する。

 見知らぬアカウントからのダイレクトメッセージが、次々と表示されていた。


『マジで同棲してんの?』

『親知ってる? それともバレてないの?』

『阿久津のどこがいいの? 金?』

『学校に言ったらどうなるかなw』


 詩織の視界が、じわりと滲んだ。

 画面を見るたびに、通知の数字が増えていく。

 10件、20件、50件――


 彼女は画面を裏返しにしてポケットにしまい込んだが、振動は止まらない。

 ポケットの中で、小さく、しかし執拗に震え続ける悪意。


(湊くんに、迷惑かけてる……)


 詩織の中で、自責の念がぐるぐると渦巻く。

 私が、湊くんの生活を壊してしまった。

 ずっと、私を守ってくれていたのに。


 二時間目のチャイムが鳴る。

 だが、詩織の耳には、もう何も聞こえていなかった。


 *


 昼休み。

 教室の居たたまれない空気に耐えきれず、詩織は弁当も持たずに図書室へと逃げ込んでいた。

 だが、そこすらもはや安全圏ではなかった。


「あれだろ、阿久津と同棲してるっていう……」

「マジで? 高校生で?」


 普段は本など読まないような他クラスの生徒たちが、わざわざ図書室を覗き込みにくる。

 その視線が、詩織の背中に突き刺さる。


「閲覧の邪魔。出てって」


 春菜が冷酷な声で追い払ってくれる。

 だが、追い払っても追い払っても、次々と新しい好奇の目がやってくる。


「……春菜ちゃん」


 詩織が、か細い声で呟いた。


「私、湊くんに迷惑かけちゃった……」

「何言ってんの。詩織ちゃんのせいじゃないでしょ」

「でも……私が、一緒に住んでるから……」


 詩織の目から、ついに涙が零れ落ちた。

 春菜は、その肩を強く抱きしめた。


「……泣かないで。あいつらの思う壺だから」


 *


 一方の湊は、一人、屋上のフェンスに背を預けていた。

 初夏の日差しが照りつける中、手元の弁当箱を開ける気にもなれず、ただ眼下に広がる街並みを見下ろしている。


 自分の無力さが、これほどまでに腹立たしいことはなかった。論理。効率。計算。そんなものが、集団の生み出す「ノイズ」の前では何の役にも立たない。


 ガチャリ、と重い鉄扉が開く音がした。

 現れたのは、春菜だった。彼女は手すりに寄りかかると、スマホをちらりと見て、冷ややかな視線を湊に向けた。


「……友達からスクショがどんどん回ってきてる。裏グループのLINE、完全に炎上状態だよ。写真の拡散だけじゃなくて、二人がいつも一緒に帰ってる目撃情報とか、スーパーで買い物してる姿とか、過去の行動まで全部掘り返されてる。詩織ちゃん、今スマホのDMでもボコボコにされてる」


 その言葉が、湊の心臓を抉った。

 湊は、数秒間思考を巡らせ、そして一歩前に出た。


「……どこまで広がってる?」

「三年全体は確実。……もう、先生たちの耳に入るのも時間の問題だと思う」


 春菜の声は、普段の飄々としたものではなく、どこか切羽詰まった響きを持っていた。


「……俺の責任だ」

 湊は、地の底から絞り出すような声で言った。

「俺が油断した。あいつを……危ない場所に連れ出した俺の責任だ」


 春菜は、ふっと短く息を吐いた。


「責任感とか、そういう自己満足はどうでもいいの」

 春菜は振り返り、湊を真っ直ぐに睨みつけた。

「今さら『保護者です』みたいな顔して、自分だけ綺麗な場所に戻ろうとしないで」


 その言葉が、鋭い刃のように湊の胸を貫いた。


「あんた、昨日、詩織ちゃんに何言ったの? どんな顔させたの? 詩織ちゃん、あんなに怯えてるのに、それでも『湊くんには迷惑かけられない』って、ずっと自分を責めているんだよ」


