第61話:不器用な言い訳
火曜日の午前十一時。
三時間目の現代文の授業中。黒板を叩くチョークの単調な音と、初夏の生ぬるい風が窓を揺らす音だけが、気怠い教室の空気を構成していた。
普段の俺なら、この時間は教師の板書を脳内で効率的に要約し、定期テストに向けた完璧なノートを作成するための重要な作業時間だ。俺のノートは常に、無駄な装飾の一切ない、情報と論理の結晶であるべきだった。
だが。
俺は今、自分のシャープペンシルがノートの余白に描き出した「それ」を見て、激しい自己嫌悪と混乱に陥っていた。
(……なんだ、これは)
そこに描かれていたのは、現代文の授業とは一ミリも関係のない、平べったい菱形の魚――マダラトビエイだった。
無意識の産物だ。教師の話を聞いているふりをしながら、俺の脳の大部分は、完全に別の場所へと飛んでいたらしい。
フラッシュバックするのは、日曜日の水族館。
薄暗い青い光の中で、頭上のアクリルガラスを滑るように泳いでいたエイ。そして、それに目を輝かせてはしゃいでいた、詩織の横顔。
さらに記憶は連鎖し、昨日の夜の「G退治」の光景へと繋がる。虫に対する恐怖で完全にポンコツと化した俺を守るため、プラスチック容器片手に勇ましく立ち回った彼女の姿。そして、俺の肩に乗せられた頭の柔らかな重みと、甘いシャンプーの匂い。
「……っ」
俺は無意識のうちに喉仏を上下させ、慌てて消しゴムを手に取った。
ゴシゴシと力任せにエイの絵を消し去るが、ノートの紙面が黒く汚れただけで、俺の脳内にこびりついた「甘い記憶」の残滓はちっとも消えてくれなかった。
俺はもう、とっくに気づいている。
俺が三年間かけて維持してきた「孤独な管理者」という平穏は、一度崩れ始めたが最後、二度と元の形には戻らない。
そして今の俺は、その変化を止めたいと、少しも思っていなかった。
*
四時間目のチャイムが鳴り、待ちに待った昼休みが訪れた。
教室は一瞬にして騒がしい喧騒に包まれ、生徒たちがそれぞれのグループを作って机をくっつけ始める。
俺が自分の席で弁当箱の包みを解いていると、斜め後ろの席から、コトッ、と小さな音がした。
振り返らなくても分かる。詩織が自分の机に、俺と全く同じデザインの、色違いの弁当箱を置いた音だ。
『あ、また一緒のお弁当箱だ』
『絶対、朝一緒に作ってきてるよね。いいなぁ』
『阿久津くん、最近全然怖くないし。すっかり丸くなったよね』
少し離れた席から、面白がっている女子たちのひそひそ声が聞こえてくる。
そう。この教室において、俺と詩織が「特別な関係」であることは、もはや公然の秘密となっていた。
もちろん、未成年同士で「同棲している」という致命的な事実まではバレていない。クラスの連中の認識は、あくまで『お揃いの弁当を持参し、一緒に帰るほど親密なカップル(未遂)』というラインで止まっている。だからこそ、大人に密告されることもなく、ただの「不器用すぎるバカップル」として生温かく見守る空気が形成されているのだ。
「よお、阿久津。今日もきっちり愛妻弁当か」
正面の席にどっかりと腰を下ろしたのは、クラスメイトの矢野だった。
こいつは違う。俺たちの関係性の変化を誰よりも早く嗅ぎつけ、俺たちが「同じ家から通っている」ことを確信している、厄介な男だ。
「……言葉を慎め。これは単なる作業の効率化だ。愛だの妻だのという非論理的な概念を持ち込むな」
「はいはい、出たよ阿久津の照れ隠し」
矢野はニヤニヤと笑いながら、周囲に聞こえないよう、少しだけ声を潜めて言った。
「おっ。今日の卵焼き、ちょっと端っこが焦げてるな。阿久津の作る機械みたいな卵焼きじゃねえ。……ってことは、今日は冬馬さんの当番か。生活力上がってきてんじゃん」
「ッ……」
鋭い。昨夜の虫退治の後、詩織が「これからは私が半分持ちますから」と宣言し、今朝のおかずを自ら進んで詰めてくれたのだ。
「お前ら、週末、絶対なんかあっただろ」
「なっ……」
「いや、分かるんだよ。先週までの『お互いに少しだけ気を遣ってる感』すら完全に消えてる。なんつーか、阿久津の背中から『俺、週末にめちゃくちゃ幸せな時間過ごしました』っていうオーラがダダ漏れなんだわ。日向ぼっこしてる猫みたいに緩みきってるぞ」
