第58話:17歳の水族館
週末の朝。
洗濯機が低い音を立てて回る中、リビングにはいつも通りの静かで穏やかな時間が流れていた。
朝食の片付けを終えた詩織が、テーブルの上を布巾で拭き上げていると、向かいに座って分厚いノートを睨んでいた湊が、不意にパタンと表紙を閉じた。
「……詩織」
「はい、なんでしょうか」
湊は、なぜか少しだけ視線を泳がせ、喉仏を上下させてから口を開いた。
「明日の日曜日だが、予定を空けておけ」
「明日ですか? はい、特に予定はないですけど……また遠くのスーパーに買い出しですか?」
先週のように、特売の洗剤でも買いに行くのだろうか。そう思って首を傾げる詩織に対し、湊は不自然なほど大きな咳払いを一つした。
「……違う。生活圏外での視察、および、世間一般で言うところの……その、デートという概念の実証実験だ」
「…………え?」
詩織の手から、ぽろりと布巾が滑り落ちた。
今、なんと?
聞き間違いだろうか。世界で一番「効率」と「節約」を重んじる、あの湊くんの口から、最も非効率で感情的な単語が飛び出したような気がした。
「えっと……今、なんて……?」
「だから。お前を連れて出かけると言ったんだ。目的もなく、ただ娯楽のために」
「で、で、で、デートですか!?」
詩織はバンッと両手でテーブルを叩き、身を乗り出した。信じられないものを見るような目で、湊の顔をまじまじと見つめる。
「本物の湊くんですか!? 熱でもあるんですか、それとも、どこかに頭を……」
「うるさい。失礼なやつだな。本物に決まってるだろ」
湊は、耳の先まで真っ赤に染めながら、そっぽを向いた。
「ずっとこの狭い生活圏で息を潜めていれば、いずれストレスで互いのパフォーマンスが低下する。これは、十月十五日までの長期戦を乗り切るための、必要なガス抜き措置だ。……行くのか、行かないのか」
理理屈でガチガチに武装したその言葉は、要するにただの誘いだった。
詩織の胸の奥で、炭酸が弾けるような甘い痺れが広がっていく。
「……行きます! 行かせてください」
「よし。行き先は隣県の大型水族館だ。動線はすでに確認済みだが、館内は空調が効いているから、体温調節できる服を選べ。……以上だ」
湊はそれだけ言い捨てると、逃げるように立ち上がり、自分の部屋へと姿を消した。
残された詩織は、その場にしゃがみ込み、熱くなった自分の両頬を手のひらで包み込んだ。
デート。水族館。
その甘美な響きが、彼女の心臓をどうしようもなく跳ねさせていた。
*
翌日。
最寄りの駅から乗った休日の電車は、家族連れやカップルでひどく混雑していた。
ドア付近のスペースに押し込まれた詩織は、周囲の波に揉まれないよう、小さな肩をすくめていた。
「……おい、こっちに来い」
不意に腕を引かれ、気づけば詩織は、ドアと湊の身体の間にすっぽりと収まるような形で立たされていた。
湊がドアの枠に手をつき、壁ドンのような体勢で、周囲の乗客から詩織を完全にガードしている。
「あ、ありがとうございます……」
「人混みではぐれられると、捜索の手間がかかるからな。……あと、足を踏まれたりしたら、明日の通学の動線に影響が出る」
顔を背けたまま早口でまくしたてる湊だが、その距離は普段の「半歩」よりもはるかに近い。
湊の着ている、少し大人びた黒いシャツ。そこから漂う、いつも家で嗅いでいるのと同じ安い柔軟剤の匂い。
見上げれば、彼の整った顎のラインがすぐそこにある。制服姿ではない、私服の湊。
それがどうしようもなく「男の子」であることを意識させられ、詩織は顔から火が出そうになり、俯くことしかできなかった。
一方の湊も、内心では激しい処理落ちを起こしていた。
玄関で淡いベージュのワンピースを着た彼女を見た瞬間、一瞬だけ思考が停止した。服装の変更による印象変化を分析しようとしたが、原因を特定する前に次の処理へ移れなかった。
その上、今こうして腕の中に収まる彼女から、ふわりと甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
