↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/89

第59話:平熱の距離

 水族館に行った翌日の、月曜の朝。

 キッチンには、いつも通りに味噌汁の出汁の匂いが漂っていた。換気扇が低く唸り、コンロの上で小さな鍋がコトコトと音を立てている。


 いつも通りの朝だ。

 ただ一つ違うのは、この狭い空間にいる二人の間の「距離感」が、昨日を境に完全におかしくなっていることだった。


「……あ、湊くん。お醤油、取りますね」

「ん、サンキュ……って、あ」


 冷蔵庫を開けようとした詩織と、調味料の棚に手を伸ばそうとした俺のタイミングが、見事に重なった。

 お互いの肩が、トン、と軽くぶつかる。

 ただそれだけのことだった。今までなら「すまん」と一言言って終わるような、ただの生活上の接触。


「っ……」

「……悪い」


 俺は慌てて半歩後ろに下がり、視線を逸らした。

 詩織もビクッと肩を揺らし、醤油のボトルを両手で持ったまま「い、いえ……」と小さく呟いて俯いた。

 狭いキッチンに、痛いほどの沈黙が落ちる。


 昨日の記憶が、どうしても頭から離れない。

 電車の中で彼女を庇った時の、甘いシャンプーの匂い。暗い水槽の前で繋いだ手のひらの熱。クレープを分け合った時の、あのベタすぎる「あーん」。


 それらの非日常の余韻が、今日のこの「日常」にまでべっとりと張り付いている。

 肩がぶつかっただけで、耳の裏側がカッと熱くなるのが自分でも分かった。

 横目でチラリと見ると、詩織もまた、耳の先まで真っ赤にして、ひたすら卵焼きの形を整える作業に没頭している。


(……なんだこの空気。息が詰まる)


 俺はわざとらしく咳払いを一つして、無言でコンロの火を止めた。

 昨日までのような「実証実験」だの「効率」だのといった、自分を守るための小難しい言い訳は、もう頭の中に浮かんでこなかった。ただの、女子免疫のない男子高校生の動揺が、そこにはあるだけだった。


