第59話:平熱の距離
水族館に行った翌日の、月曜の朝。
キッチンには、いつも通りに味噌汁の出汁の匂いが漂っていた。換気扇が低く唸り、コンロの上で小さな鍋がコトコトと音を立てている。
いつも通りの朝だ。
ただ一つ違うのは、この狭い空間にいる二人の間の「距離感」が、昨日を境に完全におかしくなっていることだった。
「……あ、湊くん。お醤油、取りますね」
「ん、サンキュ……って、あ」
冷蔵庫を開けようとした詩織と、調味料の棚に手を伸ばそうとした俺のタイミングが、見事に重なった。
お互いの肩が、トン、と軽くぶつかる。
ただそれだけのことだった。今までなら「すまん」と一言言って終わるような、ただの生活上の接触。
「っ……」
「……悪い」
俺は慌てて半歩後ろに下がり、視線を逸らした。
詩織もビクッと肩を揺らし、醤油のボトルを両手で持ったまま「い、いえ……」と小さく呟いて俯いた。
狭いキッチンに、痛いほどの沈黙が落ちる。
昨日の記憶が、どうしても頭から離れない。
電車の中で彼女を庇った時の、甘いシャンプーの匂い。暗い水槽の前で繋いだ手のひらの熱。クレープを分け合った時の、あのベタすぎる「あーん」。
それらの非日常の余韻が、今日のこの「日常」にまでべっとりと張り付いている。
肩がぶつかっただけで、耳の裏側がカッと熱くなるのが自分でも分かった。
横目でチラリと見ると、詩織もまた、耳の先まで真っ赤にして、ひたすら卵焼きの形を整える作業に没頭している。
(……なんだこの空気。息が詰まる)
俺はわざとらしく咳払いを一つして、無言でコンロの火を止めた。
昨日までのような「実証実験」だの「効率」だのといった、自分を守るための小難しい言い訳は、もう頭の中に浮かんでこなかった。ただの、女子免疫のない男子高校生の動揺が、そこにはあるだけだった。
*
朝食を終え、制服に着替えた俺たちは、いつものように玄関に向かった。
時間をずらして家を出るのも、すっかり板についた日課だ。先に出るのは詩織の方。
彼女はローファーを履き終えると、ドアノブに手をかけた。
いつもなら、ここで「行ってきます」「ん」で終わる。
だが今日、詩織はドアを開けようとせず、背中を向けたまま、もじもじとつま先を床に擦り付けていた。
「……なんだ。忘れ物か」
俺が声をかけると、詩織はゆっくりと振り返った。
その顔は、朝のキッチンで見た時よりもさらに赤く染まっている。
「あの……」
「……」
「その……恋人って、出かける時、もっと何か……特別なこと言ったりするのかなって……」
――ドカン、と。
頭の中で、何かが爆発する音がした。
俺は完全にフリーズした。
恋人。その単語が、彼女の口からあまりにも自然に飛び出したことに、脳の処理が追いつかない。
「なっ……お前、急に何を……」
俺は目を泳がせ、必死に言葉を探した。
だが、昨日あれだけベタな真似をしておいて、「俺たちはそんな関係じゃないだろ」なんて言葉は、口が裂けても言えなかった。
数秒間の沈黙の後、俺はなんとか真顔を取り繕って、ひねり出すように答えた。
「……知らん。未経験だ」
我ながら、情けないほど不器用な返しだった。
詩織は「……そうですよね」と少しだけ肩を落とし、もう一度ドアの方へ向き直った。
その小さな背中を見送ろうとして――俺は、無意識に口を開いていた。
「……」
「?」
「……気をつけて行け」
ボソリと、自分でも驚くほど小さな声だった。
だが、詩織の肩がピクリと跳ねる。
彼女は振り返らなかった。ただ、ドアを開ける直前、横顔だけで見せたその笑顔は、今日一日、どんな嫌なことがあっても乗り切れそうなほど、とびきり輝いていた。
「はいっ! 行ってきます、湊くん!」
パタン、とドアが閉まる。
俺は玄関に一人取り残され、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「……心臓、もたないだろ、これ」
理屈なんてどこにもない。
