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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第64話:日常の解像度と、戻ってきた栞

 月曜日の朝。

 窓から差し込む光は、先週までよりも少しだけ柔らかく、空気中を舞う細かな埃さえも、どこか穏やかなリズムで浮遊しているように見えた。


 かつての俺なら、こんなものはただの「不衛生なノイズ」として切り捨てていただろう。だが今は、それが朝の静けさを形作る一部のように見える。世界の解像度が変わるというのは、こういう些細な変化を、異常事態ではなく日常として受け入れることなのかもしれない。


 朝食の片付けを終えた詩織が、キッチンで鼻歌混じりに水仕事をしている。蛇口から流れる水の音、陶器が触れ合うカチャカチャという乾いた音。その背中を眺めながら、俺はテーブルでノートを広げ、今週の予定を書き出していた。


「……湊くん。今日の夕飯、ハンバーグの残りで煮込みにしてもいいですか?」


 詩織がふり向かずに尋ねる。これまでの俺なら、反射的に「勝手にしろ。お前の担当だろ」と突き放していただろう。だが、今の俺の喉を通ったのは、もっと別の、少しだけ湿り気を帯びた言葉だった。


「……いいと思う。余らせるのも勿体ないしな。……あと、もし冷蔵庫にチーズがあるなら、乗せてくれるか?」


 詩織の手が、ピタリと止まった。

 彼女はゆっくりとこちらを振り返り、驚いたような、それでいて心の底から安堵したような、柔らかな笑顔を見せた。


「はい! 喜んで! ……湊くん、なんだか今日は少しだけ、顔が優しいですね」


「……気のせいだ。よく寝ただけだ」


 俺は慌ててノートに視線を落とした。ペン先が、意味もなく同じ予定を二度なぞる。

 自分だけを信じて、誰も踏み込ませないように生きてきた。それが俺の身を守るための、たった一つの、絶対的なルールだった。けれど、今はその掟が、詩織の立てる水の音や、部屋に満ちる甘い柔軟剤の匂いで、少しずつ、けれど確実に書き換えられていく。

 それは恐怖でもあったが、同時に、これまでに感じたことのないほど深い平穏でもあった。


「……行くか、詩織。そろそろ出ないと遅れるぞ」


「はい! 行ってきます!」


 玄関で並んで靴を履き、二つの「行ってきます」を重ねる。

 その響きが、もう耳慣れない不協和音ではなく、俺たちの生活の開始を告げるチャイムのように聞こえていた。


 学校に着くと、教室の入り口で、死にかけた顔の矢野に呼び止められた。


「……阿久津。……おはよ……」


 自分の机に突っ伏したまま、ゾンビのように顔を上げる矢野。目の下には、一晩中悩み抜いたであろう深い隈が刻まれていた。


「矢野。お前、その顔はなんだ。昨日のケーキが合わなくて腹でも壊したか」


「……違うよ。……これだよ」


 矢野は震える手で、カバンのサイドポケットを指差した。そこには、昨日店で拾い上げたあの「ボロボロの猫のしおり」が、厳重にパッキングされて収められていた。


「春奈さんに……結局、返せなかったんだ。昨日、店を飛び出してすぐ追いかけたんだけどさ。角を曲がった瞬間にあいつの背中を見失っちゃって……。なんだか、その瞬間に頭が真っ白になっちまったんだよ」


「……昨日の今日か。どんだけヘタレなんだ、お前は。今日こそちゃんと返せよ」


「分かってるよ! でもさ、一晩中これを持ってたら、このボロボロさが気になっちまって。何度も何度もテープで直した跡があるだろ? こんな大事なもん拾ったと思ったら、緊張して呼び出せねーんだよ。だから、せめて傷つけないようにジップロック三重にして持ってきた」


「……三重にする意味があるのか。お前、それじゃ中身がよく見えないだろ」


 そこへ、登校してきた詩織が合流した。彼女は矢野の手にある、過剰に包装されたジップロックを見て、心配そうに眉を下げた。


「矢野くん、やっぱり昨日、奈々ちゃんに追いつけなかったんですね」


「……ああ。冬馬さん、かっこ悪いよな、俺。あんなに威勢よく飛び出したのにさ」


「そんなことないですよ。でも、早めに返してあげてくださいね。奈々ちゃん、さっき図書室で、少しだけ寂しそうな顔をしてましたから」

春奈さんが?」


「はい。いつもみたいに本を読んでるんじゃなくて、ただ座ってるだけで。……きっと、昨日あのしおりをなくしてから、ずっと落ち着かないんだと思います。あれ、奈々ちゃんにとっては、自分を支えるために一番必要なものだったんじゃないかな」


 詩織の、確信を突いた一言。

 矢野はしばらく黙っていたが、やがて何かを振り切るように、三重のジップロックを握りしめて立ち上がった。


「……全部、晒してくるわ。かっこつけてる場合じゃねえな」


 放課後の図書室。

 俺と詩織は、返却期限の迫った参考書を返すという名目で、またしても不本意な「観測」に付き合わされていた。窓から差し込む西日が、古い本の匂いが漂う空気をオレンジ色に染めている。


