第68話:大人の採点と、忍び寄る影
昨夜の暴力的な高熱が嘘のように引き、詩織が穏やかな呼吸を取り戻した、その日の午後三時。
二人揃って学校を欠席した昼下がりのリビングは、奇妙なほどの静けさに包まれていた。
昼過ぎにシャワーを浴びた詩織は、ソファで毛布に包まり、静かに文庫本を読んでいたが、やがて安心したようにうとうとと微睡み始めている。
斜め向かいの椅子に座り、広げた参考書に視線を落としていた湊は、数ページめくるたびに、無意識のうちに視線を彼女へと向けてしまっていた。
平日の昼間、二人だけの静かな時間。外の世界だけが、別の速度で動いている気がした。
昨夜の地獄のような時間は終わり、家の中には、この一時的な避難所特有の穏やかな空気が漂っている。
毛布の上下する微かな動き。ページがめくられることなく止まったままの文庫本。彼女がそこに存在しているという事実が、湊の意識の端を常に捉えて離さない。
その静けさを唐突に破るように、ローテーブルの上に置いたスマートフォンが、無機質な振動音を立てた。
画面に表示された送り主の名前を見て、阿久津湊はわずかに眉根を寄せた。担任の矢島からだ。
『二人揃っての欠席とはいい度胸だ。放課後、17時頃にプリントとゼリー飲料を持っていく。玄関先で渡すだけだから、寝てて構わん』
短い文面。大人の、適度な気遣いに満ちた連絡。
だが、湊の警戒心は即座に跳ね上がった。
「……冗談じゃない」
低く呟き、スマートフォンを裏返して置く。
寝てて構わん、だと?
そんな言葉を真に受けて、無防備な格好で対応でもしてみろ。たちまち『適切に生活を管理できていない』と判断され、この同居の存続すら危ぶまれる。
矢島は味方だ。この歪な生活を、見て見ぬふりをしてくれている最大の共犯者だ。だが、それはあくまで俺が「綻びなく維持している」という前提があってこそのものだ。大人の介入を許すような隙を見せれば、この避難所はすぐに解体されてしまう。
湊は立ち上がり、静かに、だが迅速に動き始めた。
キッチンに残っていたスポーツドリンクの空きボトルをゴミ袋の底に沈め、リビングに散らばっていた氷枕の中のぬるい水を捨てて見えない場所へ片付ける。余分に出していた毛布を畳み、体温計を救急箱の奥へ押し込む。
昨夜、理性を失い、ただの十七歳の子供としてなりふり構わず彼女を看病した「痕跡」。それを、大人の目に見られるわけにはいかなかった。
「……湊くん? どうしたんですか?」
慌ただしく動く湊の物音に目を覚ましたのか、ソファに座っていた詩織が不思議そうに首を傾げる。
「矢島が来る。プリントと差し入れを持ってくるそうだ」
「えっ……先生が……」
詩織が不安そうに身を縮める。彼女にとっても、教師の訪問は「日常を脅かされるかもしれない」という恐怖と隣り合わせだ。
「心配するな。俺が玄関先で追い返す。お前はそのまま座ってろ」
そう言い残し、湊は洗面所へと向かった。
冷水で手を洗い、ふと鏡に映る自分の顔を見る。
「……ひどい顔だ」
思わず自嘲が漏れた。
目の下には、絵の具を擦り付けたように濃い隈が張り付いている。昨夜、一睡もせずに彼女の呼吸を確かめ続け、熱に浮かされた手を握りしめていたのだから当然だ。誤魔化しようがない。
冷たい水を両手ですくい、顔に叩きつける。タオルで乱暴に水気を拭き取ったが、染み付いた徹夜の疲労の色と、眼球の奥の充血はどうにもならなかった。
どう誤魔化すか。どんな理屈を並べれば、この顔のままで「余裕のある管理者」を演じきれるか。頭の中で必死に言い訳を組み立てながら、湊は玄関へと向かった。
*
十七時ちょうど。
外から、車が停まる微かな音がしたかと思うと、玄関のチャイムが短く一度だけ鳴った。
湊は深く息を吸い込み、表情筋をコントロールして、冷静さを装ってドアを開けた。
初夏の傾きかけた西日を背に、矢島が立っていた。
ヨレたスーツ姿。片手には、言葉通りコンビニのビニール袋が提げられている。
「……わざわざご苦労様です。二人とも、ただの軽い風邪です。俺の初期対応が完璧だったので、既に平熱に戻りつつあります」
