第71話:声を掻き消す花火
日が傾き、空が茜色から深い群青色へと移り変わる午後六時半。
一階のリビングで待つ湊の耳に、階段を慎重に下りてくる慣れない足音が届いた。
「……湊くん、お待たせしました」
リビングの扉が開き、姿を現したその少女を見た瞬間。湊の呼吸は、文字通り完全に停止した。
思考が白く飛び、言葉を紡ぐ機能がショートする。
春奈が貸してくれたという浴衣は、涼やかな白地に、淡い藍色で朝顔が散りばめられた、可憐でどこか儚げな柄だった。
普段は無造作に背中に流している艶やかな黒髪は、不器用ながらも高い位置でふわりとまとめられており、華奢なうなじが照明の下で発光しているかのように白く剥き出しになっている。
ほんのりと薄化粧を施された頬と、いつもより少しだけ艶のある唇。
綺麗だ。
そんな陳腐な言葉では到底足りない。この家という閉鎖空間で守り続けてきた少女が、突如として手の届かない幻になってしまうのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な鮮烈さ。湊は、自分の心臓が警鐘のように激しく鳴り始めたのを感じた。
「……あの、変じゃない、ですか? 帯の結び方とか、動画を見ながら見よう見まねでやってみたんですけど……」
湊が何も言わずに固まっているため、詩織が不安そうに身を縮め、俯いた。
湊は、必死に乾いた喉を鳴らし、ゆっくりと彼女に近づいた。
「……後ろを向いてみろ」
詩織が素直に背中を向ける。確かに、背中で結ばれた帯の形が少しだけ崩れ、緩んでいた。
湊は無意識のうちに手を伸ばし、その帯の端に指をかけた。
触れた瞬間、浴衣の薄い生地越しに、彼女の背中の確かな熱が伝わってくる。至近距離。ふわりと立ち上る、昨日から自分と同じになったあの石鹸の甘い香り。
湊の指先が、わずかに震えた。
これ以上近づけば、自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないか。
形を整え、帯をきゅっと引き締める。その小さな動作の間中、湊は息を止めていた。
「……これでいい」
「あ、ありがとうございます。……湊くんから見て、おかしくないですか?」
振り返り、上目遣いで期待と不安の混ざった視線を向けてくる詩織。
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、湊はたまらず視線を逸らした。
似合っている、と言えば済む話だ。だが、それを口にしてしまえば、自分の内に渦巻く重い感情――彼女をこのまま家の奥に閉じ込めて、誰にも見せたくないという強烈な独占欲を、抑えきれなくなりそうだった。
「……反則だろ」
湊の口から、無意識のうちにそんな言葉が漏れた。
詩織が「えっ?」と丸い目を瞬かせる。その意味を理解したのか、彼女の白い頬が、ぽっと朝顔の柄と同じように淡い紅に染まった。
「行、行くぞ。遅刻したら春奈に何を言われるか分からん」
湊は早口で誤魔化し、逃げるように玄関へと向かった。背後で、カランと下駄の鳴る音が、ひどく嬉しそうに弾んでいた。
*
神社の境内へと続く参道は、すでにむせ返るような熱気と喧騒に包まれていた。
焼きそばの焦げたソースの匂い、ベビーカステラの甘い香り、すれ違う人々の汗と香水の入り混じったむせ返るような空気。頭上には赤や白の提灯が連なり、非日常の空間を作り出している。
湊は、いつもの黒いチノパンにシンプルなネイビーのシャツという、およそ祭りの熱狂とは無縁の普段着だった。だが、神経は周囲を警戒するレーダーのように張り巡らされ、その鋭い視線は群衆の動きを追っていた。
人混みを歩く詩織は、ただでさえ目を引いた。
行き交う男子グループが、ハッとしたように振り返る。すれ違う人々の視線が、無意識に彼女の白いうなじや、可憐な浴衣姿に吸い寄せられているのがわかる。
それが、湊にとっては耐え難いほどの苦痛だった。
(……見るな)
胸の奥で、黒い炎がチリチリと燃え上がる。
すれ違う人混みの中に、同じクラスの相沢やタカシ、田中たちの騒がしい声が遠くで聞こえた。普段なら気にも留めないノイズだが、今の湊は彼らにすら詩織の姿を見せたくなかった。湊は無言のまま詩織の肩を庇うように立ち位置を変え、彼らの死角になるように人混みをすり抜けていく。
「湊くん、人がすごいですね……」