 湊の拳が、フェンスの金属を掴んで白くなった。

 そうだ。彼女はいつだって、自分よりも先に俺のことを案じる。自分がこの日常を壊す原因になることを、誰よりも恐れていたはずだ。


「あんたさ」

 春菜は、冷徹に、だが確かな熱を持って言った。

「今さら、"守るだけ"じゃ済まないからね。責任取る覚悟もないのに、あの子に期待させたんだとしたら……最低だよ」


 その言葉が、湊の胸を抉る。


「……どう落とし前つけるの」


 突きつけられた現実。

 湊は、答える言葉を持たなかった。

 ただ、フェンスを握る拳に、血が滲むほどの力を込めることしかできなかった。


 風が吹き抜ける。

 遠くで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。


 *


 午後の授業は、もはや授業としての体を成していなかった。

 三時間目終了後から、担任の矢島の姿が職員室や教室から消えていた。嫌な予感が、職員室の方向からじわじわと迫ってくる。


 六時間目。

 静かな自習時間。

 斜め前に座る詩織の様子が、明らかにおかしかった。

 彼女は制服のスカートの上で、自分のスマートフォンをじっと見つめていた。その肩が、小刻みに震えている。


 湊の席からは画面は見えない。だが、何が起きているかは想像がついた。

 匿名のアカウントからの、ダイレクトメッセージ。


 詩織は画面を裏返しにして机に伏せると、両手で顔を覆い、必死に声を殺して耐えていた。

 その背中を見るたび、湊の中で、張り詰めていた理性の糸が、ブチブチと音を立てて切れそうになる。


 立ち上がって、彼女のスマホを奪い取り、心無いメッセージを送ってくる連中を片っ端から論破してやりたい。机を蹴り飛ばし、この教室の狂った空気を力ずくで止めてやりたい。

 だが、それが何の解決にもならないことなど、頭の芯の冷たい部分が理解している。


 時計の秒針が、カチ、カチ、カチ、カチ――

 まるで処刑までのカウントダウンのように、容赦なく時を刻んでいく。


(耐えろ。……放課後になれば、とりあえず家というシェルターへ逃げられる)


 湊は必死に自分に言い聞かせた。

 十月十五日まで、彼女を守り抜く。そのためには、今は波風を立てず、嵐が過ぎるのを待つしかないのだと。


 だが。

 現実というシステムは、湊のそんな甘い計算を許してはくれなかった。


 六時間目の終了を告げるチャイムが鳴る、その五分前。


 ガラッ。

 教室の前扉が、いつもより乱暴な音を立てて開かれた。


 自習中で静まり返っていた教室に、重い足音が二つ、入ってくる。

 一人は、職員室から戻ってきた担任の矢島。

 そしてもう一人は――顔を真っ赤にして怒りを隠そうともしない、厳しい顔つきの学年主任だった。


 教室の空気が、一瞬にして真空になったように凍りついた。

 生徒たちの間のヒソヒソ声すら消え去り、誰もが息を止めて、前方に立つ二人の大人を見つめている。


 矢島は、ひどく疲れたような、そしてどこか諦めたような険しい視線を、真っ直ぐに湊へと向けた。

 一昨日の夜、「俺を呼べ」と忠告してくれた矢島。

 だが、今、彼が隣に学年主任を伴って現れたということは、もはや事態が「担任の個人的な裁量」で揉み消せるレベルを超えてしまったことを意味していた。


 学年主任が、名簿のバインダーを教卓に叩きつけ、教室全体に響き渡る低い声で告げた。


「阿久津。それから、冬馬」


 二人の名前が、処刑宣告のように呼ばれる。

 詩織の肩が、ビクッと大きく跳ねた。

 教室中の視線が、一斉に二人へと突き刺さる。


「現在、学校外での生活状況について確認したいことがある。……放課後、すぐに生徒指導室へ来なさい」


 ざわっ、と。

 教室全体が、堰を切ったように揺れた。

 疑惑が、事件へと昇華された瞬間だった。


『うわ、マジじゃん』

『呼び出しってことは……』

『完全にアウトでしょ』


 湊は、ゆっくりと立ち上がった。

 視界の端で、詩織が血の気を失った唇を強く噛み締め、絶望的な瞳で机を見つめているのが分かった。


 ――終わった。


 三年間、息を潜めるようにして築き上げてきた完璧な生活基盤。

 誰にも見つからないように、ひっそりと彼女を匿ってきた一時的な避難所。


 そのすべてが、白日の下に引きずり出され、大人のルールの前に解体されようとしている。


 窓の外では、初夏の眩しい太陽が、変わらずに世界を照らしていた。

 だが、湊の視界は、絶望的なまでの暗闇に塗り潰されていた。

 日常の崩壊は、もう誰にも止められないところまで来ていた。

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