挨拶もそこそこに、湊は用意していた報告を早口で並べ立てた。
隙は見せない。俺はこの状況を問題なく回している。そう主張するように、背筋を伸ばし、矢島の目を真っ直ぐに見据えた。
だが、矢島は何も言わなかった。
ただ、鋭い観察眼で湊の全身を――特に、その顔に張り付いた疲労の影を、数秒間じっと無言で見つめた。
大人の沈黙に、湊の背中を冷たい汗が伝う。
やがて、矢島は深く、呆れたようなため息をついた。
「……くだらん言い訳はいい。一睡もしてない顔だぞ」
「いえ、俺は――」
「初期対応が完璧で、ただの軽い風邪なら、そんな顔になるわけないだろうが。……昨日の夜は、救急車を呼ぶか迷うレベルの、地獄みたいな高熱だったんだろ」
図星だった。
湊の喉がヒュッと鳴り、言葉に詰まる。
バレた。俺が感情に振り回され、合理的な判断力を失い、ただ震えながら彼女の手を握ることしかできなかった夜が。すべてを自力で解決できると嘯いていた子供の虚勢が、いとも容易く剥がれ落ちた。
だが、矢島は家宅捜索をするように上がり込むことも、無責任さを怒鳴りつけることもしなかった。
ただ、手に持っていたコンビニ袋を、湊の胸にドンッと押し付けた。
「……俺を呼ばなかったのはマイナスだがな」
矢島は、呆れを含みつつも、どこか穏やかな声で言った。
「誰にもバレず、最悪の事態も防いだ。……それで十分だ。よくやったな、湊」
その一言で。
張り詰めていた湊の肩から、スッと力が抜けた。
必死に隠そうとしていた感情的な失態を、この大人は「よくやった」と評価してくれたのだ。お前がやったことは間違いじゃないと、承認してくれた。
胸の奥で固まっていた鉛のような不安が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「……中へ、入ってください。少しだけなら、大丈夫ですから」
湊が招き入れると、矢島は少し意外そうな顔をした。普段なら絶対に大人を入れようとしない湊の変化を感じ取ったのだろう。矢島は小さく頷き、靴を脱いでリビングへと上がった。
*
リビングでは、湊の足音とは違う、大人の重い足音に気づいた詩織が、少し緊張した面持ちで椅子に浅く腰掛けていた。
「先生……すみません、お休みしちゃって」
「いい。顔色は悪くないな。飯は食えてるか?」
「はい。うどんを少し……」
矢島は差し入れの袋をテーブルに置き、形だけの「面接」を始めた。体調の推移、現在の容態。プリントの束をテーブルの端に置きながらの、形式的なやり取り。
それを終え、矢島が「よし、今月の点検は終わりだ」と立ち上がろうとした時だった。
「……矢島先生。一つ、報告しておくことがあります」
湊が、静かに、だが重い声で切り出した。
矢島が腰を浮かせかけた体勢のまま、鋭い視線を湊に向ける。
湊は隣に座る詩織と、一度だけ視線を交わした。詩織の瞳には不安が揺れていたが、湊が小さく頷き返すと、彼女も覚悟を決めたように瞬きをした。
これは、俺たちだけで抱えるべき問題じゃない。彼女の居場所を守るためには、使えるカードはすべて使うべきだ。あの熱の夜を越えて、湊は明確にそう判断していた。
「数日前、詩織のスマホに『知らない番号』から着信がありました。……父親からです」
リビングの空気が、一瞬で重く張り詰めた。
矢島はゆっくりと椅子に座り直し、低く唸った。
「……接触したのか」
「駅前の喫茶店に呼び出されました。金の無心が目的だと分かったので、俺が直接出向いて、二度と近づくなと警告して叩き出しました」
湊の報告に、矢島は深く、重いため息をついた。
「直接対峙しただと? ……バカ野郎。未成年の高校生が凄んだところで、あんな手合いが素直に引き下がるわけないだろうが」
「分かっています」
湊は、引き出しから一枚のメモ用紙を取り出し、テーブルの上に差し出した。
無機質な数字の羅列。父親の電話番号だった。
「今は大人しくしているようですが、いつまた学校や周辺を嗅ぎ回るか分かりません。念のため、この番号を共有しておきます。学校の代表電話のブラックリストに入れておいてください」
