第69話:ただいまのある家
あれほど高かった熱もようやく引き、詩織が穏やかな寝息を取り戻してから二日目の朝。
分厚い雲の切れ間から柔らかい陽射しが差し込み、少しひんやりとした風が網戸を揺らす中、二日ぶりに二人の登校が再開されることになった。
その日の朝、湊のキッチンでの手際は、いつも以上に神経質で徹底していた。
換気扇の低い唸り声の下、まな板の上で小気味よい音を立てて切られる野菜は、普段よりもさらに細かく刻まれていく。
卵焼きは焦げ目を一切つけないよう、ごく弱火で慎重に巻かれていく。
彩りよりも「消化の良さ」を優先したおかずが、弁当箱へ隙間なく詰め込まれていく。
「……湊くん、あの、お弁当箱、もう入りません。というか、蓋が閉まらないと思うんですけど」
ダイニングテーブルからその様子を見ていた詩織が、少し困惑したような、けれどどこか嬉しそうな声を上げる。
制服に着替えた彼女の顔色はすっかり元に戻り、昨日まで青白かった頬には健康的な桜色の血色が差していた。彼女が少し首を傾げるたびに、丁寧にとかされた艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「黙っていろ。病み上がりは消化能力が落ちている。胃に負担をかけないよう、消化にいいものを中心に詰めているだけだ。多少潰れても問題ない。胃に入れば同じだ」
「……はい。ふふ、ありがとうございます」
「あと、水筒は白湯に変えておいた。胃を冷やすな。自販機のジュースも今日は禁止だ」
湊は、有無を言わせない口調で続ける。
「移動教室の階段も使うな。遠回りでもエレベーターを使え。体育は見学だ。少しでも無理だと思ったら即座に保健室へ行け。……最悪、俺を呼びに来させろ」
玄関でスニーカーに足を通しながら、湊は振り返りもせずに矢継ぎ早に指示を飛ばした。
その語気は鋭く理屈っぽいのに、言っていることは過保護そのものだった。
詩織は、靴紐を縛る湊の広い背中を見下ろしながら、一瞬だけ丸い目を瞬かせたが、すぐに肩を揺らしてクスクスと小さく愛らしい笑い声を漏らした。
「……何がおかしい」
「いえ。なんだか、今の湊くん……すごく、お母さんみたいだなって思って」
ピタリ、と。
湊の指先が、スニーカーの紐を縛る動作の途中で停止した。
お母さん。
その何気ない言葉が、湊の胸の奥へ妙な熱を落とした。
自分には一生縁のないものだと思っていた役割を、いつの間にか当たり前のように背負っていた。顔が一気に熱を持つ。耳の裏まで赤くなっているのが自分でも分かった。
「……変なことを言うな。俺はただ、俺の目の届く範囲で無事でいてほしいだけだ。ここでまた倒れられたら、寝覚めが悪いだろうが」
「はいはい、そうですね。……じゃあ、行きましょうか、湊くん」
詩織が軽やかな動作で先にドアを開ける。
少し湿った清々しい朝の空気が玄関に流れ込んでくる。その華奢な背中を追いながら、湊は自分の心臓の奥が静かに熱を持つのを感じていた。
*
学校での日常は、拍子抜けするほど「普通」のまま流れていった。
教室のざわめき、チョークが黒板を叩く乾いた音、窓の外から聞こえるグラウンドの歓声。昨日までのあの嵐のような感情の揺れ動きが嘘のように、平穏で、単調な時間が過ぎていく。
担任の矢島は、一昨日あれだけの爆弾を放り投げてきた男とは思えないほど、いつも通り気怠げな教師を演じていた。
その徹底した公私の峻別が、今の湊にはむしろひどくありがたかった。
「おー湊。お前、二日もぶっ続けで休むなんて珍しいじゃん。……っていうか、冬馬も同じタイミングで二日休みかよ。なんだお前ら、示し合わせてサボりか? それとも夫婦かよ」
昼休み、自分で作った重い弁当箱を開けようとした湊の机に、クラスメイトの男子がニヤニヤと笑いながらちょっかいをかけてきた。
いつもなら「統計学的に見れば少しも珍しいことではない」と一蹴する湊だった。
だが、今日は違った。
「夫婦」という言葉が耳に届いた瞬間。一昨日の夜、熱に浮かされた彼女の手を強く握りしめていた自分の姿がフラッシュバックした。
