第65話:雨音と、片方の傘
朝、意識がまどろみの淵を漂い始めた時、耳に届いたのは執拗な雨音だった。
一軒家の高い天井から響くその音は、いつになく重く、低く、俺の部屋の静寂を塗りつぶしていた。
かつてはこの音を聞くたびに、ただ「今日は外出が億劫だな」とだけ思っていた。雨は俺の生活を邪魔するだけの、面倒な現象でしかなかったから。
「……湊くん、おはようございます。今日は、ずっと降り続きそうですね」
一階のキッチンから、トーストの焼ける香りと共に詩織の声が上がってくる。
俺は重い体を起こし、まだ薄暗い寝室の窓を少しだけ開けた。濡れた土の匂いと、五月の湿った風。手入れを忘れた庭の木々が、雨に打たれて重たげに揺れている。
「……ああ。この雨じゃ、外には干せないな。二階の空き部屋を使おう。詩織、お前の制服も持ってきていい」
階段を下りながら、俺は自分でも驚くほどトーンを抑えて言っていた。
以前の俺なら、湿度の不快さを舌打ち混じりに吐き捨てていただろうに。
キッチンでは詩織が、湯気の立つ味噌汁を丁寧に器に注いでいる。その何気ない動作一つに、この家が「ただの箱」ではなく、誰かの体温を感じる場所に変わっていることを突きつけられる。
「はい、ありがとうございます! 湊くんも、今日はちゃんと上着を持って行ってくださいね。少し冷えますから」
食卓に着くと、定位置に並べられた朝食が湯気を立てていた。かつて、この広すぎるテーブルで一人、冷めたパンを詰め込んでいた俺には想像もしなかった光景だ。
向かい側に座る詩織が、パンを小さくちぎって口に運ぶ。俺はそれ以上彼女を見ることができず、逃げるように自分のトーストに手を伸ばした。
玄関で靴を履く際、俺は自分の傘を手に取る前に、無意識に隣の傘立てに目をやった。
「……詩織。カバンに折り畳み傘、ちゃんと入れたか?」
「あ、はい。今朝、ちゃんと確認しました。湊くんこそ、忘れ物ないですか?」
「……俺は大丈夫だ。気をつけて行けよ」
確認するのが、当たり前になっている。
一人で生きるなら、他人が濡れようが風邪を引こうが、それはその人間の不手際だ。だが今は、隣を歩く人間が雨に打たれる想像をしただけで、胸の奥が少しだけ、心許ない感覚になる。この、自分でも制御できない「心配」を、俺はまだ、どう扱えばいいのか分からずにいた。
*
放課後の校舎は、外を叩きつける豪雨のせいで、いつもよりも密閉されたような静けさに包まれていた。窓ガラスを激しく叩く雨粒の音。廊下の蛍光灯が、時折不安げに瞬く。
俺は昇降口のベンチで、参考書を開きながら時間を潰していた。早く帰った方がいいのは分かっている。なのに、ペンを動かす指先はどこかぎこちなく、意識の半分は、ここから離れた場所にある図書室へと向かっていた。
「……おい、阿久津」
横から、幽霊のような掠れた声がした。見ると、矢野が自分の机に突っ伏し、スマホの画面を恨めしそうに見つめている。
「矢野か。まだ帰ってなかったのか」
「帰れるわけねーだろ……。これ、見てくれよ」
突き出されたスマホには、春奈からの簡潔なメッセージ。『雨、やばいね。一緒に帰る?』
矢野にとっては、これが死刑宣告か何かに見えているらしい。
「これ、どういう意味だと思う? 昨日の今日だぞ。あいつの目が怖くて、返信すら指が震えるんだよ……」
「……ただの誘いだろ。お前、昨日の勢いはどうしたんだ。ジップロック三重にするほどの根性があっただろ」
「あれは、なんていうか……必死だったからだよ! いざ普通に戻ると、あいつが何を考えてるか、さっぱり分からなくて怖いんだよ……」
