第63話:寄り道と、観測者の落とし物
特別棟の裏。ひどく薄暗い校舎の影を、俺は逃げるように足早に立ち去った。
背後で「阿久津、逃げるなよ! 春菜さんの好きな食べ物とかリサーチしてくれよ!」と、なりふり構わぬ矢野の叫びが聞こえてきたが、全力で無視した。あんな、自分の感情という制御不能なバグに振り回されている男に構う余裕なんて、今の俺には一秒もない。
だが。
「全部、晒せ」
さっき、あいつに言い放ったばかりの言葉が、今は鋭いブーメランのように俺の胸の奥をチリチリと焼いている。
他人の恋愛に偉そうなコンサルティングをしておきながら、自分はどうなんだ。
昨日、詩織に「デートと言ってほしかった」と言わせ、今日もクラスの連中の前で変な理屈を並べて彼女を傷つけた。
(……俺の方が、よっぽど格好悪いじゃないか)
俺は図書室の重い扉を、いつもより少しだけ勢いよく開けた。
夕方の図書室は、オレンジ色の光が本棚の隙間を縫って差し込み、埃の粒がキラキラと舞う静かな空間だった。本特有のインクと紙の匂いが、少しだけ俺の荒れた思考を鎮めてくれる。
「あ、湊くん。おかえりなさい」
窓際の席で、詩織がパッと顔を上げた。
彼女の膝の上には、読みかけの文庫本。俺の姿を見つけた瞬間にこぼれたその笑顔に、俺の構築した理屈の壁は、いつも通り、あっさりと無効化される。
「……詩織。帰るぞ」
「はい。……矢野くん、何か困ってたんですか?」
詩織がカバンを手に取って歩み寄ってくる。
「……ああ。救いようのない馬鹿が、馬鹿な悩みを抱えていただけだ。俺たちが関わる必要はない」
俺は足早に図書室を出た。昇降口で靴を履き替え、校門を抜ける。
いつもなら、ここから最短ルートでスーパーへ寄り、夕飯の準備に入る。それが、俺の生活を完璧に維持するための、これまでの正解だった。
だが、俺の足は、いつもの交差点を曲がらなかった。
「……湊くん? スーパーはあっちですよ?」
「今日は寄らない。冷蔵庫にまだストックがある」
「えっ、でも明日の卵が……」
俺は足を止め、振り返った。夕日に照らされた彼女を真っ直ぐに見据える。
もう、理屈では誤魔化さない。
ちゃんと、デートだと言う。
「……昨日の、埋め合わせだ。今日の昼休み、あんな言い方して悪かった」
「え……?」
「だから。……これはただの放課後のデートだ。駅前のケーキ屋に行くぞ」
「……デート」
詩織が、確認するように小さくその言葉を繰り返した。
「なんだ。不満か」
「ち、違います。ただ……ちゃんと言ってくれたの、嬉しくて」
詩織は、少し照れたように視線を伏せる。その頬は夕焼けのせいだけじゃなく、ほんのり赤く見えた。
……その顔を見た瞬間。俺は、自分がとんでもなく恥ずかしいことを口走ったのだと数秒遅れで理解した。心臓の音が、ドクドクと耳の奥まで響いてくる。自分の吐いた息すら、熱を帯びているのがわかる。
そんな二人の間に流れる、密度の高い、甘い沈黙。それを――。
「ひ、ひと思いに殺してくれぇぇぇ!! 阿久津ぅ!!」
絶叫と共に、校門の影から全力で走ってきた影がぶち壊した。
勢いのまま俺の足元にスライディング土下座をかましたのは、矢野だ。
その後ろから、いつも通り「はぁ、暑い。湊くん、今日の矢野くん、挙動が完全に壊れてるよ」と、ダルそうにジュースを啜る春菜が歩いてくる。
「…………」
俺は、深い、深いため息をついた。
「矢野。話は終わったはずだ」
「終わってねーよ! アドバイス通り『全部言う』って決めたけど、春菜さんの顔見た瞬間に頭が真っ白になったんだよ! お前ら、これからケーキ食いに行くんだろ!? 頼む、混ぜてくれ! 四人で行けば、俺も普通に話せる気がするんだ!」
「断る。これはデートだ。お前の手伝いをしてる暇はない」
「お願い、湊くん!」
今度は、春菜がひょいと顔を割り込ませた。
「矢野くん、さっきから視線が泳ぎまくってて面白いんだもん。湊くんたちが何食べるのかも近くで見たいし。ね? 詩織ちゃんもいいよね?」
