第67話:名前をつけられない熱
朝。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日まで窓を暴力的に叩き続けていた激しい雨を嘘のように忘れさせる、ひどく白く、穏やかなものだった。
遠くで鳴るカラスの声さえもが、水気をたっぷり含んだ空気に吸い込まれ、どこか現実味を欠いて聞こえる。
阿久津湊は、体温計の液晶画面に表示された『37.1℃』という数字をじっと見つめ、肺の底にべっとりと張り付いていた重い空気を静かに吐き出した。
昨夜、三十九・五度という異常な高熱を叩き出し、荒い息を繰り返していた彼女の姿から考えれば、驚異的な回復と言っていい。だが、ベッドに半身を起こしている詩織の顔色は、まだ熱にすべての色彩を抜かれたように白く、規則的になったとはいえ、呼吸のたびにまだ吐息の熱が引き切っていないのが分かる。
起き上がる動作にも普段の軽さはなく、肩のラインはひどく頼りない。どこか危なっかしい、バランスを崩せばそのまま倒れ込んでしまいそうな気配があった。
「……今日は、学校を休め」
湊が体温計をケースに戻しながら短く告げると、詩織は驚いたように丸い目を見開いた。
「えっ。でも、もう熱も下がりましたし……。休んだら、授業に遅れちゃいます」
「微熱が残ってる。それに、お前のその掠れた声を聞けば、誰だって病み上がりだと分かる」
湊は、有無を言わせない強さで彼女の言葉を遮った。
「昨日あれだけの高熱を出したんだ。体力の消耗を甘く見るな。無理をして学校へ行き、またぶり返して倒れでもしたら、昨夜の俺の苦労が全部水の泡だ。大体、病人が無理に動くな」
相変わらずの、強がりの屁理屈。だが、昨夜の熱を思い出すたび、彼女を一人で置いていくという選択だけは、どうしてもできなかった。
彼女の呼吸が浅くなり、自分の手の中でその存在が静かに消えてしまうのではないかという絶望。それがまだ、湊の皮膚の裏側に焼き付いている。彼女の規則的な呼吸を、まだ自分の目の届く範囲で確認し続けていないと、どうにも落ち着かなかった。
「……分かりました。じゃあ、今日はお家にいます」
詩織は少し迷うように視線を落としたが、やがて小さく頷いた。
湊は数秒黙り込み、壁の時計へ視線を移した。一限はもう始まっている。今から全力で走れば二限には間に合わないこともない。だが、湊の思考回路はすでに「登校」という選択肢を完全にパージしていた。
「……俺も今日は休む」
「えっ、湊くんも?」
詩織が弾かれたように顔を上げる。
「当たり前だ」湊は努めて平坦な声を作った。「目を離した隙に、またお前がフラフラ歩いて倒れでもしたら、リカバリーに余計な手間がかかる。俺はあくまで、監視のために残るだけだ」
本当は、学校に行くべきだった。俺の生活基盤は、大人たちに「問題ない」と証明し続けることで成り立っている。無断欠席に近い真似は、自らその基盤を揺るがす行為だ。
だが、昨夜の熱と、理性を完全に失っていた自分を思い出すたび、激しい気恥ずかしさと、それ以上に「彼女が目の届く範囲にいない」ことへの異常な不安が、波のように交互に押し寄せてくる。
「……じゃあ、今日は二人でお休みですね」
詩織が、掠れた声で、けれど少しだけ嬉しそうに笑った。
その力ない笑顔を見て、湊はわざとらしく視線を逸らし、キッチンのほうへと背を向けた。
*
午前十時。
平日の昼間に、二人だけで家にいる。
それはひどく非日常的で、家の中だけが別の時間軸に迷い込んでしまったかのような、妙に静かな時間だった。
外からは遠くの幹線道路を走る車の音や、近所の生活音が微かに聞こえてくる。だが、この一軒家の中に届く頃には、それらのノイズは壁と窓に遮られ、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえるほどの深い静寂にろ過されていた。
普段なら、今頃は教室で黒板の文字をノートに書き写している時間だ。社会のシステムから外れ、この閉ざされた空間に二人きりでいるという事実が、湊の感覚を少しずつ狂わせていく。
