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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第57話:二人分の解

 昨夜の喧騒が嘘のように、朝の空気はひどく澄んでいた。


 キッチンから聞こえる、トントントンという規則正しい包丁の音。

 詩織は、昨夜泣き崩れたせいで鉄板でも入ったように重くなった瞼を擦りながら、ゆっくりとリビングへと足を踏み入れた。足裏に触れる冷たいフローリングの感触が、今ここが現実であることを教えてくれる。


 昨晩、湊に連れられて帰宅した後の記憶は、ひどく断片的で曖昧だった。

 彼が作ってくれた、出汁の香りが強い温かい雑炊の味。それから、恐怖と安堵で震えが止まらなかった背中に、ずっと添えられていた手のひらの、火傷しそうなほどの熱。自分をあの父親のいる泥沼の中から引きずり出し、この清潔な部屋へと連れ戻してくれた彼の体温。

 それだけが、冷え切っていた詩織の心に唯一残った、逃げ場のない確かな現実だった。


 コンロの前には、すでに制服に着替えた湊が立っている。

 彼は振り返ることもなく、鍋の様子を伺いながら、いつものぶっきらぼうな調子で静かに言った。


「起きたか。……顔、すごいことになってるぞ。保冷剤、冷凍庫の右側にあるから使え」


「……おはよう、ございます。……鏡、見てきました。自分でもびっくりするくらい腫れてて」


 詩織は照れくさそうに、腫れた目の下を指先で押さえた。痛々しい自分の顔を思い出し、少しだけうつむく。

 湊は火を止めると、手際よく朝食をテーブルに並べ始めた。いつもの焼き魚、出汁巻き卵、そして昨夜よりも少し豪華に具を増やした、豆腐とわかめの味噌汁。湯気と一緒に、ホッとするような香りが部屋に広がる。


「……湊くん。昨日のこと、本当にごめんなさい。それから、ありがとうございました。……私、また湊くんに全部、背負わせてしまって。自分でやるとか言ったのに、全然ダメで」


 椅子に座る前に、詩織は深く頭を下げた。自分の弱さが情けなくて、また視界が滲みそうになるのを必死に堪える。

 湊は飯碗を置く手を止め、わずかに視線を逸らしてから、短く息を吐いた。


「……謝るなと言っただろ。お前が一人で行こうとしたのは、俺に迷惑をかけたくなかったからだって分かってる。そうやって俺を『外側』に置くことで、一人で背負い込もうとしたんだろう。……ただ、少し見積もりが甘かっただけだ」


 湊は、自分の席に腰を下ろすと、詩織を真っ直ぐに見据えた。その漆黒の瞳には、昨夜の喫茶店で見せたような、敵を排除するような鋭く冷たい光はもうない。ただ、不器用な真摯さだけがそこにあった。


「正直、お前の父親の顔を見た時は、ぶん殴ってやりたいと思った。……けど。お前が、あの男を完全に見捨てられない理由も、少しだけ分かった」


 湊は味噌汁を一口飲んでから、視線を落としたまま続けた。言葉を探すように、少しだけ眉を寄せている。


「お前、そういうところあるだろ。自分が削れても、完全には切り捨てられないやつ」


 少しの、重い間が空く。


「……あの環境で、それを捨てなかったのは、お前らしいと思う」


 そのぶっきらぼうで生っぽい言葉が、詩織の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。綺麗な言葉で全肯定されるよりも、ずっと湊らしい言葉。

 湊は立ち上がり、棚から何かを取り出すと、無造作にテーブルの中央へ置いた。

 それは、詩織が昨夜、父親に渡そうとしていたあの「生活費の封筒」だった。


「昨日、お前は結局これを渡さなかっただろ」

「……はい」

「最後まで持ってたな」


 詩織が、ゆっくりと頷く。

 湊は小さく息を吐き、静かに言った。


「……よく頑張ったな、詩織」


 その一言に、堪えていたはずの視界がまたぐにゃりと歪んだ。

 何と戦っていたか。どれだけ苦しかったか。それを、目の前にいる少年はちゃんと見ていてくれた。自分で自分を否定し続けてきた詩織が、これまでの人生で一番欲しかった言葉だった。


「……はい。……私、怖かったけど。でも、湊くんの顔を思い出したら、このお金は、絶対に渡しちゃいけないって思えました。これを渡しちゃったら、また全部、元に戻る気がして。……湊くんと作ってる生活まで、壊れる気がしたんです」


「……そうか。ならいい。……食え。冷めるぞ」


 湊は少しだけ耳の先を赤くして、逃げるように味噌汁を啜った。照れている時の彼の癖だ。詩織は小さく頷き、お箸を取った。温かいご飯が、喉を通って胃の腑に落ちていく。


「これからの話をしよう。昨日で、あの男も当分は接触してこないだろうが、油断はできない。学校の手続きも、誕生日の自立の件も、まだまだ壁はある」


 湊は食べ終えた箸を置くと、例の分厚いノートを広げた。そこにはすでに、昨夜から今日にかけての生活費のやり繰りや、今後の段取りがびっしりと書き込まれている。


「でも、昨日の夜、確信した。俺一人で全部先回りして考えてるうちは、不測の事態に弱い。お前が一人で抱え込んでパンクするのが、この生活の最大の不確定要素だ。昨日みたいに、お前が勝手に消えるのが、俺にとって一番『想定が狂う』ことなんだよ」