矢野は「あー!」と叫びながら、また机に顔を埋めた。
あいつらの関係も、昨日の「栞の返還」を境に、決定的に何かが変わってしまった。観測者が観測される側になり、ヘタレが自分の感情の重さに耐えきれなくなる。
そんなドラマをどこか他人事のように眺めながらも、俺は自分の胸元にある、不自然な「重み」に気づいていた。
俺の手元には、今朝持ってきた特大サイズのジャンプ傘がある。
自分一人ならオーバースペックなその傘を選んだのは、朝の時点で、この豪雨を予見していたからだ。図書室で委員の仕事をしている詩織の、あの頼りない折り畳み傘では、この雨風を凌ぐのは無理だろう。
(待っていれば雨足は弱まる。あるいは、あいつだって自分の足で帰れるはずだ)
頭の中ではそう言いきかせた。だが、それよりも早く、俺の体は自分のカバンを肩にかけ、図書室へと向かっていた。自分でも呆れるほど、迷いはなかった。
静まり返った放課後の廊下を、自分の足音だけを響かせて歩く。図書室の扉を開けると、古い本の匂いと、雨の日の沈んだ空気が混じり合う空間が広がっていた。窓際のカウンターで作業をしていた詩織が、驚いたように顔を上げた。
「湊くん? どうしたんですか、まだ残ってたんですか?」
「……少し、調べ物をしていただけだ。外の雨を見たか? お前のあの小さな傘じゃ、校門を出る前にずぶ濡れになるぞ」
俺は手に持った大きな傘を、あえて雑に掲げて見せた。
「え……。もしかして、迎えに来てくれたんですか?」
「……まあな。二階に物干しスペースも作ったし、お前の制服が濡れて、乾かすのに手間取るのは避けたいからな」
嘘だった。空き部屋なんて、ただハンガーを吊るすだけで済む話だ。そんなことは、この豪雨の中を迎えに来る労力とは釣り合わない。俺の不器用な言葉の裏を、詩織は見透かしているようだった。彼女は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに花が開くような笑顔を見せた。
「ふふ、湊くんらしいですね。……でも、嬉しいです。ありがとうございます。私、実はどうしようかなって、窓の外を見ながら少し不安だったんです」
詩織が手早く荷物をまとめ、俺の元へ駆け寄ってくる。その信頼しきった足取りに、俺は言い返すべき言葉を失った。「来てくれる気がしていた」という昨日彼女が言った言葉が、予言のように俺の脳内でリフレインする。それは積み重ねてきた日々の「当たり前」の集大成なのだと、今の俺には理解できた。
*
一本の傘の下、俺たちは一軒家へと続く緩やかな坂道を歩き出した。バチバチと、暴力的な重みで布地を叩く雨音。視界は白く煙り、世界から色が失われたような感覚に陥る。だが、この傘の内側だけは、妙に色彩が鮮明だった。
俺の右肩。詩織のカバン。そして、二人の間に漂う、湿り気を帯びた体温。
「湊くん、もっとこっち入ってください! 右肩、もう真っ暗になるくらい濡れてますよ!」
詩織が焦ったような声を出し、俺の左腕に自分の両手を絡めてきた。グイ、と強い力で俺を傘の中心へと引き込む。あまりの近さに、一瞬、呼吸が止まった。自分の左腕に触れる、彼女の制服の冷たい質感と、その奥にある確かな熱。雨の匂いに混じって、朝に嗅いだあの柔軟剤の香りが、かつてないほど濃密に俺を包み込んだ。
「……入っている。お前が濡れないようにするのが優先だ。……気にするな」
「ダメです! 二人で入るための傘なんですから、半分こですよ!」
半分こ、という非論理的な、けれど温かい概念。