「……体調不良が重なっただけだ。騒ぐな」
即座に反論できず、一拍遅れて返した声は、自分でも驚くほど刺々しかった。
茶化したクラスメイトが「うお、マジレスこわっ」と肩をすくめて離れていく。
湊は小さく息を吐き出して、窓の外へ視線を向けた。
グラウンドでは、体育の授業が行われている。湊の厳命通り、見学の定位置である日陰のベンチに座っている詩織の姿が見えた。彼女は隣に座る友人と何事か楽しそうに言葉を交わし、時折、風に揺れる花のように可憐な笑顔を見せている。
*
放課後。
湊は職員室で矢島との用事を手短に済ませると、校門で待っていた詩織と合流した。
「湊くん! お弁当、ちゃんと全部食べましたよ。すごく美味しかったです。少し多かったですけど」
小走りで駆け寄ってきた詩織が、ふわりと笑う。
「……そうか。無理はしてないだろうな」
「はい、すっかり元気です」
そのまま連れ立って帰路につく。
一刻も早く、彼女を「家」というシェルターの中へ入れたかった。
自宅の玄関前まで送り届け、詩織が中に入り、内側から確実に鍵をかけた音を確認して初めて、湊は小さく息を吐いた。
「湊くん、入らないんですか?」
「……買い忘れがあった。お前はそのまま中で待ってろ。いいな、インターホンが鳴っても、俺が声をかけるまで絶対に開けるな」
ドア越しに厳命し、湊は再び夕闇の街へと背を向けた。
一人になりたかった。
ポケットにある、あの男の番号。そして、通学バッグに隠したあの異物。
その不潔で生々しい現実を抱えたまま、彼女の隣で「家族」の顔をして食卓を囲む自信が、今の湊にはまだなかった。
一度一人で歩き、スーパーで適当な食材を買う。そうして「外の毒」を自分の中から削ぎ落とし、完璧に「ただの湊」に戻ってからでなければ、彼女の待つ場所へ戻る資格がないように思えたのだ。
「……じゃあ、先にお家で待ってますね」
ドア越しに届いた詩織の声。
その言葉だけで、胸の奥が妙に静かになった。同時に、そんな言葉一つでどうしようもなく安堵してしまう自分が、少しだけ怖かった。
*
スーパーで食材を選び、重くなったレジ袋を提げて坂道を一人で登っていく。
日はすでに西の山際に沈み、空は深い藍色から徐々に柔らかな墨色へと染まっていく時間帯だった。住宅の窓からは、夕食の準備を知らせるオレンジ色の明かりがポツポツと灯り始め、街全体が休息の準備に入っているのが分かる。
どこかの家から、甘口のカレーのスパイスの匂いや、肉じゃがを煮込む醤油の香ばしい匂いが風に乗って流れてきた。
かつての湊にとって、この他人の家の「生活の匂い」というものは、自分が決して手の届かない世界を象徴する、心を冷たくさせるものでしかなかった。
だが、今の湊の歩みは、どこか浮き立つような軽さを持っていた。
あの光の中へ、自分も帰るのだという実感。それが自然と足取りを速めさせる。
自分の家の前に着き、門扉を抜けて冷たい金属のドアノブに手をかける。鍵を差し込み、回す。
いつもなら、この瞬間に待っているのは自分の足音だけが反響する冷え切った空気と、冷蔵庫が低く唸るような無機質な静寂だけだった。
ガチャリ、と重い音を立ててドアを開ける。
その瞬間だった。
リビングの奥から、軽やかな足音が近づいてきた。
角からひょっこりと顔を出したのは、見慣れた淡いイエローのエプロン姿の詩織だった。彼女は玄関に立つ湊の姿を認めるやいなや、パッと表情を明るくし、小走りで駆け寄ってくる。
そして上がり框の手前で、ふわりと弾むように向き直った。
エプロンの裾としなやかな黒髪が遠心力で柔らかく広がり、橙色の温かな照明の下で揺れる。
「……おかえりなさい、湊くん」
柔らかく、透き通った声が、狭い玄関に響く。
味噌汁の匂いと、甘い石鹸の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「…………」
湊は、片方の靴を脱ぎかけた中途半端な姿勢のまま、言葉を失い固まった。
「……ただ、いま」