「えっ、あ、はい。私は、皆さんと一緒なら楽しいかなって……」
詩織が困ったように笑いながら俺を見る。
(……終わった)
俺の「二人きりのデート」は、開始数秒で崩壊した。
だが、詩織も「皆さんと一緒なら」と言っている。ここで俺が頑なに拒めば、また俺の狭量さを晒すことになるだけだ。
「……いいだろう。ただし、ケーキ代は矢野、お前の奢りだ。相談料として払ってもらう」
「よっしゃあ! 任せろ! 財布の中身、全部出してやるぜ!」
「……お前、そういう極端なところが春菜に警戒されるんだぞ」
*
結局、四人で駅前のケーキ屋へと向かう羽目になった。
駅前へ向かう学生の波が、俺たちの横を次々に通り過ぎていく。
カラオケの割引券を配る甲高い声。自転車の急ブレーキの音。どこかの店から流れてくる、聞き覚えのあるJ-POP。夕方の街特有の、少し焦げたような匂いと喧騒。
そんな騒がしい景色の中で、詩織だけは妙に楽しそうに笑っていた。
前を歩く詩織と春菜。そして、一歩下がって「どうしよう、隣歩くタイミング逃した……」と小声でパニックになっている矢野。俺はその隣で、半分諦めたような気持ちで歩を進める。
「ねえ、詩織ちゃん。水族館で湊くん、なんて言ったの?」
「ふふっ。……内緒、です。でも、すごく湊くんらしかったですよ、奈々ちゃん」
「えー、気になる。絶対、変な理屈並べたんでしょ、湊くん。湊くんの頭の中って、複雑な回路で埋まってそうだもんね」
前方の女子二人の会話がダイレクトに俺の精神を削ってくる。
横では矢野が「春菜さん、今日もストロー噛んでる……可愛い……あと、やっぱり今日、髪結ぶ位置が三センチくらい左にズレてるよな……」と、不器用な観察を続けている。
(……帰りたい。今すぐケーキを買って、俺たちの部屋に帰りたい)
目的のケーキ屋は、夕方のラッシュで混み合っていた。
店内に満ちた甘いバニラとバターの匂い。女子高生たちの高い笑い声。
運よく空いていた四人掛けのテーブル席に押し込まれる。
配置は、窓側に俺と詩織。その向かいに矢野と春菜。
運ばれてきたケーキを前に、詩織が小さくフォークを動かして「湊くん、これ一口食べます?」と聞いてきた。
「……俺は自分の分がある」
「でも、こっちのショートケーキ、クリームがすごく軽くて美味しいですよ。はい、あーん」
詩織が自然な動作で、苺の乗った一口を差し出してくる。俺は周囲の目を気にしながらも、抗う気力もなくそれを口に含んだ。確かに甘すぎず、悪くない。
「……湊くん、甘いの苦手そうなのに、意外とちゃんと食べてますよね」
「……お前が残すと、後の処理が面倒なだけだ」
そんなやり取りを横目に、向かい側の矢野が「……いいなぁ。阿久津、あんなに自然に食べさせ合えるなんて、どんな徳を積んだんだよ」と呻く。
「矢野くん。さっきから視線がうるさいんだけど。私のタルト、そんなに食べたいの?」
春菜が冷めた目で矢野を睨んだ。
「あ、いや、違うんだ春菜さん! その、タルトの生地が、サクサクしてて美味そうだなって!」
矢野はパニックになり、あろうことか俺の皿に乗っている残り半分のケーキを指差した。
「そ、そうだ! 阿久津! そのケーキの苺、俺のホットショコラと交換しねえか!?」
「……意味が分からん。落ち着け」
その時。俺の隣でずっと大人しくケーキを食べていた詩織が、小さく笑った。
「ふふっ。矢野くん、本当に奈々ちゃんのこと、大好きなんですね」
「「…………ッ!?」」
俺と矢野の心臓が、同時に停止した。
詩織の直感は、時に春菜よりも恐ろしい精度で核心を射抜く。しかも彼女には、それが「爆弾」であるという自覚が一切ない。
「え、えええええ!? な、な、何を言ってるんだ冬馬さん!?」
矢野が椅子から転げ落ちそうになりながらわめく。
一方の春菜は、タルトをモグモグと咀嚼したまま、冷めた目で矢野を見た。隣のテーブルの女子グループが、一瞬だけ驚いたようにこちらを見た。
――その時。