詩織はリビングのソファに座り、湊が持ってきた厚手の毛布を膝にかけている。湊はキッチンでケトルを沸かし、適温に冷ました白湯を用意して、彼女の隣に腰を下ろした。
いつもなら、明確なパーソナルスペースを確保して斜め向かいの椅子に座る。物理的な距離は、心理的な防壁でもあるからだ。だが今日は、ソファの沈み込みが伝わる距離にいないと、理由のない焦燥感が消えてくれない。
「ほら、飲め。発汗で失われた水分が戻りきってない。脱水は熱を長引かせるぞ」
「はい。ありがとうございます」
詩織が両手でカップを受け取る。その指先は、まだ少しだけ震えていた。
彼女は白湯を一口啜り、ゆっくりと息を吐き出す。そして、膝に視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。
「……湊くん」
「なんだ」
「昨日、ずっと隣にいてくれて……ありがとうございました」
その言葉に、湊の肩が微かに強張る。
「私、夜中に少しだけ目が覚めた時……湊くんが、何を言ってくれたか、なんとなく覚えてます」
湊の心臓が、跳ねるように脈打った。血液が逆流するような感覚。
「……熱で幻聴でも聞いたんだろ」
「幻聴じゃないです。『失いたくない』って、言ってくれましたよね」
「…………」
湊は、すぐには答えられなかった。喉の奥がカラカラに乾き、耳の裏側から熱が這い上がってくるのが分かる。
理性を失い、剥き出しの感情で彼女の手を握りしめた昨夜の記憶。それを彼女が認識していたという事実。
「……ただの独り言だ。お前の聞き間違いだ」
湊は視線をテレビの黒い画面へ逃がし、早口で取り繕った。
「ふふっ」
詩織が、白湯の湯気越しに少しだけ笑う。
だが、その直後。ふと力が抜けたように彼女の身体が傾き、湊の右肩にわずかな重みが乗った。
「……おい。何やってる」
「……すみません。まだ、ちょっと力入らなくて……。重いですか?」
「なら寄りかかるな。邪魔だ」
「ひどいです」
口ではそう言いながらも、詩織は離れようとしなかった。普段の彼女なら、湊に迷惑をかけることを極端に恐れ、すぐに距離を取るはずだ。だが、昨夜の熱に浮かされた時間が、彼女の中にあった『遠慮』という境界線を少しだけ鈍らせていた。
湊は、肩に伝わる彼女の微かな重みを拒絶することができなかった。
シャンプーの残り香と、微かな熱。それらが湊の嗅覚と触覚を同時に刺激する。ただ小さくため息をついて、窓の外へ視線を向けた。
静かな住宅街。世界から切り離されたようなこの閉ざされた非日常の空間が、息が詰まるどころか、今の湊にはひどく心地よかった。
*
昼過ぎ。
うとうとしていた詩織が目を覚まし、シャワーを浴びたいと言い出した。
湊は「五分で出てこい」と条件を出し、スマホを片手に浴室の前で待機した。扉の向こう側から聞こえる水音。それに昨夜の生々しい清拭の記憶が重なり、湊は落ち着かない心地で洗面所の床のタイルを見つめていた。
数分後。脱衣所のドアが開くと、湯気と共に詩織がリビングに戻ってきた。
足取りは明らかにふらついていた。熱いシャワーを浴びたせいで体力を奪われたのだろう。頬は不自然に上気し、濡れた髪からは滴が零れて、エプロンの肩を濡らしている。
「……だから言っただろ。無茶をするな」
湊はすぐに立ち上がり、彼女の腕を引いてソファに座らせた。
「ごめんなさい……お湯が気持ちよくて、つい……」
「いいから黙ってろ。髪、乾かしてやる」
湊が洗面所からドライヤーを持って戻ってくると、詩織は驚いたように目を丸くした。
「え、でも……自分でやります」
「そのふらつく手でドライヤーを持って、また熱でもぶり返したら面倒なんだよ。大人しく座ってろ」
湊は有無を言わさずドライヤーの電源を入れた。
温風の音がリビングに響き渡る。湊は詩織の背後に回り、濡れた髪にそっと指を通した。
細く、柔らかい髪。