 *


 朝食を終え、制服に着替えた俺たちは、いつものように玄関に向かった。

 時間をずらして家を出るのも、すっかり板についた日課だ。先に出るのは詩織の方。


 彼女はローファーを履き終えると、ドアノブに手をかけた。

 いつもなら、ここで「行ってきます」「ん」で終わる。

 だが今日、詩織はドアを開けようとせず、背中を向けたまま、もじもじとつま先を床に擦り付けていた。


「……なんだ。忘れ物か」


 俺が声をかけると、詩織はゆっくりと振り返った。

 その顔は、朝のキッチンで見た時よりもさらに赤く染まっている。


「あの……」

「……」

「その……恋人って、出かける時、もっと何か……特別なこと言ったりするのかなって……」


 ――ドカン、と。

 頭の中で、何かが爆発する音がした。


 俺は完全にフリーズした。

 恋人。その単語が、彼女の口からあまりにも自然に飛び出したことに、脳の処理が追いつかない。


「なっ……お前、急に何を……」


 俺は目を泳がせ、必死に言葉を探した。

 だが、昨日あれだけベタな真似をしておいて、「俺たちはそんな関係じゃないだろ」なんて言葉は、口が裂けても言えなかった。

 数秒間の沈黙の後、俺はなんとか真顔を取り繕って、ひねり出すように答えた。


「……知らん。未経験だ」


 我ながら、情けないほど不器用な返しだった。

 詩織は「……そうですよね」と少しだけ肩を落とし、もう一度ドアの方へ向き直った。

 その小さな背中を見送ろうとして――俺は、無意識に口を開いていた。


「……」

「?」

「……気をつけて行け」


 ボソリと、自分でも驚くほど小さな声だった。

 だが、詩織の肩がピクリと跳ねる。

 彼女は振り返らなかった。ただ、ドアを開ける直前、横顔だけで見せたその笑顔は、今日一日、どんな嫌なことがあっても乗り切れそうなほど、とびきり輝いていた。


「はいっ! 行ってきます、湊くん!」


 パタン、とドアが閉まる。

 俺は玄関に一人取り残され、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。


「……心臓、もたないだろ、これ」


 理屈なんてどこにもない。

 俺はただ、彼女の笑顔一つで一喜一憂する、ただの惚れた男に成り下がっていた。


 *


 学校での時間は、相変わらず無機質で退屈なものだった。

 だが、詩織にとっては少し違ったらしい。


 昼休みが終わり、午後の気怠い現代文の授業中。

 黒板に向かう教師の単調な声をBGMに、詩織は自分の席で、ノートの端に意味のない丸を書いては消す作業を繰り返していた。


 頭の中に浮かぶのは、やはり昨日の記憶だ。

 水族館の薄暗い通路で、湊が自分の手を引いてくれたこと。

 大きくて、少し骨張っていて、とても温かい手。

 あんな風に誰かに大切に扱われたのは、人生で初めてだった。


 その時、机の中に入れていたスマートフォンが、ブルッと短く震えた。

 詩織は教師の目を盗んで、こっそりと画面を確認する。

 メッセージアプリの通知。送り主は、斜め前の席に座っている『湊くん』だった。


 ドキリとしてメッセージを開く。

 そこには、一行だけ。


『帰りに牛乳買ってこい。特売』


 ……ただの、生活の事務連絡。

 ロマンチックな言葉なんて一文字もない。

 なのに、詩織の口角は、自分でも制御できないほどに緩んでしまった。


 これまでは、こういう連絡が来ても「生活費を無駄にしないようにしなきゃ」と緊張するだけだった。

 でも今は違う。

 昨日の今日で来るこの連絡は、まるで「彼氏からお使いを頼まれた彼女」みたいな、そんな甘い錯覚を詩織に抱かせるには十分すぎた。


 詩織は、顔が熱くなるのを感じながら、机の下でこっそりと返信を打つ。


『了解です。低脂肪乳でいいですか?』


 すぐに既読がつき、スタンプが一つだけ返ってきた。

 ただそれだけのやり取り。

 けれど詩織は、スマホを胸に抱きしめたい衝動を必死に抑えながら、残りの授業中、ずっとニヤニヤが止まらなかった。


 *


 その日の夜。

 夕食を終え、俺と詩織はリビングのソファに並んで座っていた。

 俺は膝に本を置き、詩織はスマホで何かの記事を読んでいる。

 いつも通りの、静かな夜の光景だ。


 ふと、詩織がスマホから視線を上げ、小さく笑った。


「……水族館、楽しかったですね」

「ん」


 俺は本から目を離さず、短く返事をした。


「周り、恋人さんばっかりでしたね」

「休日の水族館なんて、そんなもんだろ」


 淡々と答える。

 だが、ページをめくる指先は、さっきから同じ場所で止まっていた。


 詩織はそんな俺の横顔を見ながら、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「私たちも、周りから見たら、そう見えてたんでしょうか」

「……知らん」

「手、繋いでましたし」

「暗かったからな。はぐれたら面倒だ」

「クレープも交換しました」

「お前が勝手にやったんだろ」

「帰りの電車で、肩も貸してくれました」

「寝てるやつを無理に起こす方が、体力を消耗する」


 すべてを即座に言い返す俺に、詩織はとうとう堪えきれなくなったように吹き出した。


「ふふっ。湊くんって、本当に往生際悪いですね」

「何がだ」


 詩織は、柔らかく笑ったまま言う。


「俺達、まだ恋人じゃないだろ――って顔してます」


 ピタリ、と。俺の指先が完全に止まった。

 数秒の沈黙。

 図星を突かれた気恥ずかしさと、どう返していいか分からない焦り。

 俺は露骨に視線を逸らしながら、小さく吐き捨てた。


「……事実だろ。まだ、そういうのじゃない」


 だが、その声には、以前のような「壁」を作るための刺々しさはない。ただ、自分の感情の処理に困っているだけの、ひどく情けない声だった。


 俺はまだ、「恋人」という単語を口にするのが怖い。

 関係に名前をつけてしまえば、それが壊れた時のダメージは計り知れない。生活の安定を優先したいという責任感と、親を失った過去からくる無意識の恐れが、俺の背中を掴んで離さないのだ。