ドクン、と。
俺の心拍数が、危険水域に突入した。
「……気のせいだ。俺は常に平熱で、無臭の石ころのように生きている」
「あははっ! 矢野くん、それ大正解!」
背後から、鈴を転がすような声が響いた。
振り返ると、同じクラスの図書委員、春奈奈々が、購買で買ってきたらしいジュースを片手に立っていた。
(……面倒なのが来た)
自分の席で大人しく弁当を食べていたはずなのに、絶対さっきから聞き耳を立てていたに違いない。
「は、春奈……。お前、自分の席に戻れ」
「いいじゃん、お昼休みなんだし。……生態調査フェーズ5、ってところかな」
春奈は矢野の隣にすっと立ち、獲物を値踏みするように俺の全身を観察し始めた。感覚派の矢野と、分析派の春菜。同棲の事実を知るこの二人がタッグを組むのは、俺にとって最悪の陣形だった。
「矢野くんの言う通りだね。今日の湊くん、すっごく隙だらけ。……ほら、シャツのアイロンのかけ方も微妙に違う。背中のシワの伸び方が甘い。これ、『誰かのために一生懸命アイロンをかけたけど、まだ不慣れだから背中側は苦戦した』っていう物理的な痕跡だね」
「お前ら……! 人の生活を勝手にプロファイリングするな!」
俺は顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら二人を睨みつけたが、俺の理屈など、この二人の前では無力だった。
「あ、春奈さん。矢野くんも、こんにちは」
最悪なことに、そこへ手を洗ってきたらしい詩織が戻ってきた。
矢野と春奈が、パッと顔を見合わせた。悪魔のアイコンタクトだ。
矢野が、周囲のクラスメイトにも聞こえるような、わざとらしい大きな声でカマをかけた。
「よっ、冬馬さん! さっき阿久津がさ、『週末は俺ひとりでずっと勉強してて寂しかった』って言ってたんだけど、本当かよー?」
「えっ?」
詩織が、焦ったように目を丸くした。
「そ、そんなことないです! 湊くん、ちゃんと私を誘ってくれて、一緒に水族館に……」
マズい。
クラス中の視線が一斉にこちらに向いたのを感じた。「水族館」という単語に、周囲の女子たちが『えっ、デート!?』と色めき立つ。
このままでは、あの甘すぎた休日の詳細まで暴かれてしまう。俺はパニックになり、顔を真っ赤にしながら、冷徹な管理者の顔を無理やり作って大声で遮った。
「ち、違う! デートなどという浮ついたものではない! あれは、今後の共同生活……いや、学校生活を円滑に進めるための、生活圏外での実証実験だ!」
言ってから、しまったと思った。
俺は確かに週末、不器用ながらも「水族館に行こう」と、彼女をきちんと誘ったはずだった。
それなのに、クラスメイトの冷やかしから逃れるためだけに、俺は一番言ってはいけない「照れ隠しの嘘」を吐いてしまったのだ。
詩織の動きが、ピタリと止まった。
彼女の大きな瞳が、傷ついたように小さく揺れるのがわかった。
「……実証、実験……?」
俺は激しい自己嫌悪に襲われ、言葉を失った。
だが、詩織は俯くことはなかった。彼女は数秒だけ迷うように視線を落とした後、顔を上げ、クラス中に響き渡る声で、はっきりとこう言ったのだ。
「……はい。でも、水族館、とっても楽しかったです。湊くん、私のクレープも一口食べてくれたんですよ」
…………。
………………。
教室内が、一瞬、水を打ったように静まり返った。
時間が、完全に停止した。
「……えっ?」
自分の発した「クレープ」「一口食べた」という単語の破壊力に数秒遅れて気づき、詩織が慌てて両手で口を塞いだが、もう遅かった。
矢野は、ポカンと口を開けたまま、俺と詩織の顔を交互に見比べた。
そして。
「……阿久津」
「…………なんだ」
「お前……ちゃんと女の子を水族館に誘って、クレープまで分け合っておいて……それを照れ隠しで『実証実験』って言い訳したのか……?」
矢野の目は、完全に「可哀想なものを見る目」になっていた。
「いや、俺は……その、あれは、効率とストレス軽減の観点から――」
「ダッセェェェェ!!」
矢野が、腹を抱えて爆笑し始めた。
それに釣られるように、春奈も「ひぃっ、お腹痛い! 湊くん、ダサすぎる! 実証実験って何!? サイボーグなの!?」と、涙を流して笑い転げている。
