第66話:社会の壁と、名前のない熱
朝、窓を叩く雨音は止んでいた。
だが、代わりに家を支配していたのは、不吉なほどに速く、浅い呼吸の音だった。
阿久津湊は、自室のベッドで目を覚ました瞬間、肺の奥に微かな重さを感じた。昨日の放課後、一本の傘の下で詩織を庇い、右肩をずぶ濡れにして坂道を登った代償だろう。体温は恐らく微熱程度。平時なら、薬を飲んで寝て終わりにする程度の不調だった。
だが、そんな自分自身の微かな不調など、次の瞬間に訪れた「空白」によって完全に意識の外へと追いやられた。
――静かすぎる。
いつもなら聞こえるはずの、菜箸がボウルを叩く音も、トースターが鳴らす電子音も、今朝は何一つ聞こえてこない。階下から上がってくるのは、いつもの生活の匂いではなく、静まり返った家の奥から漏れ聞こえてくる、苦しげな呼吸の気配だけだった。
湊は、着替えもそこそこに階段を駆け下りた。彼女の部屋のドアの前、ノックに対する返事はない。
「詩織、入るぞ」
ドアノブを回して足を踏み入れた瞬間、むせ返るような熱気が湊の顔を打った。
カーテンが閉め切られた薄暗い室内。ベッドの中で丸まり、シーツを固く握りしめている詩織の顔は、熱に焼かれたように赤く染まっていた。
「……ぁ、……みなと、くん……」
焦点の合わない潤んだ瞳が、ゆっくりと湊へ向けられる。湊は無言で体温計を彼女の脇に挟み、数秒後の電子音を待った。
液晶画面が弾き出した数字は――『39.5℃』。
「……っ」
湊の指先から、さっと血の気が引いた。
すぐに病院へ連れて行かなければ。ポケットからスマートフォンを取り出し、近所のクリニックを検索しようとした指が、画面の上でピタリと止まる。
――保険証。
そのたった三文字が、湊の思考を冷酷に縛り付けた。
詩織の父親は、多額の借金を背負って蒸発した。家賃すら払えなかった男が、健康保険料をまともに納めていたはずがない。彼女が持っている保険証は、おそらくとうの昔に資格を喪失しているはずだ。
金は払える。そんなことはどうでもいい。
問題は、その先だ。
保険証を持たない未成年の女子高生が、保護者でもない男子高校生に付き添われて窓口に現れれば、必ず事情を聞かれる。現在の住所は。親の連絡先は。なぜ同級生が付き添っている。
そこから生じた小さな綻びは、大人たちの手によって瞬く間に広げられ、俺たちが息を潜めて守ってきたこの「一時的な避難所」は、その日のうちに法律と制度によって解体される。
手の中のスマホが、ひどく冷たく、重い鉄の塊のように感じられた。
湊はギリッと奥歯を噛み締める。
この家を完璧に管理しているつもりだった。だが、いざという時、俺は彼女を真っ当に助ける権利を何一つ持っていない。
所詮、俺は無力な子供だ。十月十五日。彼女が十八歳になり、居場所を自分で選べるようになるその日まで、あと何日だ? そのゴールテープを切る前に、俺のたった一つの判断ミスが、彼女の自由を永遠に奪うことになる。
「……ごめ、んなさい……」
詩織の瞳から、熱を持った涙が溢れ、枕を濡らしていく。
「私、……また、めいわく……っ」
熱に浮かされた声ですら、詩織は自分より先に湊を気にしていた。
その事実が、今の湊には痛かった。
「……喋るな」
湊は、震えそうになる声を喉の奥で押し殺した。
「迷惑なんかじゃない。……お前が俺にやった、あの殺人的な特攻タックルと、いちご飴を溶かした激マズの焦げたお粥に比べればな」
かつて自分が倒れた時のことを引き合いに出すと、詩織は苦しそうな息の中、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
「……いいか、よく聞け。俺がここで、お前を管理する。病院には頼らない。俺がここでお前を看る」
湊は、ベッドの縁に片手をつき、詩織の潤んだ瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だが、もしお前の息が本当に苦しくなったり、本当におかしくなりそうだったら……その時は迷わず救急車を呼ぶ。金も世間の目も、矢島も、俺の城も、全部知ったことか。……だから、お前は何も心配せずに、今は黙って寝てろ」
それは、理屈屋で自己防衛の塊だった湊の、すべてを投げ打つ覚悟だった。
湊は立ち上がり、キッチンへ走った。
氷枕を用意し、スポーツドリンクを薄めてストローを挿す。その手を動かしながら、湊はスマホの画面を狂ったように叩き続けた。
『発熱 危険なサイン』『呼吸 異常 見分け方』『喘鳴 原因』
大人もいない、病院にも頼れない。ならば、俺が彼女の変化をすべて観測し、最悪の事態を水際で防ぐしかない。呼吸数。胸の陥没。爪先の色。無機質な医療情報を、湊は必死に脳へ刻み込んでいく。
正午を過ぎる頃、詩織の発熱はピークに達した。
大量の汗が肌に張り付き、彼女は熱風の中に放り出されたかのように何度も身をよじって苦しんでいる。着替えさせて、汗を拭かなければならない。湊は温めたタオルを用意し、ベッドの傍らに跪いた。震える指先で、彼女の寝巻きのボタンを一つずつ外していく。