湊は、自分の指の動きが驚くほど慎重になっていることに気づいた。毛先が絡まるたび、壊れ物を扱うように、ゆっくりと指を動かす。傷つけないように。彼女の不調を、これ以上長引かせないように。
「……湊くん」
「なんだ」
「上手ですね。……すごく、気持ちいいです」
詩織の声が、ドライヤーの音に消されそうなほど小さく、震えていた。
湊は何も答えない。
ただ、指先に絡まる彼女の髪の感触と、無防備な首筋から伝わる微かな体温に、湊はドライヤーを持つ手を少しだけ震わせた。
やがて髪が完全に乾ききると、湊はドライヤーのスイッチを切った。
静寂が戻る。横に回り込んで顔を覗き込むと、詩織はソファの背もたれに深く寄りかかり、静かな寝息を立てていた。シャワーの疲労と、温風の心地よさに抗えなかったらしい。
湊は小さくため息をつき、毛布を彼女の肩まで掛け直した。
そのまま静かに離れようとした時。寝返りを打つように動いた詩織の手が、湊のシャツの袖口を無意識にきゅっと掴んだ。
振り払おうと思えば、いつでも振り払える程度の、微かな力。
袖口を掴むその微かな力を、湊は振り払えなかった。
……まるで、自分が必要とされているみたいだった。
自分は誰にも必要とされない。社会のシステムの中で、ただひっそりと生き延びるだけの存在だ。そう思って築き上げてきた孤独の城。
だが今、彼女の無意識の行動が、その孤独を根本から否定している。俺がいなければ、彼女は不安で眠ることすらできないのだという事実が、湊の欠落を満たしていく。
*
夕暮れ。
西日がリビングの床を濃いオレンジ色に染め上げる頃、詩織が目を覚ました。
「っ、ご、ごめんなさい! 私、また……」
「……気にするな。寝るのも病人の仕事だ」
湊は痺れた足を隠すように立ち上がり、冷めた白湯を片付けようと席を立った。
「……湊くん」
詩織が膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、ぽつりとこぼした。
「私、あんなに怖かったのに、湊くんの手の温かさだけ、ずっと覚えてて……。湊くんがいれば大丈夫だって、本当にそう思えたんです」
詩織は、潤んだ瞳で真っ直ぐに湊を見上げた。
「湊くんがいてくれて、本当に……良かったです」
その言葉に、湊は返す言葉を失った。
胸の奥で、何かが決壊する音がした。
「……俺も、だ」
湊は、自分でも驚くほど低い声で言った。
「お前がいなくなるのが、一番怖い。……昨日、お前の熱が上がっていくのを見てた時、……どうにもならなかった」
湊は、ゆっくりと右手を伸ばし、毛布の上で震えている詩織の手を、力強く握りしめた。
「……勘違いするな。お前を無事に十月十五日まで届けるのが、俺の役目だ。……だが最近、その日を『終わり』として考えられなくなってる」
十月十五日。彼女が十八歳になり、この「一時的な避難所」を卒業するはずの期限。大人たちの目を欺き、社会のシステムから彼女を守り抜くためのゴール。これまではその日付だけを道標に、歪な共同生活を「管理」してきたはずだった。
詩織は何も言わなかった。ただ、湊の手を、今度は彼女の方から強く強く握り返した。
*
夜。
簡単な夕食を済ませた後、詩織は「もう大丈夫です」と言って、自分の部屋へと戻っていった。
リビングには、湊が一人残された。
右手を見る。
数時間前、あのオレンジ色の光の中で握りしめた手。
「……失いたくない、か」
自分の口から零れ落ちた言葉を、独り言のように反芻する。
十月十五日まで、カウントダウンは止まらない。
だが今はもう、その期限が「終わり」を意味するようには思えなかった。
キッチンに戻り、詩織の淹れたコーヒーを最後の一口まで飲み干す。
昨夜の地獄のような熱はもうない。
だが、胸の奥に残ったこの新しい温度は、どんなに冷たい風に晒されても、もう、消そうとは思えなかった。
湊はゆっくりと空のカップを置き、静まり返ったリビングを見渡した。
もう、この家を「一時的な避難所」だとは思えなかった。
二階のどこかで、小さく床が軋む音がした。
その気配があるだけで、湊はもう、一人ではなかった。