湊のその行動に、矢島はわずかに目を見開いた。
これまで、自分たちの中だけで問題を完結させようと頑なになっていた湊が、自らの限界を認め、大人に防衛の協力を求めてきたのだ。
矢島は黙ってスーツの内ポケットから手帳を取り出し、その番号を正確に書き写した。
「……よし、これで学校からの情報漏洩の芽は一つ潰せる。お前らも当然、着信拒否にしておけ」
「はい」
「……よく話してくれたな。一人で抱え込まずに正解だ」
矢島は手帳を閉じ、凄みのある声で言った。
「だが、いいか湊。十月十五日までは、奴は法的な親だ。向こうがその気になれば、警察すら奴の味方になる。未成年の防波堤なんて、法が絡めば一瞬で崩れる。……今度何かあったら、絶対に一人で動くな。必ず俺を呼べ」
*
矢島が立ち上がり、玄関へと向かう。湊はそれを見送るため、廊下へ出た。
ドアに手をかける直前、矢島は足を止め、振り返って湊の目を真っ直ぐに見据えた。
「お前があいつを本気で守ろうとしてるのは、今回の件でよく分かった。……だがな、湊」
矢島の声のトーンが、教師のものから、冷徹な大人の男のものへと変わる。
「十月十五日が過ぎて、あいつが親の呪縛から自由になっても。……お前は今のその熱を抱えたまま、あいつを一人で放り出せるのか?」
「…………」
湊は、何も答えられなかった。
喉が張り付き、呼吸が浅くなる。
「十月十五日が終わったあと、お前があっさり縁を切れるタイプには見えん。……自分で、自分の落とし前を考えとけ」
矢島はそう言い捨てると、無造作にスラックスのポケットから小さな箱を取り出し、湊へ向かって放り投げた。
反射的に受け取る。
手のひらに収まる、四角く軽い紙箱。指先に伝わるその薄さと、カサリとした独特の乾いた手触り。薄暗い玄関でも、そのパッケージの形状と、端に記された数字や避妊具特有のデザインが何を意味しているのか、一瞬で理解できた。
頭の芯が、鈍器で殴られたように真っ白になる。
指先から心臓へと、嫌な熱が駆け上がった。
「……矢島先生、これ……っ」
かすれた声で問い返すと、矢島はドアノブを掴んだまま、振り返らずに鼻で笑った。
「どうしようもなくなったら使え」
一拍置いて、さらに低い声が重なる。
「人間、理屈じゃ片付かないこともある。……それが、男の責任だ」
背中越しにそれだけを言い残し、矢島はドアを開けて夕暮れの街へと歩き出していった。
カチャリと、外からドアが閉まる音だけが、残された湊の耳に空虚に響いた。
*
玄関の鍵をかける。
薄暗い廊下に、金属音だけが冷たく響いた。
大人の差し入れが入ったビニール袋と、右手に握りしめた小さな箱。
迫り来る、父親という過去からの悪意。
そして右手にあるのは、彼女を保護対象としてではなく、ひとりの女性として突きつける現実。
あの男は、最初から気づいていたのかもしれない。俺が彼女に向けている感情が、単なる同情や正義感などではなく、もっと泥臭くて、熱を持ったものであることを。
かつて俺が彼女を匿うための唯一の理屈だった、十月十五日。
だが、その期限が切れた後、俺は何を根拠に彼女の隣にいればいいのか。
廊下の暗がりに、小さな気配がした。
「……湊くん? 先生、帰られましたか?」
リビングのドアの隙間から、詩織が心配そうに顔を覗かせた。
湊は反射的に右手の箱をズボンのポケットの奥深くへと押し込み、震える呼吸を無理やり整えた。
隙間から見える彼女の瞳には、不安と、そして確かな信頼が混ざり合っている。
最悪の脅威が再び現実味を帯びて迫る中、それでも彼女は、また俺を頼ろうとしてくれている。
そんな彼女を、もう二度と失いたくないという、説明不能な衝動。
ポケットの中の不当な重量感が、湊の足元をひどく不安定にさせた。
「……なんでもない。ただの、差し入れだ」
湊は嘘をつき、表情を消して彼女のほうへと歩き出した。
窓の外では、夜が静かに深くなっていく。
十月十五日まで、もう残された時間は多くない。
ポケットの中の小さな箱だけが、異様な熱を持っていた。