 湊はペンを取り出し、ノートの新しいページに、真ん中を割るように太い線を一本引いた。


「だから、昨日言った通りだ。半分持て。……嬉しいことも、面倒なことも、汚れるようなことも、全部だ。一緒に頑張ろうなんて、柄にもないことは言わないが。……お前の問題なんていう『線引き』は、もうこの部屋には存在しない。一人で勝手に脱落するのだけは、俺が許さない。それが、この家で暮らすための絶対条件だ」


 詩織は、そのノートの白い余白を見つめた。

 そこにはこれから、二人の不格好な、けれど誰にも邪魔されない「生活」が書き込まれていくのだ。保護者と被保護者ではなく、共に生活を回していく共犯者としての記録が。


「……はい。私、もう勝手にいなくなったりしません。湊くんの隣で、ちゃんと予定の邪魔、しますね。……二人で考えれば、答えも、半分ずつでいいんですよね?」


「手間は増やすなよ。……まあ、答えを出すまでの過程は、二人分になるだろうな」


 湊が小さく笑った。

 それにつられて、詩織も笑った。張り詰めていた空気が、ゆっくりと解けていく。


 窓の外、朝の街が動き出す音が聞こえる。遠くを走る車の音、カラスの鳴き声。

 それはかつて、詩織にとって自分を追い詰める社会の足音だった。でも今は、この部屋で湊と一緒に聞く日常のBGMへと、その意味を確かに変え始めていた。


「……さて。皿洗い、今日は俺がやる。お前は予習でもしてろ。……その目の腫れ、しっかり冷やしとけよ。学校で変な噂立てられたら、俺が対応する手間が増える」


「あ、また『手間』とか言う。……ふふ。分かりました」


 立ち上がった湊がキッチンへ向かう。すぐに、勢いの良い水の音が聞こえ始めた。

 詩織は、テーブルの上の封筒を手に取ると、今度は迷うことなく棚の引き出しへとしまった。

 それはもう、彼女を縛る重い塊ではなく、二人の未来へ残された、最初の一歩になっていた。


 *


 学校での時間は、いつものように淡々と過ぎていった。

 教室の喧騒の中、詩織は自分の席に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。黒板に向かって話す教師の声は、どこか遠くの出来事のように右耳から左耳へと抜けていく。


 保冷剤で必死に冷やし、前髪で隠すように工夫したとはいえ、やはり少し腫れが残る目元は、完全には隠しきれなかった。


「大丈夫? 目、すごい腫れてるけど」


 ふいに、前の席の春奈奈々が振り返って声をかけてきた。時折ノートを貸し借りしたり、プリントを回したりする程度のクラスメイトだ。


「あ、これは……」

「泣いたの?」

「……ちょっと、家のことで。昨日、少し寝不足になっちゃって」


 詩織が曖昧に笑って誤魔化すと、奈々は「そっか」と短く応え、それ以上は踏み込んでこなかった。


「無理しないでね。保健室、行くなら先生に言っとくよ?」

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」


 会話はそこで途切れた。春奈は再び前を向き、ノートを取り始めた。

 その適度な距離感が、今の詩織にはたまらなくありがたかった。


 かつての詩織なら、心配されたことに過剰に罪悪感を抱き、「本当に何でもないの、ごめんね」と作り笑いで必死に取り繕おうとしていたはずだ。他人の機嫌を損ねないこと、波風を立てないことだけが、彼女の生存戦略だったからだ。


 けれど今は、深く踏み込まれないことに静かに安堵し、無理に取り繕う必要を感じていない自分がいる。

 自分には、帰る場所がある。本当の自分を知ってくれている人がいる。その事実が、学校という閉鎖的な空間の中で、詩織に初めて「息継ぎ」をさせてくれていた。

 世界が、昨日までとは少しだけ変わった気がした。


 昼休み。


 詩織は教室を抜け出し、人気のない屋上へ続く階段の踊り場で、湊が持たせてくれた弁当箱を開いた。

 パチンと留め具を外すと、いつものように彩り豊かで、栄養バランスの考えられたおかずが綺麗に並んでいる。ブロッコリーの緑、ミニトマトの赤。そして今日は、いつもより卵焼きが少しだけ大きめに切られていた。


 お箸で卵焼きをつまみ、一口食べる。出汁の効いた、少しだけ甘めの味付けが、疲れた身体の隅々にまで染み渡っていくようだった。

 家という「帰る場所」がある。私を待っていてくれる人がいる。

 その事実が、この小さなプラスチックの箱の重みを通して、確かにお腹の底を温めてくれた。


 *


 放課後。

 夕暮れ時のスーパーマーケットは、特売品のタイムセールを狙う買い物客でごった返していた。夕飯の支度を急ぐ主婦たちや、仕事帰りの会社員が、カートを押して忙しなく行き交う。