「はぐれるな。俺から離れるなよ」
かつては、ただ「保護者」としての義務感から彼女を守っていた。だが今は違う。
提灯の光に照らされて笑う彼女の顔。揺れる浴衣の袖。そのすべてを、ただ自分の目の中だけに収めておきたい。失いたくない。その感情の変容に、湊自身が一番戸惑っていた。
「おーい! 詩織ちゃん! 湊くん!」
人波を割るようにして現れたのは、紺地に金魚が泳ぐシックな浴衣を着こなした春奈だった。手にはすでにヨーヨーを下げている。
「奈々ちゃん! 浴衣、本当にありがとうございます。奈々ちゃんもすごく似合ってます!」
「詩織ちゃんこそ。やっぱりその柄、大正解だったね。湊くん、見惚れすぎて固まってなかった?」
「……黙れ。俺はただ、周囲の安全確認をしていただけだ」
春奈のからかいに、湊は仏頂面で返す。
合流してからの時間は、まさに「青春」そのものだった。
金魚すくいのポイを破ってしまって悔しがる詩織。射的でコルク銃を構える湊を、隣で真剣に応援する姿。焼きそばのパックを分け合い、大きな綿菓子を二人で「半分こ」にする。
一つ一つの出来事が、彼女にとっての「初めての夏」を彩っていく。
「あっ、湊くん! 見て、りんご飴です!」
屋台の明かりに照らされた艶やかな赤い飴を見て、詩織が目を輝かせる。
湊が財布を取り出そうとすると、春奈がふと、人混みの向こう側へ視線を向けた。
「……あれ?」
「どうした、春菜」
「ううん……なんでもない。気のせいかな。誰かこっち見てる気がしたんだけど」
彼女は軽く首を振ると、いたずらっぽい笑みを浮かべて湊を見た。
「私、ちょっと喉乾いたから飲み物買ってくるねー。二人は先に行ってていいよ」
「おい、お前……」
「はぐれないように、ちゃんと手、繋いでおきなよ?」
空気を読んだ春奈が、わざとらしく手を振って人波に消えていく。
実質、二人きりになった。
周囲の喧騒が、急に遠ざかったような気がした。
人混みがさらに密度を増し、背後から押し出されるようにして詩織の体がよろける。
湊は反射的に手を伸ばし、詩織の手をしっかりと握りしめた。
指と指が絡み合う。
詩織が小さく息を呑む気配がしたが、彼女は振り払うことなく、湊の大きな手に自分の指をぎゅっと預けてきた。
繋いだ手から伝わる熱が、今の二人の世界のすべてだった。
*
神社の境内の中央、やぐらの上で盆踊りの太鼓がドンドンと腹の底に響く音を立て始めた。
その瞬間、踊りの輪に加わろうとする人々と、帰ろうとする人々の波が激しく交差し、視界が急速に悪化した。
息の詰まるような人波。
提灯の赤い光がぐるぐると回り、周囲の景色を曖昧にしていく。
「……っ」
突然、斜め前から強引に横切ろうとした若者の集団にぶつかられ、湊の手から詩織の指先がすり抜けた。
「詩織!」
湊の声は、無情にも太鼓の音と歓声に掻き消された。
振り返っても、先ほどまで隣にいた白い浴衣の姿がない。
視界を埋め尽くすのは、見知らぬ他人の背中と、熱気を帯びた顔ばかり。
血の気が引いた。
迷子になっただけだ、すぐに見つかる。頭ではそう分かっているのに、湊の全身を支配したのは、今までに経験したことのないほどの純粋な「恐怖」だった。
彼女がいなくなる。
自分の手の届かない場所へ、消えてしまう。
その想像だけで、心臓が凍りつくように痛んだ。
保護者としての責任感などではない。ただ、俺の人生からあの少女が欠落してしまうことが、何よりも恐ろしかった。
「詩織……!」
湊は人混みを掻き分け、必死に走った。提灯の明かりが揺れる。
どれくらい探しただろうか。
盆踊りの輪から少し外れた、神社の社務所の影。暗がりの中で、心細そうに周囲を見回している白い浴衣の姿を見つけた。
「詩織!」
「……湊、くん……っ」
詩織の顔を見た瞬間、湊は一切のブレーキを失っていた。
駆け寄り、無意識のうちに、彼女の華奢な体を腕の中に強く抱き寄せていた。
「っ……」
詩織の体が硬直する。だが、湊は腕の力を緩めることができなかった。
浴衣の帯が胸に当たる感覚。彼女の髪の匂い。生きている体温。
「……見失ったかと、思った」
湊の声は、自分でも驚くほど震え、ひどく情けない音を出していた。
詩織は、見開いていた目をゆっくりと閉じ、湊の背中にそっと腕を回した。
彼女の指先が、湊の背中のシャツをぎゅっと掴む。
この人は、ただの「責任感」や「義務」だけで私を探してくれたわけじゃない。
