第60話:完璧な城と黒い侵入者
その日の夜、我が「陣地」の平和は、唐突に、かつ理不尽に破られることになった。
始まりは、ひどく穏やかな夕食後の時間だった。
今日の夕飯は生姜焼き。食事を終えた俺たちは、流し台に並んで立ち、二人で食器を洗っていた。
本来であれば、家事の分担は一人ずつ交代で行う方が、動線の確保から見ても圧倒的に効率的だ。狭いキッチンに二人が並べば、どうしても肩や腕がぶつかるリスクが高まる。
だが、昨夜からこの部屋に充満している「平熱の距離」という得体の知れない空気感が、俺の論理的な判断能力を著しく低下させていた。
「あっ、ごめんなさい、湊くん。私、そっちのお皿も濯ぎます」
「……いや、俺がやる。お前は拭いて棚に戻す作業に専念しろ」
「でも、手が空いちゃってますし……あ」
俺が泡のついた皿をすすごうと手を伸ばした瞬間、スポンジを受け取ろうとした詩織の濡れた指先が、俺の手の甲に微かに触れた。
ほんの一瞬の、物理的な接触。
だが、それだけで俺の心臓は不規則なビートを刻み始め、耳の裏側がカッと熱くなるのを感じた。
「……悪い」
「い、いえ……っ、私が不注意で……」
お互いに視線を逸らし、不自然な沈黙の中で作業を続ける。
水族館での一日を経て、俺たちの距離は確実におかしくなっていた。ただ指先が触れただけで、過剰に意識してしまう。彼女のシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐるたびに、昨夜、俺の肩に頭を乗せて眠っていた彼女の体温がフラッシュバックする。
完全に、ペースを握られていた。
俺が三年間かけて構築してきた「孤独で完璧な管理者」という鉄の規律は、今や彼女の存在によって内側からドロドロに溶かされつつある。そして何よりタチが悪いのは、俺自身がその「敗北」を、ひどく心地よいと感じてしまっていることだった。
*
なんとか非効率極まりない皿洗いを終え、俺はリビングのソファに腰を下ろした。
ローテーブルの上に広げたのは、今月の家計簿と、来月の光熱費の予測計算を行うためのノートだ。少し離れた床には、詩織がクッションを抱えながら座り、テレビのバラエティ番組を見て小さく笑っている。
親が死んでから、俺はこの家を一人で守り抜くために、あらゆるリスクを排除してきた。
その完璧な城の中に、今は「詩織」という最大の不確定要素が入り込んでいる。だが、それも含めて、俺の日常はうまく回っているはずだった。
(……よし、来月の食費は少し余裕を持たせられそうだ。これなら、また休日に……いや、待て)
思考が、無意識のうちに「次の休日」へと向かおうとしていることに気づき、俺は慌てて首を振った。
集中しろ。数字に向き合え。
俺がペンを握り直した、まさにその時だった。
――カサッ。
テレビの音声に紛れて、ひどく乾燥した、微かな異音が耳を打った。
俺はピタリとペンの動きを止め、音の発生源へと視線を向けた。
場所は、リビングの壁際。エアコンの配管が通っている隙間の付近。
白い壁紙の上に、それは張り付いていた。
黒光りする、楕円形の影。
長い二本の触角が、空気を探るように不規則に蠢いている。
俺の心臓が、致命的な音を立てて跳ね上がった。全身の血の気が一気に引く。
――ふと、その長い触角が、ゆっくりとこちらを向いた気がした。
「…………ッ」
呼吸の仕方を忘れたように、喉がヒューッと鳴った。
頭の中で、俺の管理システムがけたたましいエラー警報を鳴らし始める。侵入経路は塞いだはずだ。生ゴミの処理も完璧で、忌避剤の配置ルートにも死角はない。
俺の構築した完璧な城における、あってはならない最悪のバグ。
俺は、虫が致命的に苦手だった。
大人の理不尽には耐えられる。孤独にも慣れた。
だが、あの黒い悪魔だけは無理だ。
