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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第62話:破綻の予感

 翌日の、放課後。

 ホームルームが終わり、クラスメイトたちが部活や遊びへと散っていく喧騒の中。帰る準備のためにカバンへ教科書を詰め込んでいた俺の背中に、重い声が落ちてきた。


「阿久津。……ちょっと、話がある」


 振り返ると、そこに立っていた矢野の顔には、いつものおどけた笑みが一切なかった。

 ひどく低く、張り詰めたトーン。周囲のクラスメイトに聞かれないよう、声を押し殺しているのがわかる。


「……」


 俺の心臓が、昨日の甘い跳ね方とは全く違う、冷たく重い音を立てた。

 ついに来たか、と思った。


 矢野は、俺たちの関係性の変化を誰よりも早く嗅ぎつけ、俺と詩織が「同じ家から通っている」ことまで確信している、厄介極まりない男だ。

 その彼が、周囲の目を盗むようにして、こんな深刻なトーンで接触してくる。


(……もし、未成年同士の同居が大人に知られた場合、どうなる?)


 最悪のケースは、詩織との生活が強制的に引き裂かれることだ。

 それだけは、絶対に避けなければならない。どんな追及が来ても、責任は全部俺が負う。退学処分だろうと何だろうと、使える手札はすべて切る。

 そう腹を括りながら、俺は矢野の背中を追った。


 *


 矢野が足を止めたのは、特別棟の裏側。旧校舎の影になり、日中でも薄暗い完全な死角だった。

 遠くから吹奏楽部のチューニングの音が、不協和音のように聞こえてくる。密談にはうってつけの、そして『終わり』を告げられるには最悪の場所だ。


 矢野はコンクリートの壁に背中を預け、腕を組んだまま、下を向いて黙り込んでしまった。

 その緊迫した沈黙に耐えきれず、俺から先に口を開いた。


「……で。話ってなんだ」


 俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷徹なものになっていた。


「誰かに見られたのか。それとも、教師が俺たちを疑っているという確証でも掴んだのか?」


 俺が先制攻撃のように問いかけると、矢野はビクッと肩を揺らし、慌てて顔を上げた。


「ち、違う! そうじゃねえよ! なんでお前はすぐそうやって、社会と戦おうとするんだよ!」

「俺たちには、戦わなければならない理由がある。……お前が何を掴んだかは知らないが、どんな追及が来ても俺は――」

「だから! お前らのことじゃないって言ってんだろ!」


 矢野が、俺の言葉を遮るように大声を上げた。

 俺は眉をひそめた。俺たちのことではない?


「……どういうことだ。じゃあ、誰の話だ」


 矢野はすぐに答えなかった。

 数秒、足元の雑草を睨みつけるように黙り込み、やがて絞り出すように言った。


「……俺の、話だ」


 矢野の様子が、明らかにおかしい。

 俺の脳内で、新たな仮説が立ち上がった。矢野は、何かとてつもなく重い「秘密」を抱え込んでしまったのではないか。誰かに脅迫されているとか、取り返しのつかないトラブルに巻き込まれたとか。


 俺は、少しだけ声のトーンを落とし、警戒を解いた。


「……言ってみろ。俺にできることなら、論理的な解決策を提示してやる」

「……ほんとか? 笑わないか?」

「俺はお前のように、他人の窮地を面白がる悪趣味は持ち合わせていない。……借金か? 金銭的な問題なら、使える制度くらいは調べてやれるが」


「ちげーよ! なんで高校生の悩みが即座に多重債務なんだよ!」


 矢野はツッコミを入れつつも、再び大きく深呼吸をした。

 そして、意を決したように、日陰の中でもわかるくらい顔を真っ赤にして、俺を真っ直ぐに見据えた。


「阿久津。……俺さ。最近ずっと、お前と冬馬さんのこと春奈と一緒に観察してたじゃん」


「……ああ。お前らの最悪な連携のせいで、俺の平穏な日常は完全に崩壊した。今さら謝罪なら受け付けないぞ」


「悪かったよ、それは。でもさ……その、お前らの動向を探るために、俺、春奈と放課後に一緒に張り込んだりしてたんだよ」


 矢野が、両手で顔を覆いながら言葉を紡ぐ。


「最初はただ面白がってただけだったんだ。でも……あいつとずっと一緒にいてさ。この前、俺がジュースこぼして慌ててた時、あいつ、何も言わずに自分のティッシュ差し出してきたんだよ。『床汚れるから』って、すげえ面倒くさそうに」


「……」


「……なのにさ。その時、一回も俺の顔見なかったんだよ。『ありがたがるな、面倒』みたいな顔してて。でも、ティッシュだけはちゃんと差し出してて……」


「……」


「……ああいうの、ズルいだろ。普段あんな性格悪くて人を小馬鹿にしてるくせに、そういう変なとこで不器用に優しいの。……それに、お前らのことすげー真剣な横顔でプロファイリングして、悪戯っ子みたいに目を輝かせてるの見てたら……」


 俺の脳内で、危険信号が全く別のエラー音に切り替わった。

 待て。

 この文脈は。この、顔を真っ赤にした男子高校生の態度は。


「……俺、最近……お前らよりも、春奈のことが気になってて……。俺、春奈のことが好きかもしれねえ。……どうしよう、阿久津」


 …………。

 ………………。


「…………は?」


 俺の口から、およそ完璧な管理者らしからぬ、ひどく間抜けな音が漏れた。

 初夏の生ぬるい風が、俺と矢野の間を、ただ虚しく吹き抜けていく。


(……大人にバレたわけでもなく)

(……退学の危機でもなく)

(……ただの、恋バナ……?)