「……あの、春奈さん」


 静まり返った館内に、矢野の裏返った声が響く。

 窓際の席で、本も開かずにぼんやりと外を眺めていた春菜が、ゆっくりと顔を上げた。


「……何? 矢野くん。明日の迎えの予約、もう埋まってるんだけど。……今日は一人で、暇を潰す予定だから」


「違っ……予約とかじゃなくて。これ、落としただろ」


 矢野が、例の猫のしおりを差し出した。あまりのジップロックの厚みに、春奈は一瞬、眉をひそめる。


「……何、これ。爆弾?」


「違うよ! しおりだよ! 汚さないようにしたんだよ!」


 春奈の動きが、止まった。


 一秒、二秒。


 ……そのわずかな空白の間、彼女の瞳の中に、一瞬だけ、深い安堵と、言葉にできないほど脆い少女の顔が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。


 わずかに視線を逸らし、手の中のしおりをきゅっと握り締めた。その仕草だけは、いつもの余裕を全部どこかへ置き忘れていた。

 それは、いつも他人を眺めていた側の人間が、初めて自分の感情に追いつかれたような、そんな顔だった。


「……拾ったんだ。無駄なことするね、矢野くん」


「無駄じゃねーよ。……お前、これがないと落ち着かないんだろ。ほら、ちゃんと持っておけよ」


 矢野が不器用に差し出したしおりを、春奈はひょいと受け取った。

 そして、それを愛おしそうに、けれど誰にも気づかれないような小さな動作で、何度も指先でなぞった。


「ありがと。お礼に、面白いもの教えてあげる。……矢野くんの、10年後の予想図」


「え、お前、占いとかやるのか?」


「ううん。ただの予言。……10年後の矢野くんが、どれだけ私の言いなりになってるかっていう、確定した未来の話」


 春奈はいつもの毒舌に戻ったが、その耳の先は、夕日よりも赤くなっていた。

 本棚の影で、詩織が「よかった……」と俺の袖をきゅっと掴んだ。その手の震えが、俺にまで伝わってくる。


「……湊くん。奈々ちゃん、しおりを受け取った方の手が、少しだけ震えてました。……きっと、すごく怖かったんですよ。大事なものを、本当になくしちゃったんじゃないかって」


 俺は、何も言わずに詩織の手の上に自分の手を重ねた。

 理屈を超えた執着。失うことへの恐怖。そんな、客観的に見れば不格好で「非効率」な重荷を、誰もが抱えて生きている。


 春奈にとっては、あのボロボロのしおりがそれであり、そして俺にとっては、今、この隣で震える手を重ねている少女が、それなのだ。



 帰り道。

 矢野は「10年後もお前の言いなりとか、予言するまでもなく現在進行形だよ!」と、なんだかんだ嬉しそうに駅へと走っていった。あいつのあの単細胞な明るさは、時に俺たちのようなひねくれた人間を救うことがある。


 俺と詩織は、黄金色に染まり始めた歩道橋の上をゆっくりと歩いていた。


「……湊くん。あのしおり、奈々ちゃんが小学校の頃、知らないお兄さんからもらったものなんだって」


 詩織が、柵に手を置いて遠くの夕日を見つめながら呟いた。


「知らないお兄さん?」


「はい。当時、独りぼっちで泣いていた奈々ちゃんを、その人が励まして、その猫の栞をくれたんだそうです。……そのお兄さん、どこか矢野くんに似ていたって」


 俺は足を止め、詩織の横顔を見た。どこか、あいつに似ていた。そんなのは、記憶の美化による錯覚だろう、と一蹴するのは簡単だ。……だが、詩織の次の言葉は、俺の冷めた理屈をあっさりと跳ね除けた。


「それでね、奈々ちゃんが『ありがとう』って顔を上げた瞬間には、もうそのお兄さん、どこにもいなかったんですって。……奈々ちゃんにとっては、不思議な体験だったみたいですよ」


「……見間違いだろう。光の屈折や、子供特有の意識の混濁による――」


「奈々ちゃんね、昨日矢野くんが追いかけてきたとき……ふっと見失っちゃった瞬間に、そのお兄さんと今の矢野くんが重なっちゃったみたいなんです。だから、怖くなって逃げ出しちゃったのかもって」


 俺は、何も言えなかった。

 見失った瞬間に、重なった。矢野があの時、「角を曲がった瞬間にあいつの背中を見失った」と言っていた言葉が脳裏をよぎる。追いかけてくる矢野の姿と、過去に現れた不可解な人物の残像。


 春奈が昨日、逃げるように立ち去ったのは、単なる気まぐれでも冷たさでもなく、その「重なり」に心が耐えきれなくなったからなのかもしれない。


 物理的には不可能な話だ。だが、もしその「誰か」が残していったものが、数年の時を経て再び矢野の手によって彼女に届けられたのだとしたら。

 ……そんなSF映画みたいなことを考えるなんて、俺もどうかしている。


「……湊くん?」


「……帰ろう。今日は、チーズを二枚乗せにしようか。……昨日の続きだ」


「わぁ! 湊くん、太っ腹ですね!」


「……うるさい。焦がさないように気をつけろよ」


 俺は、彼女の笑顔から視線を逃らすように、けれど歩幅を合わせながら前を歩いた。

 理屈を超えた執着。説明のつかない過去。そんな「不確かなもの」を抱えて、俺たちは今日を生きている。


 もし、誰かが仕組んだ寄り道があるのだとしたら。そのゴールは、いつまでもこの、安い柔軟剤の匂いがする台所であってほしい。


 理屈だけの人生なんて、もう、どこにもなかった。

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