「……湊くん? どうしたんですか、顔色悪――あ」
ソファの上で完全に硬直している俺の異変に気づき、詩織が振り返った。
そして、壁際の「黒い影」へと目を向ける。
悲鳴を上げるかと思った。
だが、彼女は「あー」と間の抜けた声を漏らしただけで、特に動揺した様子もなく立ち上がった。
「出ちゃいましたね。窓の隙間から入ったのかな」
まるで「雨が降ってきましたね」とでも言うような平坦な声だった。詩織は抱えていたクッションを床に置くと、するりと立ち上がった。
「……おい。何をしてる、動くな詩織」
俺は、ソファの上で両膝を抱えながら、震える声で警告した。
「え?だってもう寝る時間ですし、放っておいたらどこ行くか分からなくて気持ち悪いじゃないですか。大丈夫ですよ湊くん、私がやりますから」
「やるって、お前……丸腰だろ! 奴の移動速度と跳躍力を舐めるな! まずは殺虫剤の射程距離と風向きを計算して、退路を――」
「大丈夫ですって。昔住んでたアパート、こういうの日常茶飯事だったので。お父さん、全然退治してくれなかったから、私がやるしかなかったんですよね」
詩織はキッチンのゴミ箱の方へ向かうと、そこから素早く何かを拾い上げた。
彼女が両手に持っていたのは、昨日俺が捨てたばかりの「透明なプラスチックの空き容器」と、ポストに入っていた「厚手のダイレクトメール(ハガキ)」だった。
「よし、これで完璧です」
「……は? なんだその装備は。叩き潰さないのか?」
「ダメですよ、叩き潰しちゃ!」
詩織は明確に語気を強めて言った。
「潰すと、床が汚れちゃうじゃないですか。昔、丸めた雑誌でパーンってやったら、中から変な汁が出てきて、床のシミが取れなくなって……お父さんにすっごく怒られたんです。だから、こういうのは『生け捕り』にするのが一番なんです」
「い、生け捕りだと……!?」
俺は戦慄した。
確かに合理的だ。奴を物理的に圧迫して潰せば、体内の病原菌が飛散するだけでなく、メスだった場合、卵鞘と呼ばれる卵の入ったカプセルが撒き散らされ、俺の陣地が完全な汚染区域となってしまう。
知識としては知っていた。だが、それを「実践」できる人間が目の前にいるとは。
俺が震えている間にも、詩織は壁に張り付く黒い影へと、足音一つ立てずにじりじりと歩み寄っていった。
その構えには一切の隙がない。腰を低く落とし、プラスチック容器を持った右手を静かに胸の前に構えている。
――カサカサッ!
詩織が近づいた気配を察知したのか、黒い影が壁を滑り降り、床へと高速で移動を開始した。
フローリングの上を、黒い悪魔が不規則なジグザグ軌道を描いて走る。
「うおぉぉっ!? こっちに来るなッ!!」
予測不能な二次元機動に、俺の理性が完全に崩壊した。
情けない悲鳴を上げながら、俺は手近にあったクッションを頭からすっぽりと被り、ソファの一番端の隅っこで完全にダンゴムシのように丸くなった。
「あっ、こら! 逃げないで!」
一方の詩織は、こちらに向かって走ってくる黒い影に対して一歩も引かなかった。
彼女は鋭い眼光でフローリングの上の軌道を読み切ると、床すれすれまで身を屈め、タイミングを見計らって右手のプラスチック容器を振り下ろした。
カポッ。
見事なスマッシュヒット。
黒い影は、透明なプラスチック容器のドームの中に、完全に閉じ込められた。
「よしっ、確保!」
「……えっ」
クッションの隙間から恐る恐る目を細めた俺の前で、詩織は一切の躊躇なく、容器とフローリングのわずかな隙間に、左手に持っていた「厚手のハガキ」をスッと滑り込ませた。
完璧な手際だ。一切の汚れを出さず、退路を完全に断つ。まさに無血開城である。
「捕まえましたよ、湊くん! これ、このままトイレに流してきちゃいますね!」
容器とハガキを両手でしっかりと挟み込みながら、詩織はホクホク顔で立ち上がった。