(……心臓に悪い。非効率すぎるだろ、デートってやつは)
湊は誰にも聞こえない声で悪態をつき、ただひたすらに、目的地に着くまでの時間が早く過ぎることを祈っていた。
*
到着した水族館は、冷たい海を切り取ったような薄暗さと、青い光に満ちていた。
巨大なアクリルガラスの向こう側で、色とりどりの魚たちが群れをなして泳ぎ、頭上のトンネル水槽をエイが優雅に滑っていく。
「わぁ……すごい……!」
詩織は、ガラスに両手をつき、目をキラキラと輝かせて水槽に見入っていた。
その横顔は、高校生というよりも、初めて遊園地に連れてきてもらった幼い子供のように無防備で、純粋な喜びに満ちている。
「お前、水族館は初めてか?」
「……はい」
詩織は少しだけ恥ずかしそうに笑い、視線をエイの群れから湊へと移した。
「小さい頃から、休みの日はお父さんが……その、いなかったり、機嫌が悪かったりしたので。こういう家族連れが来るところには、縁がなかったんです。……だから、テレビの中でしか見たことなくて」
その言葉に、湊は小さく息を呑んだ。
彼女の育ってきた過酷な環境。親の借金、ネグレクト。娯楽などというものは、彼女の人生において最も縁遠い贅沢だったのだろう。
「……俺も、来たのは子供の時以来だ」
湊は、青い水槽を見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「中二で両親が死んでから、こういう場所は『無駄』の象徴になった。金も時間もかかるし、一人で来る意味もない。だから、二度と来ることはないと思ってた」
自分の城を守ることだけを考え、息を潜めて生きてきた三年間。
彼にとっても、ここは失われた「普通の子供時代」の象徴だった。
「……でも」
湊は、ガラスに張り付くようにして小さな熱帯魚を指差している詩織の、嬉しそうな笑顔を見た。
その瞬間、彼の中でガチガチに固まっていた「効率」という理屈が、いとも簡単に溶け落ちていくのを感じた。
「今は……悪くないと思ってる」
その声は、水槽の泡の音にかき消されそうなほど小さかった。
けれど、詩織は確かにそれを聞き取り、嬉しそうに目を細めて湊を見つめ返した。
「はい。私も、すごく楽しいです。……連れてきてくれて、ありがとうございます」
暗い水槽の光に照らされた二人は、互いの失われた時間を取り戻すように、ただ隣に並んで青い世界を歩き続けた。
*
深海魚の展示エリアに入ると、周囲はさらに暗くなり、足元の誘導灯だけが頼りになった。
「暗いな。足元に気をつけろよ」
「はい。……あっ」
詩織が、少し段差につまずいて軽くよろけた。
すかさず、湊がその腕を掴んで引き寄せる。
「危ないだろ。……まったく、お前は本当に不注意が多すぎる」
「ご、ごめんなさい……暗くて、見えなくて」
湊は、ため息を一つ吐いた。
そして、掴んでいた詩織の腕から手を滑らせ、そのまま彼女の小さな右手を、自分の左手でしっかりと握りしめた。
「……えっ」
「……はぐれると面倒だ。ここは特に暗いからな。遭難されて、館内放送で呼び出されたら、俺の精神的コストが跳ね上がる」
顔は前を向けたまま。言い訳だけはいっちょ前だ。
けれど、繋がれた手から伝わってくる湊の体温は、火傷しそうなほど熱く、彼の心臓がどれだけ早く打っているかを、雄弁に物語っていた。
詩織は、繋がれた自分の手元を見て、それから湊の少し赤くなった耳の先を見た。
「……はい。コスト削減ですね」
詩織は、くすっと笑って、繋がれた手にきゅっと力を込め返した。
湊は何も言わず、ただ繋いだ手を少しだけ自分の方へ引き寄せた。
*
水族館を出た後、二人は海沿いの公園を歩いていた。
時刻は夕暮れ。水平線に沈みかけた太陽が、海面を黄金色に染め上げている。
二人の手には、公園の売店で買ったクレープが握られていた。
湊が「栄養価の偏りがひどい。糖分の過剰摂取だ」と文句を言いながらも、結局は詩織の懇願に負けて二つ買ってきたものだ。