 俺は、天を仰いだ。

 全身の血管から、一気に、そして完全に力が抜け落ちていくのを感じた。膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪える。


 俺は先ほどまで、退学届の書き方すら脳内でシミュレーションしていたというのに。


「……お前」


 俺は、地の底から響くような、怨念のこもった声で言った。


「……俺の決死の覚悟と極限の緊張を返せ、このポンコツ観測者が」


「ポンコツってなんだよ! こっちは死ぬほど真剣に悩んでんだぞ! 昨日から夜も眠れなくて、飯も喉を通らねえんだよ!」

「知るか! そんなもん、ただの一人相撲だ! なんで俺が、自分たちを執拗に追いかけ回してきたストーカーの手下みたいな奴の恋煩いの相談に乗らなきゃならないんだ!」


 俺は激しい頭痛と目眩を覚えながら、額に手を当てた。

 まさか、俺たちを観察していた観測者同士が、俺たちをダシにして恋愛フラグを立てていたとは。非論理的にもほどがある。


「だいたい、なんで俺なんだ! 俺のような理屈しか持たない人間に相談して、何の役に立つ!」


 俺が吐き捨てると、矢野は真剣な目で俺を見つめ返した。


「……お前、最近変わっただろ。あんな鉄仮面だったのに、冬馬さんの前だと、ちゃんと人間みたいな顔するようになった」

「…………」

「だから、お前なら分かるかもしれないと思ったんだよ」


 その言葉に、俺は反論の余地を完全に塞がれた。


「……だいたい、春奈だぞ?」


 俺は話題を逸らすように、やれやれとため息をついた。


「あの、生活能力が皆無で、他人の心理をチェス盤みたいに弄ぶ悪魔だぞ? お前、正気か?」


「分かってるよ。でも、気になっちまうんだよ。あいつの前だと、俺のいつものノリが全然通じねえんだ。完全にペース握られて、心臓ばっかうるさくて……」


 頭を抱えてしゃがみ込む矢野の姿は、ひどく滑稽で、哀れで。

 そして――少し前の、俺自身の姿に、ひどく似ていた。


 俺は、ふと、詩織との会話を思い出した。

 昨日、水族館の帰りに「デートって言ってほしかった」と、俺の袖をつまんで俯いていた彼女の姿を。


(……ペースを握られて、心臓ばかりうるさくなる、か)


 俺は小さく息を吐き、しゃがみ込む矢野を見下ろした。

 不思議と、先ほどまでの苛立ちや疲労感は消え去っていた。むしろ、俺の周りにいる人間たちが、こうして「ただの高校生」として馬鹿みたいに悩み、恋愛という予測不能なエラーに振り回されているという事実が、今の俺にはひどく心地よかった。


「……いいか、矢野。一つだけ、アドバイスをしてやる」


 俺が静かにそう言うと、矢野は縋るような目でこちらを見上げた。


「あいつを落とすのに、駆け引きや論理武装は無意味だ。あいつは理屈を飛び越えて『野生の勘』で刺してくる。お前の浅はかな計算など、あいつの暇つぶしのエサになるだけだ」

「じゃ、じゃあどうすればいいんだよ……」


「……全部、晒せ」


 俺は、昨日、自分が詩織の手を握り返した時のことを思い出しながら言った。


「あいつは他人の秘密や嘘を暴くのが好きだ。なら、暴かれる前に、お前から全部差し出せ。隠し事も、カッコつけも、お前のその不格好な好意も、全部丸裸にして、真っ直ぐにぶつけろ」


「……」


「あいつの『観測』が及ばないのは、計算の一切ない、ただの本物の感情だけだ。……まあ、観察対象への執着力だけは異常だからな。あいつは他人を雑に扱うようでいて、意外と見捨てないタイプではある。勝率は壊滅的だろうが、少しはマシになる」


 俺はそれだけ言い捨てると、壁から背中を離し、踵を返した。


「ちょ、ちょっと待てよ阿久津! もう少し具体的な作戦を――」

「これ以上のコンサルタントは業務外だ。せいぜい、悪魔に食い殺されないように祈ってるよ」


 背後でわめく矢野の声を放置して、俺は特別棟の裏側を後にした。


 足取りは、ここへ向かっていた時よりもずっと軽かった。

 早く、図書室へ行かなければ。

 あそこへ行けば、きっと詩織は、俺を見つけた瞬間に小さく笑って、「おかえりなさい」と言うのだろう。


 その光景を想像しただけで、俺の足取りは自然と速くなっていた。

 ――帰りたい場所がある、というのは、たぶんこういう感覚なのだろう。

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