「「「あはははははっ!!」」」
周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちまでもが一斉に吹き出した。
『実証実験だって! やばい!』
『阿久津くん、不器用すぎて逆に可愛いんだけど!』
『冬馬さん、そんな理屈っぽい言い訳されても嬉しそうなのウケる!』
教室中が、温かい笑い声に包まれる。
17歳の不器用なカップルのドタバタを、クラス全体がひとつのエンターテインメントとして楽しんでしまっているのだ。
「お前ら、笑うな! 理屈としては間違ってないはずだ! 生活圏外での不確定要素に対する反応を見るための――」
「もういい、もういいよ阿久津。泣けてくるからやめろ」
矢野は笑いすぎて苦しそうに肩を震わせながら、俺の肩をポンと叩いた。
「あー、面白かった。ごちそうさま。じゃあ私、本読みたいから席に戻るね。……実証実験、これからも頑張ってね、湊くん」
春奈は腹を押さえながら、満足げに自分の席へと戻っていった。
矢野も「俺、邪魔しちゃ悪いから自分の席で食うわ。……阿久津、カッコつけんなよ」と、ひどく生温かい視線を残して去っていった。
残されたのは、真っ赤な顔で俯く俺と、箸を持ったまま恥ずかしさで震えている詩織の二人だけだった。
「……み、湊くん。私、その、余計なことを……ごめんなさい」
「……いや。俺が、ダサかった。お前をちゃんと誘ったくせに、あんな言い方をして」
俺の「孤独な管理者」というイメージは、今日この日をもって完全に、そして決定的に崩壊した。
だが、不思議と絶望感はなかった。ただ、猛烈に顔が熱くて、俺自身のダサさに穴を掘って埋まりたい気分だった。
*
放課後。
俺たちは、周囲の目を気にするふりすら放棄して、夕暮れの帰り道を肩を並べて歩いていた。
もう、校門を出てから数メートル距離を空けるような、無駄な偽装工作はしていない。
俺たちが一緒に帰ることは、クラスの連中にとって「今日の時間割」くらい当たり前のこととして処理されている。
夕日の光が、アスファルトの上に二人の影を長く落としていた。
俺はため息をつき、隣を歩く詩織を一瞥した。
彼女はさっきから、俺のシャツの袖の端を指先でつまんだまま、少しだけ俯いて歩いていた。
「……湊くん」
「……なんだ」
詩織は歩みを止め、俺の顔を下から覗き込んできた。
夕日の光に照らされた彼女の瞳は、ビー玉のように透き通っていた。
「私、本当は……『デート』って、言ってほしかった、です」
――ドクン、と。
心臓が、今日一番の大きな音を立てて跳ねた。
教室での、俺のダサすぎる言い訳。
ちゃんと水族館に誘ってくれたから嬉しかったのに、それを他人の前で否定されたことへの、彼女なりの小さな、けれど確かな抗議だった。
彼女の真っ直ぐな視線が、俺の拙い理屈を、また一つ溶かしていく。
矢野に言われた「カッコつけんな」という言葉が、頭の中でリフレインする。
俺は、小さく息を吸い込み、彼女が俺の袖をつまんでいるその手に、今度は俺の方から自分の手を重ねて、しっかりと握り込んだ。
「……っ」
詩織が、驚いたように息を呑む。
「……次、どこか行く時は」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びていた。
「……実験だなんて理屈で、絶対にごまかさない。誰の前でも、ちゃんと……『デート』だと言う」
詩織の目が丸くなり、それから、今までで一番柔らかくて、幸せそうな笑顔が咲いた。
「……はいっ。約束ですよ、湊くん」
繋いだ手から伝わる熱。
もう、無臭の石ころのふりはできない。俺の弱さも、ダサさも、すべて晒してしまった。
それでも。
この手の温度だけは、もう二度と離したくないと思った。
◇
――だが、現実はいつだって、俺の甘い決意をあざ笑うように牙を剥く。
翌日の、放課後。
「阿久津。……ちょっと、話がある」
背後から声をかけてきた矢野のトーンは、いつもの明るくおどけたものではなかった。
ひどく低く、張り詰めた――何か「決定的な破綻」を告げるような声だった。