熱を持った肌の近さに、湊は息を詰めた。
固く絞ったタオルを、彼女の首筋から背中へとそっと滑らせる。
「……っ」
詩織の身体が、ビクリと震える。
タオルの薄い布越しに伝わる、彼女の華奢な肩甲骨のライン。心臓が、鼓膜の裏でうるさいほどに鳴っている。
「……みなと、くん……」
「……いい、よ。……だって、お風呂のとき……私、もう全部、見られちゃってる、し……」
熱に浮かされた、途切れ途切れの声。
脳裏に、あの脱衣所での記憶が鮮烈に蘇る。あの時は「大人」の仮面を被って必死に誤魔化した。だが今は、そんな仮面を引っ張り出す余裕すらない。
「……あれは事故だと言っただろ。……お前、こんな時にまで」
強がる声は、自分でも情けなくなるほど上ずっていた。
「……いいの。……私、湊くんなら……いいの」
詩織の手がシーツの中から這い出し、タオルの上から湊の手首をそっと握った。氷のように冷え切っていた湊の指先に、彼女の39度の熱が移っていく。
他人をノイズとして切り捨ててきたはずなのに。
どうして俺は、こいつの温もりが消えることだけが、こんなにも怖い。
……守っているつもりだった。
だが、本当に救われていたのは、どちらだったのか。
湊は新しいTシャツを素早く着せると、ベッドの横の床に座り込み、壁に背中を預けた。
窓の外は、いつの間にか深い夕闇に沈みかけていた。
深夜二時。雨は上がり、遠くで救急車のサイレンが微かに聞こえては遠ざかる。
その音が近づくたびに、湊の指先にはわずかに力が入った。
結局、俺はその番号を回さなかった。
規則的になった彼女の寝息だけが、今のこの世界で唯一の、確かな生存証明だった。
湊は、自分を握る詩織の小さな手を、今度は自分の意思で、そっと握り返した。
*
午前八時。
窓から差し込む朝日は、昨日の鬱屈とした空気を完全に忘れさせるほど眩しく、部屋の中を白く飛ばしていた。
床に座り込んだまま浅い眠りに落ちていた湊は、キッチンのほうから聞こえてきた微かな物音に、跳ねるように目を覚ました。ベッドはもぬけの殻だ。
「……詩織!?」
慌ててキッチンへ向かうと、そこには寝巻きの上にエプロンを羽織った詩織が、フライパンを片手に立っていた。
だが、顔色は決して万全ではない。頬はまだ少し青白く、額にはうっすらと汗がにじんでいる。キッチンの天板に身体を預けるようにして、どうにか立っている状態だった。
「お前……! なにやってるんだ、まだ寝てろ!」
湊は駆け寄り、強引にフライパンを奪い取った。コンロの火を消し、彼女の額に手を当てる。まだ微熱特有の嫌な熱さが残っている。
「フラフラじゃないか。座ってろ。……お前が今倒れたら、昨夜の徹夜が全部無駄になる。病人を働かせて容態を長引かせるなんて、最悪の選択肢だ。寝てろ」
あまりの心配を理屈で偽装した強い語気が飛び出した。詩織はびくっと肩を揺らしたが、すぐに申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい……。でも、せめて朝ごはんくらい、私が作らなきゃって思って」
「……座れ。俺がやる」
湊は短くため息をつき、詩織の肩を支えるようにして椅子に座らせた。焼きかけの卵を仕上げ、厚切りの食パンをトースターに放り込む。
椅子にちょこんと座った詩織が、その背中をじっと見つめている視線を感じる。
「……あの、湊くん」
「なんだ。気分が悪くなったか」
「違います。……あの、昨日、着替えさせてくれたの……私、なんとなく覚えてます。……湊くんの手、すっごく優しかったです」
「…………ッ!」
湊の顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。トングを持つ手が滑り、危うく目玉焼きを落としそうになる。湊はわざと仏頂面を作り、皿を少し強めにテーブルへ置いた。
「……欠点だらけの緊急避難措置だ。変な意味なんてない」
「ふふ、わかってます」
詩織は、少しだけ掠れた声で、心底嬉しそうに笑った。
「……私、湊くんに『管理』されてて、本当に良かったです」
『管理』――かつて、自分を守るための冷たいルールとして使ったその言葉が、今はどんな甘い言葉よりも深く、湊の胸を締め付けた。
バターの匂いが満ちるたび、昨夜から続いていた警戒状態が、ようやく解除されていく。
湊は、向かいの席に腰を下ろした。
「湊くん、はい、どうぞ」
詩織が、ふらつく手でゆっくりと差し出した、湯気の立つマグカップ。
「……コーヒー、今日はモカにしました。……湊くんが、好きなやつですよね?」
「……熱すぎる。猫舌を殺す気か」
湊は毒づきながらも、何も言わず、もう一口だけコーヒーを飲んだ。
十月十五日まで、あと何日か。
カウントを止めたわけじゃない。
だが今の俺にとって優先すべきなのは、未来の期限じゃない。
目の前のこの体温を、失わないことだった。
フルーティーで、少しだけ苦い香りが、静かな朝の空気に溶けていく。
湊は、冷めかけたカップをもう一度だけ口元へ運んだ。