俺はただ、彼女の笑顔一つで一喜一憂する、ただの惚れた男に成り下がっていた。
*
学校での時間は、相変わらず無機質で退屈なものだった。
だが、詩織にとっては少し違ったらしい。
昼休みが終わり、午後の気怠い現代文の授業中。
黒板に向かう教師の単調な声をBGMに、詩織は自分の席で、ノートの端に意味のない丸を書いては消す作業を繰り返していた。
頭の中に浮かぶのは、やはり昨日の記憶だ。
水族館の薄暗い通路で、湊が自分の手を引いてくれたこと。
大きくて、少し骨張っていて、とても温かい手。
あんな風に誰かに大切に扱われたのは、人生で初めてだった。
その時、机の中に入れていたスマートフォンが、ブルッと短く震えた。
詩織は教師の目を盗んで、こっそりと画面を確認する。
メッセージアプリの通知。送り主は、斜め前の席に座っている『湊くん』だった。
ドキリとしてメッセージを開く。
そこには、一行だけ。
『帰りに牛乳買ってこい。特売』
……ただの、生活の事務連絡。
ロマンチックな言葉なんて一文字もない。
なのに、詩織の口角は、自分でも制御できないほどに緩んでしまった。
これまでは、こういう連絡が来ても「生活費を無駄にしないようにしなきゃ」と緊張するだけだった。
でも今は違う。
昨日の今日で来るこの連絡は、まるで「彼氏からお使いを頼まれた彼女」みたいな、そんな甘い錯覚を詩織に抱かせるには十分すぎた。
詩織は、顔が熱くなるのを感じながら、机の下でこっそりと返信を打つ。
『了解です。低脂肪乳でいいですか?』
すぐに既読がつき、スタンプが一つだけ返ってきた。
ただそれだけのやり取り。
けれど詩織は、スマホを胸に抱きしめたい衝動を必死に抑えながら、残りの授業中、ずっとニヤニヤが止まらなかった。
*
その日の夜。
夕食を終え、俺と詩織はリビングのソファに並んで座っていた。
俺は膝に本を置き、詩織はスマホで何かの記事を読んでいる。
いつも通りの、静かな夜の光景だ。
ふと、詩織がスマホから視線を上げ、小さく笑った。
「……水族館、楽しかったですね」
「ん」
俺は本から目を離さず、短く返事をした。
「周り、恋人さんばっかりでしたね」
「休日の水族館なんて、そんなもんだろ」
淡々と答える。
だが、ページをめくる指先は、さっきから同じ場所で止まっていた。
詩織はそんな俺の横顔を見ながら、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「私たちも、周りから見たら、そう見えてたんでしょうか」
「……知らん」
「手、繋いでましたし」
「暗かったからな。はぐれたら面倒だ」
「クレープも交換しました」
「お前が勝手にやったんだろ」
「帰りの電車で、肩も貸してくれました」
「寝てるやつを無理に起こす方が、体力を消耗する」
すべてを即座に言い返す俺に、詩織はとうとう堪えきれなくなったように吹き出した。
「ふふっ。湊くんって、本当に往生際悪いですね」
「何がだ」
詩織は、柔らかく笑ったまま言う。
「俺達、まだ恋人じゃないだろ――って顔してます」
ピタリ、と。俺の指先が完全に止まった。
数秒の沈黙。
図星を突かれた気恥ずかしさと、どう返していいか分からない焦り。
俺は露骨に視線を逸らしながら、小さく吐き捨てた。
「……事実だろ。まだ、そういうのじゃない」
だが、その声には、以前のような「壁」を作るための刺々しさはない。ただ、自分の感情の処理に困っているだけの、ひどく情けない声だった。
俺はまだ、「恋人」という単語を口にするのが怖い。
関係に名前をつけてしまえば、それが壊れた時のダメージは計り知れない。生活の安定を優先したいという責任感と、親を失った過去からくる無意識の恐れが、俺の背中を掴んで離さないのだ。
詩織は、そんな俺の不器用さも、臆病さも、すべて分かっているかのように、安心したような微笑みを浮かべた。
「はい。まだですね」
否定しない。急かさない。