春菜がわずかに視線を逸らし、ストローをきゅっと強く噛み締めたのを俺は見逃さなかった。いつも他人の感情を面白がって眺めていた「観測者」の、その底知れない平静が、不器用な熱に当てられて決壊した瞬間だった。
「へぇ。……矢野くん、私に興味あるの?」
「あ、あ、あああ……」
矢野の顔が、さらに赤く染まっていく。
俺は隣で「全部、言え」と小声で促した。
昨日、自分が受けた報い。あいつにも味合わせてやる必要がある。
矢野は、プルプルと震える手でカップを握りしめ、意を決したように叫んだ。
「……そ、そうだ! 悪いかよ! 毎日春菜さんと一緒に阿久津たちを張ってるうちに、春菜さんが不器用にティッシュ差し出してくれたこととか、たまにぼーっとしてるところとか……全部、気になっちまって……。もう、あいつらのことより、春菜さんのことばっかり考えてるんだよ!」
店内の空気が、一瞬で固まった。
春菜は、数秒間、矢野をじっと見つめていた。その瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いているのが分かる。
やがて、彼女はふっと鼻で笑った。
「……ダサいね、矢野くん」
「……だよな。分かってるよ」
「でも。……嘘は言ってないみたいだね。今日の矢野くん、観測しやすすぎるし」
春菜はそれだけ言うと、残りのタルトを一口で食べて立ち上がった。
「湊くん、詩織ちゃん。先に行くね。矢野くん、お会計よろしく。……あと、明日の放課後、ちゃんと迎えに来てよね。一人だと暇だから」
「…………え?」
矢野が、呆然と口を開けた。春菜は一度も振り返らずに店を出て行った。
矢野はしばらく固まっていたが、ふと、春菜が座っていた椅子の下に落ちている「何か」に気づいた。
「……あ」
それは、春菜がいつも読みかけの本に挟んでいた、ボロボロの猫の形をしたブックマークだった。あいつの性格の割に、妙に似合わない可愛らしい持ち物。
矢野はそれを慌てて拾い上げ、宝物でも手に入れたような顔で立ち上がった。
「阿久津! これ、あいつの落とし物だ! 届けなきゃいけないから、俺、春菜さん追いかけるわ!」
矢野は全財産をレジに叩きつけ、文字通り脱兎のごとく店を飛び出していった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
観測者が、自分の守っていた殻を落として、物理的な落とし物を拾いに行く。
まったく、効率の悪い連中だ。
*
夕日は完全に沈み、街灯が灯り始めている。
二人の影が、寄り添うように伸びていた。
「……騒がしいデートになったな。ごめん」
俺はカバンを握り直し、隣を歩く詩織を一瞥した。
「ううん。そんなことないです。湊くんが、私のために『デート』って言ってくれたこと。それだけで、今日はすごく幸せでしたよ」
「……っ」
俺は、熱くなった顔をごまかすように、早足で歩き出した。
「……甘すぎる。ケーキの食べ過ぎだ」
「ふふっ。照れてる湊くん、大好きです」
詩織が小走りで隣に並び、俺の袖をきゅっと掴んだ。
変な理屈はいらない。ダサい自分を晒し、他人に振り回される。そんな、なんでもない日常こそが、今の俺にとって一番大切なものなのだ。
自宅に戻り、ドアを開ける。
「ただいま」という声が、二人分重なって響いた。
いつもの、俺たちの場所だ。
詩織が鼻歌混じりに冷蔵庫の中を確認している。
「チーズもありますよ、湊くん」
「……なら、乗せるか」
「やった」
そんな、どうでもいい会話が心地いい。
「……明日は、少し手の込んだものにするか」
「えっ、ほんとですか? 何ですか?」
「……ハンバーグだ。お前、こねるの好きだろ」
「あ、バレました? やったー!」
その姿を横目に、俺はキッチンで手を洗った。
蛇口から流れる水の冷たさが、少しだけ火照った指先に心地いい。
効率ではなく、誰かの「おいしい」のために料理を作る日が来るなんて。
――昔の俺なら、きっと想像もしなかった。
効率だけを考えれば、今日の寄り道は完全に無駄だったかもしれない。
それでも――こんな一日も、悪くない。