数秒の長い空白ののち、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
誰かが、自分の帰りを待っている。
湊はただ冷たいタオルで顔を洗うため、洗面所へ逃げることしかできなかった。
*
その日の食卓は、レストランのフルコースなどとは程遠い、地味でありふれたものだった。
詩織が作った、端のほうが少し崩れてしまった卵焼き。
スーパーで買ってきた、半額シールの付いた惣菜のコロッケをトースターで温め直したもの。
そして、湯気の立つ大根と油揚げの味噌汁。
「ごめんなさい、卵焼き、少し焦げちゃいました。火加減が難しくて……やっぱり、湊くんみたいには上手にできません」
「……栄養価は変わらん。問題ない」
湊は無表情を装いながら箸を運び、崩れた卵焼きを口に入れる。
少しだけ甘すぎる卵焼き。少し濃い味噌汁。
完璧ではないのに、不思議なくらい箸が止まらなかった。
「コロッケも、本当は私が揚げられればよかったんですけど……」
「馬鹿を言え。病み上がりで油の処理などさせるか。これでも十分に美味い。……お前の淹れた味噌汁があるからな」
ポツリと漏れた本音に、詩織がパッと顔を輝かせる。
「味噌汁、少し濃かったですか?」
「……いや。ちょうどいい」
「本当ですか?」
「嘘をつく理由がない」
そのやり取りに、詩織がくすりと笑う。
二人で囲む食卓。陶器の食器と箸の触れ合う音。今日学校であった些細な出来事の話。
――終わってほしくない。
その感情だけが、静かに胸へ残った。
温かい味噌汁が食道を通り抜けるたび、全身がこの平和な時間に満たされていくのが分かる。
十月十五日。
かつては「終わり」だと思っていたその日付が、今はこの食卓を壊すためのカウントダウンにしか思えなかった。
*
夜。
予習と家計簿の整理をするため、湊はリビングに置いた自分の通学バッグの中を探っていた。
ふと、バッグの最奥のファスナーポケットで、指先にカサリと硬いものが触れる。
一昨日の夕方、矢島から渡され、詩織の目に絶対触れないよう奥底に隠しておいた、あの小さな箱だ。
湊はなぜかひどく焦燥感を覚え、それを反射的に掴み出すと、誰にも見られないように自分のズボンのポケットへと深く押し込んだ。
ふと視線を上げると、向かいのソファで詩織が文庫本を胸に抱えたまま寝落ちしていた。
いくら回復したとはいえ、一日学校に通うだけでも相当な負担だったのだろう。すう、すう、という規則的で静かな寝息が聞こえる。
湊は誰にも聞こえないようなため息をつき、寝室から持ってきた肌掛けの毛布を、彼女の肩へそっと掛け直した。
彼女の呼吸に合わせて、毛布がゆっくりと上下する。その穏やかなリズムを数秒間愛おしむように見つめてから、立ち上がろうとした時だった。
屈んだ拍子に、ズボンのポケットに隠したあの箱が足の付け根に当たり、微かな感触を伝えてきた。
湊は一瞬動きを止め、息を詰めた。
ゆっくりとポケットに手を入れる。指先に触れたそれを、外へと取り出した。
矢島から渡された、小さな、四角い箱。
リビングの薄暗い常夜灯の下で、それはどんな凶器よりも異様な存在感を放っていた。
指先に伝わる、独特のカサカサとした乾いた手触り。パッケージの角が皮膚に当たる微かな感触。
……違う。
湊は、自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛み締めた。
俺が守りたいのは、たぶん、こういう時間だった。
ただ「おかえり」と「ただいま」を笑顔で言い合える、不器用で、けれど穏やかな生活の継続。俺が欲しいのは、それだけだった。
だが、毛布の隙間から覗く詩織の、白く細い首筋。
微かに届く、彼女の温かい体温と、ふわりと香る甘い石鹸の匂い。
ソファの上で無防備に丸まるその少女の姿を、至近距離で意識した瞬間。
その熱を、まだ名前にしてはいけない気がした。
窓の外では、夜が静かに深くなっていく。
十月十五日まで、残された時間は少しずつ減っていく。
ポケットの中の小さな箱だけが、この穏やかな夜の中で異物のようだった。