でも、“いつかはそこへ行く”と確信しているような、余裕のある笑い方。
以前、彼女に真正面から「恋になってもいいんですよね?」と問い詰められた時のことを思い出す。あの時、俺は「……恋人関係になること自体は、問題じゃない」と、自ら退路を断つような肯定をしてしまっていた。
言質は、とうに取られているのだ。
俺は、その勝ち誇ったような、それでいて愛おしそうな彼女の笑顔を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てるのを感じた。
(……なんで、そこで嬉しそうなんだよ)
俺の理屈なんて、彼女のこの笑顔の前では、本当に何の役にも立たなかった。
*
それから一時間ほど経った頃。
リビングには、テレビの小さなバラエティ番組の音だけが流れていた。
ふと横を見ると、詩織がソファの背もたれに体を預け、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
今日一日、授業と買い出しで疲れたのだろう。
「おい、詩織。こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
俺は本を閉じ、声をかけようと彼女の肩に手を伸ばした。
だが、俺の声に反応してうっすらと目を開けた詩織は、起き上がる代わりに、俺のシャツの裾をきゅっと掴んだ。
「……湊くん」
完全に寝ぼけた、甘えきった声だった。
「……っ」
俺の思考回路が、一瞬でショートした。
掴まれた裾から、彼女の体温が伝わってくるような気がして、動けない。
「おい……起きろって」
だが、詩織の目はすでに閉じられている。
俺はため息をつき、起こすのを諦めた。仕方なく、そのままの姿勢で本を開き直す。
すると、数分後。
コトン、と。
俺の右肩に、柔らかな重みが乗った。
「……」
詩織が、完全に俺の肩に頭を預けて眠ってしまったのだ。
彼女のシャンプーの匂いが、鼻先をかすめる。腕に伝わる、確かな体温。
……ページが、めくれない。
活字が全く頭に入ってこない。
俺は本を読むのを完全に諦め、ただ天井を見上げて、この不整脈のような鼓動が治まるのを待つしかなかった。
その時、詩織の唇が微かに動いた。
「……すいぞくかん……」
「ん?」
「……また、行きたいです……」
寝言だ。
夢の中で、昨日の続きを見ているのだろう。
俺は、彼女の寝顔を横目で見下ろしながら、少しだけ沈黙した。
そして。
「……今度は、もっと空いてる日にする」
誰に聞かせるわけでもなく、静かにそう返した。
次を約束すること。未来を共に過ごすことを前提にすること。
それは、「好き」という言葉よりも、今の俺たちにとっては重くて、確かなものだった。
時計の針が、夜の十一時を回る。
そろそろ本当に起こして、ベッドに行かせないといけない。
「……警戒心なさすぎだろ、お前」
俺は呆れたようにぼやきながら、彼女の額にかかった前髪を、そっと指先で避けた。
肌に触れるか触れないかの、微かな接触。
すると、詩織が半分眠ったまま、俺の服の裾をさらに強く握りしめた。
「……どこにも、行かないでくださいね」
――。
その言葉は、俺の胸の一番柔らかい場所を、深く、正確に刺した。
親を亡くした俺は、誰かが突然消えることの恐ろしさを、誰よりも知っている。
当たり前の日常が、ある日突然、音を立てて崩れ去る絶望を。
だからこそ、他人と深く関わることを避けてきた。
なのに、今の俺は。
この小さな体温を手放すことの方が、一人でいることよりもずっと怖いと感じてしまっている。
俺は、裾を掴む彼女の小さな手に、自分の手をそっと重ねた。
「……行かねえよ」
その声は、自分でも驚くほど優しく、そして、揺るぎない決意に満ちていた。
まだ、恋人じゃない。
でも、ただの同居人でもない。
共犯者で、生活共同体で、守るべき相手。
この曖昧で、不器用で、どうしようもなく温かい「平熱の距離」が、今はただ、愛おしかった。