 詩織は、そんな俺の不器用さも、臆病さも、すべて分かっているかのように、安心したような微笑みを浮かべた。


「はい。まだですね」


 否定しない。急かさない。

 でも、“いつかはそこへ行く”と確信しているような、余裕のある笑い方。


 以前、彼女に真正面から「恋になってもいいんですよね?」と問い詰められた時のことを思い出す。あの時、俺は「……恋人関係になること自体は、問題じゃない」と、自ら退路を断つような肯定をしてしまっていた。

 言質は、とうに取られているのだ。


 俺は、その勝ち誇ったような、それでいて愛おしそうな彼女の笑顔を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てるのを感じた。


(……なんで、そこで嬉しそうなんだよ)


 俺の理屈なんて、彼女のこの笑顔の前では、本当に何の役にも立たなかった。


 *


 それから一時間ほど経った頃。

 リビングには、テレビの小さなバラエティ番組の音だけが流れていた。


 ふと横を見ると、詩織がソファの背もたれに体を預け、こっくりこっくりと船を漕いでいた。

 今日一日、授業と買い出しで疲れたのだろう。


「おい、詩織。こんなとこで寝たら風邪引くぞ」


 俺は本を閉じ、声をかけようと彼女の肩に手を伸ばした。

 だが、俺の声に反応してうっすらと目を開けた詩織は、起き上がる代わりに、俺のシャツの裾をきゅっと掴んだ。


「……湊くん」


 完全に寝ぼけた、甘えきった声だった。


「……っ」


 俺の思考回路が、一瞬でショートした。

 掴まれた裾から、彼女の体温が伝わってくるような気がして、動けない。


「おい……起きろって」


 だが、詩織の目はすでに閉じられている。

 俺はため息をつき、起こすのを諦めた。仕方なく、そのままの姿勢で本を開き直す。


 すると、数分後。

 コトン、と。

 俺の右肩に、柔らかな重みが乗った。


「……」


 詩織が、完全に俺の肩に頭を預けて眠ってしまったのだ。

 彼女のシャンプーの匂いが、鼻先をかすめる。腕に伝わる、確かな体温。


 ……ページが、めくれない。

 活字が全く頭に入ってこない。

 俺は本を読むのを完全に諦め、ただ天井を見上げて、この不整脈のような鼓動が治まるのを待つしかなかった。


 その時、詩織の唇が微かに動いた。


「……すいぞくかん……」

「ん?」

「……また、行きたいです……」


 寝言だ。

 夢の中で、昨日の続きを見ているのだろう。

 俺は、彼女の寝顔を横目で見下ろしながら、少しだけ沈黙した。


 そして。


「……今度は、もっと空いてる日にする」


 誰に聞かせるわけでもなく、静かにそう返した。

 次を約束すること。未来を共に過ごすことを前提にすること。

 それは、「好き」という言葉よりも、今の俺たちにとっては重くて、確かなものだった。


 時計の針が、夜の十一時を回る。

 そろそろ本当に起こして、ベッドに行かせないといけない。


「……警戒心なさすぎだろ、お前」


 俺は呆れたようにぼやきながら、彼女の額にかかった前髪を、そっと指先で避けた。

 肌に触れるか触れないかの、微かな接触。


 すると、詩織が半分眠ったまま、俺の服の裾をさらに強く握りしめた。


「……どこにも、行かないでくださいね」


 ――。

 その言葉は、俺の胸の一番柔らかい場所を、深く、正確に刺した。


 親を亡くした俺は、誰かが突然消えることの恐ろしさを、誰よりも知っている。

 当たり前の日常が、ある日突然、音を立てて崩れ去る絶望を。


 だからこそ、他人と深く関わることを避けてきた。

 なのに、今の俺は。

 この小さな体温を手放すことの方が、一人でいることよりもずっと怖いと感じてしまっている。


 俺は、裾を掴む彼女の小さな手に、自分の手をそっと重ねた。


「……行かねえよ」


 その声は、自分でも驚くほど優しく、そして、揺るぎない決意に満ちていた。


 まだ、恋人じゃない。

 でも、ただの同居人でもない。

 共犯者で、生活共同体で、守るべき相手。


 この曖昧で、不器用で、どうしようもなく温かい「平熱の距離」が、今はただ、愛おしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。