 詩織は野菜売り場の前で、スマートフォンにメモした買い物リストと睨めっこをしていた。明日の味噌汁の具はなめこにする約束だったが、目の前にある特売のほうれん草も捨てがたい。百円を切る値段のポップが詩織を誘惑している。


「……なめこはあっちだ」


 背後から唐突に声がして、詩織はびくっと肩を揺らした。

 振り返ると、指定のスーパーで待ち合わせていた湊が、すでに買い物カゴを片手にぶら下げて立っている。制服のネクタイを少し緩め、気怠げな表情を浮かべていた。


「あ、湊くん。……バイト、お疲れ様です」

「ほうれん草は昨日茹でたのがまだタッパーに残ってる。重複するのは無駄だぞ」

「あ……そうでした。すっかり忘れてました。じゃあ、予定通りなめこと、お豆腐も買いますね」


 二人で並んで、夕飯の買い出しをする。

 洗剤の詰め替え用パック、安売りの豚肉、少しだけ奮発した季節の果物。生活感に溢れた品々が、少しずつ湊の持つカゴの中を埋めていく。


 すれ違う人から見れば、ただの高校生と、その同居人。誰も気にも留めない。けれど、詩織にとっては、この平凡な買い出しすら、奇跡のように眩しく思えた。


 レジでお金を払い、スーパーを出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。

 秋の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。湊は重いレジ袋を片手で軽々と持ち、いつものように詩織の半歩前を歩いていた。


「……湊くん。今朝のシャツのアイロン、大丈夫でしたか?」


 詩織が、少し後ろから控えめに尋ねる。今朝、湊が朝食を作っている間に、初めて詩織が任された仕事だった。


「ん。まあ、合格点だ。少なくとも、俺が自分でやるよりは朝の時間の節約になった」


 相変わらず理屈っぽい、けれど彼なりの最大限の肯定の返しに、詩織は小さく笑った。


「よかったです。……私、もっとちゃんとできるようになりますから。家のことも、これからの段取りのことも」


 湊は足を止めず、前を向いたまま言った。


「焦らなくていい。昨日の今日で、急に完璧になれるわけがない」


 少しの沈黙の後、湊が不意に歩く速度を少しだけ落とし、声のトーンを変えた。


「……お前、自分を低く見積もりすぎだ」


 詩織は目を丸くして、湊の横顔を見上げた。夕日に照らされた彼の横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。


「これは、ただの慰めや感情論じゃない」


 湊は、視線を前に向けたまま淡々と続ける。


「お前は最後まで、自分で考えて選んだ。そこは間違ってない。結果だけ見て、自分を失敗扱いするな。……お前は、自分で思っているよりずっと粘り強い。だから、無駄に自己評価を下げるな」


 慰めでも、同情でもない。徹底した事実と結果に基づく、湊からの「評価」。

 それが、詩織の胸の一番奥にある、ずっと凍りついていた自己肯定感を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。


「……はい」


 詩織の声は少しだけ震えていたが、もう涙は出なかった。

 代わりに、少しだけ背筋を伸ばし、彼の隣を歩く足にきゅっと力を込めた。


 *


 自宅の前に着く頃には、空には冬に近い冷たい星がいくつか瞬き始めていた。

 外灯に照らされた、短い玄関のアプローチ。

 湊がズボンのポケットから鍵を取り出し、冷たい金属のドアノブを回す。


 ガチャリ、と重い金属音が鳴り、ドアが少しだけ開いて、部屋の暗がりが顔を覗かせる。

 いつもなら、ここで張り詰めた空気が漂うはずだった。お互いにどう振る舞えばいいのか分からず、探り合うような数秒間。けれど、今は違う。


 詩織は湊の背中越しに部屋の匂いを吸い込んだ。

 安物のフローリングワックスと、少し甘い柔軟剤の匂い。湊が管理し、詩織が今日一日、ずっと帰りたかった場所の匂い。


 詩織は、息を吐くように自然に口を開いていた。


「……ただいま」


 湊は靴を脱ぎかけたままで一瞬動きを止め、それから、呆れたように、けれどひどく柔らかい声で応えた。


「……おかえり」


 パチンとスイッチが押され、リビングに白々しい蛍光灯の光が満ちる。

 テーブルの上には、あの分厚いノートが置かれたままになっている。


 湊はずっと、一人で「最適解」を導き出してきた。

 誰の介入も許さず、感情を排除し、効率だけを求めて、自分を守るための城を築き上げてきた。

 けれど、今の彼が向き合っているのは、一人で解くための方程式ではない。非効率で、感情に振り回され、不確定要素に満ちた、詩織という存在を含んだ「連立方程式」だ。


 十月十五日。

 彼女が十八歳になり、大人の干渉から完全に自由になるその日まで。

 残り、あと百数十日。


 まだ壁はある。

 未来の形なんて、誰にも分からない。


 それでも、二人の足音は、昨日より少しだけ重なって響いていた。

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