この震える声は、私を失うことを本気で恐れてくれているのだと。
詩織の中で、確信に変わった瞬間だった。
*
祭りの終盤。
二人は喧騒から離れ、神社の裏手にある、小さな川沿いの土手へと歩を進めていた。
遠くからお囃子の音が微かに聞こえるだけの、静かな場所。水面には、遠くの街灯が頼りなく揺れている。
繋いだ手は、もうどちらからも離そうとしなかった。
「……湊くん。今日、来れてよかったです」
夜風に髪を揺らしながら、詩織がぽつりとこぼした。
「こんな夏、初めてでした。……ずっと、忘れません」
その言葉に、湊は黙り込んだ。
言うべきじゃない。
俺は彼女の保護者だ。十月十五日という期限がある。年齢の壁、社会の常識、彼女の背負っている過去。俺が彼女にこれ以上の感情を向けることは、彼女の未来を縛る呪いになるかもしれない。
すべて理解している。俺は、いつだって計算して生きてきたはずだ。
だが、隣で潤んだ瞳を向ける彼女を見て。
あの時、人混みの中で彼女を失いかけた恐怖を思い出して。
もう、これ以上自分に嘘をつくことは、できなかった。
「……詩織」
湊は立ち止まり、詩織と向かい合った。
静かな夜の川辺。彼女の瞳に、自分の顔が映っている。
「俺は、お前のことを――」
覚悟を決めた。逃げ道を全部潰して、もう戻れないつもりで。
喉が焼けるほど勇気を振り絞って、その言葉を口にした。
――好きだ、と。
ヒュルルルル……!
直後。
夜空が、白く爆ぜた。
腹の底まで震わせる轟音が、数秒遅れて空気を切り裂くように押し寄せる。
赤、青、金。
祭りのフィナーレを飾る大輪の花火が咲き乱れ、川沿いの暗がりを昼間のように照らし出した。
空を裂く圧倒的な轟音が、湊の決死の言葉を、無慈悲に飲み込んでいた。
「……え?」
花火の光に照らされた詩織が、目を丸くする。
聞こえなかったのだろう。
湊の心臓が、嫌になるほど強く脈打つ。
今なら、まだ誤魔化せる。
花火のせいにして、「なんでもない」と笑って、いつもの「保護者」に戻ればいい。言わなかったことにできる。
だが――
詩織は、わずかに目を細め、湊の顔をじっと見つめた。
まるで、聞こえなかったのではなく、“何を言おうとしたのか”だけは、痛いほど分かってしまったみたいに。
数秒の沈黙。
花火だけが、夜空を次々と塗り替えていく。
やがて詩織は、泣き出しそうな、それでいてこの世のすべてを手に入れたような、ひどく美しい微笑を浮かべた。
「……今は、聞かないでおきます」
その言葉に、湊は息を呑んだ。
逃がされた。
けれど同時に、逃がされなかった。
彼女は、全部わかった上で、この言葉を未来へ先送りにしたのだ。今のままではいられないことを理解した上で、それでも、二人の関係を延命させるために。
「……詩織」
名前を呼んだ瞬間。
ふわり、と浴衣の袖が揺れた。
次の瞬間、柔らかな感触が、湊の頬にそっと触れた。
思考が止まった。
至近距離。
夜空の光をいっぱいに映した潤んだ瞳が、まっすぐ湊を見つめている。
唇から離れた彼女の体温と、甘い石鹸の香りが、湊の全身を支配する。
「でも――」
詩織は、少し照れたように、けれど確かな意志を持って笑った。
「いつか、ちゃんと聞かせてください」
また花火が上がる。
轟音。歓声。夜空いっぱいに広がる光。
その全部が遠かった。
湊の世界には今、頬に残る熱と、泣きそうなくらい幸せそうに笑う少女しか存在していなかった。
保護者というだけの境界線は、もうどこにもない。
身体的距離は越え、感情も通じ合っている。ただ「言葉」だけが未成立という、最も危険で、最も甘い状態。
*
帰り道。
遠くから聞こえる祭りの余韻を背に、二人は言葉少なに歩いていた。
会話はほとんどない。だが、繋いだ手から伝わる体温だけで、もう互いに全部分かっていた。
家というシェルターへ向かう、穏やかな道程。
この幸福が、永遠に続けばいいと、湊は柄にもなく祈っていた。
だが。
神社の裏手から続く暗い路地の入り口。
街灯の届かない影の奥で、無機質なレンズが二人の姿を捉えていた。
カシャッ、と。
祭りの喧騒にかき消されるほどの、小さなシャッター音。
影に潜む何者かの手元で、スマートフォンの画面が冷たい光を放ち、手を繋いで歩く湊と詩織の姿を鮮明に切り取っていた。
花火の残煙が夜空に滲む。
その幸福が、あとどれほど続くのかを、まだ二人は知らなかった。