足取り軽く廊下へと消えていく彼女の背中を見送りながら、俺は深くため息をつき、頭から被っていたクッションを取り除いた。
(……俺の、完全敗北だ)
完璧な管理者として、俺はこの家を支配し、彼女を庇護しているつもりだった。
だが、予測不能な事態が起きた時、俺は悲鳴を上げてクッションの下に逃げ込んだ。そして、俺の完璧な城をノーダメージで救ってくれたのは、庇護されているはずの彼女の方だった。
遠くで、トイレの水を流す音が聞こえた。
やがて、洗面所で念入りに石鹸で手を洗う音がして、詩織がリビングへと戻ってきた。
「ふぅ。終わりましたよ、湊くん。もう安全ですからね」
「……」
「さすがに、ちょっと鳥肌立ちましたけど……うぅ、動き速かった……」
詩織は自分の両腕をさすりながら、ほっとしたように息を吐いた。
その少しだけ女子高生らしい弱音を聞いて、俺はようやく、目の前の少女が歴戦のハンターではなく、俺の同居人なのだと再認識することができた。
「……情けないだろ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「偉そうな理屈ばっかり並べといて、いざとなったら虫一匹に悲鳴上げて逃げ回るなんて。……お前がいなかったら、俺は今頃、恐怖で発狂して家中の物を投げ回してたかもしれない」
自嘲気味に呟く俺に、詩織はきょとんと首を傾げた。
そして、俺の隣――ソファの空いたスペースに、ちょこんと腰を下ろした。
「そんなことないです。湊くんが虫を怖がってくれて、私、ちょっと嬉しかったくらいですから」
「……人が怯えてるのを見て喜ぶなんて、悪趣味なやつだな」
「違いますよ」
詩織は、柔らかく微笑みながら首を横に振った。
「……湊くんって、いつも完璧で、大人みたいで、私なんかよりずっと遠いところにいる気がしてたから」
彼女の視線が、俺の膝の上にある家計簿のノートに落ちる。
「でも、さっきクッション被って震えてる湊くんを見たら……ああ、湊くんも、ただの普通の男の子なんだなって。苦手なものがあって、パニックになっちゃう時もあるんだって」
詩織はそこで一度言葉を切り、少しだけ迷うように視線を泳がせた後、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……なんだか、ちょっと、安心しちゃったんです」
そう言うと、彼女は俺の腕を包み込むようにして、そっと自分の頭を俺の肩に乗せてきた。
「……っ」
昨日の夜と同じ、柔らかな重み。
至近距離から漂う、甘いシャンプーの匂い。
だが、今日は俺の心臓の跳ね方が少し違った。ただ動揺しているだけじゃない。
彼女の体温が、俺の情けなさも、不格好なプライドも、すべて丸ごと肯定してくれているように感じたのだ。
「……私は、湊くんに助けてもらってばっかりだから。こういう時くらい、私が湊くんを守りますよ」
詩織が、俺の腕に回した手にきゅっと力を込める。
完璧じゃなくていい。
弱さを見せても、この陣地は崩れない。
俺は小さく息を吐き、彼女の頭に自分の頭を軽くコツンとぶつけた。
「……次出たら、またお前がやれ」
顔の熱をごまかすようにそっぽを向きながら、ポツリと呟く。
「ふふっ。はい、任せてください。湊くんの陣地の防衛は、私が半分持ちますから」
「……頼りにしてる」
虫に対する恐怖は、まだ完全には消えていない。
だが、この頼もしくて、愛おしい『共犯者』がいれば、この陣地はきっと、俺一人で守っていた時よりもずっと強固な城になる。
俺は、肩に寄りかかる彼女の頭の温もりを感じながら、明日の朝イチでドラッグストアに向かい、あらゆる種類の殺虫剤と最強の忌避剤を大量に買い込んでくることを、心の中で固く誓っていた。