「おいしい……! 湊くんの、チョコバナナですよね。私のはイチゴなんですけど……ちょっと、交換しませんか?」
「は? なんでそんな非効率な……」
言い終える前に、詩織が自分のクレープを湊の口元へと差し出した。
「ほら、一口食べてみてください。すっごく甘くて美味しいですから。……あーん」
少しだけ背伸びをして、ニコリと微笑む詩織。
その破壊力抜群の笑顔と、「あーん」という展開に、湊の思考回路は一時停止した。
理屈で断る理由を探した。
だが、今回は何も見つからなかった。
湊は、小さくため息を吐いた。
「……今日だけだぞ」
そう呟くと、湊は少しだけ身を屈めた。
甘いイチゴと生クリームの匂いが鼻先をかすめる。彼は、詩織の細い指先が触れそうな位置にあるクレープの端を、素直に小さくかじった。
「わっ……!」
本当に食べてくれると思っていなかったのか、詩織は驚いて目を見開いた。
「……甘すぎる。俺にはチョコバナナで十分だ」
湊は顔から火が出そうなのを必死に隠し、そっぽを向いて口元を拭った。なぜか、その一口だけで異常なほど心拍数が上がっている。原因は不明。分析する必要もない……いや、分析したところで答えは出したくなかった。
「ふふっ。……じゃあ、私も湊くんの、一口もらっていいですか?」
「……勝手にしろ」
湊が少しだけ不器用に差し出したクレープを、詩織が「あーん」と口を開けて、同じようにかじる。
「おいしい……! チョコもいいですね」とはしゃぐ詩織の隣で、湊は残りのクレープを胃に流し込みながら、跳ね上がる心拍数をどうにか抑えつけようと必死になっていた。
*
海風が、少しだけ冷たさを帯びてきた。
防波堤に並んで腰掛け、二人は沈みゆく夕日をぼんやりと眺めていた。
先ほどまでの無邪気なはしゃぎぶりが嘘のように、二人の間には静かな時間が流れている。
祭りの後のような、少しだけ寂しいような空気。
「……湊くん」
夕日の光を瞳に映しながら、詩織がぽつりと呟いた。
「ずっと、このままがいいですね」
その言葉は、祈りのようでもあり、諦めのようでもあった。
誰も自分たちを知らない街で、ただの十七歳の高校生として、手を繋ぎ、クレープを食べ、笑い合う。
この時間が永遠に続けばいいのに。
けれど、それが叶わないことを、二人は痛いほど理解していた。
十月十五日。
詩織が十八歳になり、大人の干渉から完全に自由になるその日まで。
残り、あと約五十日。
モラトリアムの終わりは、確実に近づいている。
学校の進路指導、矢島先生の行政手続き、そして、またいつか動き出すかもしれない父親の存在。
月曜日になれば、またあの「社会」という名の戦場に戻らなければならない。
湊は、詩織の横顔を見つめた。
彼女の瞳の奥にある不安を、打ち消してやりたいと思った。
だが、「ずっとこのままでいられる」なんて無責任な嘘を吐くことは、湊にはできなかった。
「……永遠にこのままでいるなんて、物理的に不可能だ」
湊の冷たい声に、詩織は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
しかし、湊は続ける。
「でも、明日の朝も、お前は俺の作った飯を食う。明後日も、その次もだ。……この時間が終わっても、俺たちの生活は続く」
湊は、防波堤に置かれていた詩織の手の上に、自分の手を重ねた。
「あの部屋に帰るぞ。……俺たちの、陣地に」
その言葉は、どんな甘い愛の告白よりも、詩織の胸を強く打った。
一時的な「逃避行」の終わりを嘆くのではなく、立ち向かうべき「日常」への帰還。
そこに湊が一緒にいてくれるなら、何も怖くないと思えた。
「……はい」
詩織は、重ねられた湊の手を強く握り返し、満面の笑みで頷いた。
夕日が完全に海に沈み、空が群青色に染まっていく。
帰り道の電車は、行きよりもずっと空いていた。
並んで座った座席で、疲れ果てて船を漕ぎ始めた詩織の頭が、こつんと湊の肩に乗る。
湊は眠る詩織の頭がずれないよう、ほんの少しだけ肩の位置を調整した。
起こさないように。
それだけだった。
……それだけのはずだった。