俺の右肩を犠牲にして、彼女を完全に守る方が正しいはずだ。だが、俺のそんな理屈は、彼女の「もっと近くに来てください」という切実な願いの前に、霧散して消えた。
「……分かったよ。ただし、足元に気をつけろよ」
「はい! ちゃんと湊くんのこと、見て歩きますから」
そう言って、詩織はさらに俺の懐に潜り込むように距離を詰めてきた。傘を持つ右手に、自分の体重以上の重みを感じる。右肩を叩く雨の冷たさと、左腕を支配する彼女の熱。その両極端な感覚の狭間で、俺は、かつてこの坂道を一人で歩いていた自分を思い出していた。
あの頃の俺は、濡れないこと、汚れないこと、そして誰にも干渉されないことを「平穏」だと信じていた。だが、今のこの、不自由で、重たくて、肩が濡れていく感覚の方が、ずっと「生きている」という実感に近いのは、一体どういうわけだろう。住宅街の家々が放つ橙色の光が、水溜まりに反射して揺れている。
俺たちは、どちらからともなく歩幅を合わせ、雨音に遮られた沈黙の中を、確かな足取りで進んでいった。
*
玄関の重い引き戸を開けると、一軒家特有の、少し冷んやりとした空気が俺たちを迎えた。だが、靴を脱ぐ瞬間に聞こえる「ただいま」という重なった声が、その冷たさを瞬時にかき消していく。
「あちゃあ……湊くん、やっぱり右半分、びしょびしょじゃないですか。……ごめんなさい、私を庇ってくれたから」
三和土に滴り落ちる水の跡を見ながら、詩織が申し訳なさそうに眉を下げる。俺は制服の濡れた部分を無造作に払い、首を振った。
「言っただろ、俺が勝手にやったことだ。お前のせいじゃない。……それより、早く風呂に入ってこい。身体が冷えたら、明日の朝飯、作れなくなるだろ?」
「分かっています。湊くんも、すぐに着替えてくださいね」
詩織が脱衣所へと消えていくのを見届け、俺は自分の濡れたジャケットを脱ぎ捨てた。二階へ上がり、南側の広い空き部屋の窓を開ける。外の豪雨の音を間近に聞きながら、俺は鴨居にハンガーを二つ並べて吊るした。
滴り落ちる、水の音。
詩織の制服と、俺の制服。
同じ雨に打たれ、同じ傘の下で運ばれてきた二つの「生活」が、暗い部屋の中で並んで揺れている。
一軒家という巨大な箱。一人で住んでいた頃は、この「部屋干しの湿気」さえも、忌むべき不快感だった。だが今は、二階から一階へ降りていく途中で鼻をくすぐる、お味噌汁を温め直す出汁の香りと、彼女が使うシャンプーの匂いが、この家を「家」として完成させているのだと感じていた。
リビングに降りると、食卓には温かいお茶が用意されていた。詩織が風呂から上がり、少し上気した顔でキッチンに立っている。
「湊くん、お風呂空きましたよ。……あの、さっきの傘、玄関に干しておきました。明日は晴れるといいですね」
「……そうだな。晴れれば洗濯物もすぐに乾くだろうしな」
俺は椅子に深く腰掛け、湯気の立つ湯呑みを手に取った。
一人で生きるなら、傘を傾けて肩を濡らす必要もない。他人を迎えに行くという手間をかけることもない。部屋の中に湿った洗濯物が並ぶ不快感に耐えることもない。
それは、間違いなく、かつての俺が望んでいた「合理的」な人生だった。
けれど。自分の肩を濡らしてまでも守りたかったものが、今、こうして目の前で「おかわり、要りますか?」と笑っている。この不自由で、湿っぽくて、けれどどうしようもなく温かい毎日を、俺はもう、「ノイズ」として切り捨てることはできない。
外の雨音は、さらに激しさを増していた。だが、この広い一軒家を満たしている「二人分の温度」こそが、今の俺にとって最も守るべき、かけがえのない平穏だった。




