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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第56話:境界線の引き方

 湊がバイトに出かけた後の部屋は、いつもひどく静かだ。

 換気扇の回る小さな音と、冷蔵庫が時折立てる低い唸り。湊が完璧に管理しているこの空間は、彼がいなくなると急に余白が増えたような、居心地の悪い広さを感じさせる。


 リビングのソファに座り、湊から「予備」として預かっている生活費の入った封筒を眺めていた。

 私はバイトをしていない。湊は「家事の対価だ」なんて理屈を並べて、何かあった時のためにと、数万円の現金を私に持たせている。彼はそれを『必要経費』と呼ぶけれど、私にとっては彼が削った命の一部を分けてもらっているような、重い塊だった。


 その封筒を、棚の奥にしまおうとした時。

 テーブルに置いたスマートフォンが、嫌な音を立てて震えた。


 画面に表示された、名前のない番号。

 それを見た瞬間、喉の奥がヒュッと鳴って、指先の体温が引いていくのが分かった。

 登録は消した。でも、数字の並びは脳にこびりついている。

 父親だった。


 画面は何度も暗くなり、またすぐに震え出す。しつこく、けれどどこか縋るようなその振動に、私はしばらく動けずにいた。

 昨夜、湊は言った。『お前の父親の件も、俺も手伝う』と。

 その言葉は嬉しかった。でも、同時に胸の奥がチリチリと焼けるように痛かった。これ以上、彼の生活に私の泥を持ち込みたくない。彼の計算をこれ以上、私の家族なんていう不確定要素で狂わせたくなかった。


 震える指で、通話ボタンを押す。


『……詩織か』


 耳に届いたのは、何年も使い古した布のように掠れた声だった。


『この前は、すまなかった。……いや、謝って済む話じゃないのは分かってる。分かってるんだ』


 私は何も言えない。受話器を握る手に力が入りすぎて、関節が白く浮き出る。


『……もう一度だけ、会えないか。ちゃんと話したいんだ。お前に、渡したいものもあるんだ』


 嘘だ。そう思わなきゃいけない。

 渡したいものなんて、きっと何もない。あるのは、私から毟り取れるものがないか探そうとする下卑た期待だけだ。

 なのに、幼い頃に手を引かれて歩いた時の、あのカサついた手の感触が、記憶の底から勝手に這い出してくる。


「……どこで」


 気づけば、乾いた声でそう答えていた。


『駅前のロータリーだ。一時間後、待ってるから。本当に、一目でいいんだ』


 電話が切れる。

 私は立ち上がり、コートをひったくるように羽織った。玄関の鍵を手に取る。

 湊にメモを残すべきか、一瞬迷って、ペンを置いた。

 言えば、彼はバイトを休んででも来るだろう。あるいは、私を部屋に閉じ込めて、代わりに戦いに行ってしまうだろう。

 それは、優しさに見えた。でも、今の私には、それは彼の負担を増やすだけの毒に思えた。

 これは、私の呪いだ。私が自分で断ち切らなきゃ、いつまでも湊の家を汚し続けてしまう。


 私は何も書かず、逃げるようにドアを閉めた。


 *


 夕暮れの駅前ロータリーは、帰宅を急ぐ人々で溢れていた。

 冷たい風が首筋を通り抜ける。赤く染まり始めた空が、影を長く伸ばしていく。


 人混みの中、父親は昨日と同じ場所に立っていた。

 擦り切れたジャケットの襟を立て、背中を丸めて。街灯の光に照らされたその姿は、私の記憶の中にある姿よりもずっと小さく、薄汚れて見えた。


「詩織……来てくれたんだな」


 私を見つけた父親が、縋るように一歩踏み出してくる。その安堵したような顔が、ひどく醜くて、それ以上に悲しかった。


「立ち話もなんだ。あそこの喫茶店、入らないか」


 促されるまま、ロータリーの隅にある古びた喫茶店に入った。

 店内はタバコの煙と、使い古された油の匂いが染み付いている。隅のボックス席に座り、父親がブレンドコーヒーを、私はアイスティーを頼んだ。

 氷の触れ合うカランという音が、沈黙を余計に強調する。


「……この前は、本当にすまなかった」


 父親がテーブルの上で節くれだった手を組み、深く俯いた。


「お前に金を無心するなんて、父親失格だ。分かってる。死ぬほど反省した。……でも、本当に、どうしようもなくて。他に頼れる人間も、いなかったんだ」


 アイスティーのグラスを両手で包む。結露した水滴が指先を濡らし、湊の部屋の温もりを奪っていくような気がした。


「……仕事、見つかったって、電話では言ってましたよね」


「ああ。日雇いだけどな、建築現場の片付けなんかをやってる。……でも、前の借金の利息がすごくて。せっかく稼いでも、右から左へ消えていくんだ」


 父親の声は、嘘をついているようには聞こえなかった。でも、本当のことを言っているようにも聞こえない。この人はいつもそうだ。自分を被害者の中に置き、誰かの同情を引くことでしか、自分の立ち位置を確保できない。


「もう少しだけなんだ。あと少しだけ踏ん張れば、ちゃんとしたアパートも借りられるし、生活も戻る。そうしたら、お前を迎えに行ける。また、二人で……」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 その言葉を、かつての私はどれほど待ち望んだろう。

 お父さんが迎えに来てくれる。また「普通」の親子に戻れる。

 でも、今の私には、その言葉が錆びた鎖のように聞こえた。私を引きずり戻し、泥の中に沈めるための重石。


「……お父さん」


 私は、カバンの中に手を入れた。

 そこには、湊が「何かあった時のために」と持たせてくれた封筒が入っている。

 これは私の金じゃない。湊が、バイト先で「完璧な笑顔」を作り、大人たちに頭を下げて、身を削って稼いできた金だ。それを、この男に渡すことの罪悪感が、心臓を叩く。


 でも。

 目の前で俯く父親の、薄くなった頭頂部や、汚れの落ちていない爪を見てしまうと。

 ここで拒絶したら、この人は本当に死んでしまうんじゃないか。そんな、私の「呪い」である優しさが、首を絞めてくる。


「私、今……少しだけ、お金があります」


 父親の肩が、微かに跳ねた。


「湊くんが、私に預けてくれたお金です。……お父さんのために使うためのものじゃないけれど」


「詩織……すまない、本当にすまない。……恩に着る」


 父親の手が、テーブルを這うようにして私の手元に近づいてくる。

 私は封筒を取り出し、それをテーブルの上に置こうとした。

 これで、終わりにしよう。

 これを渡して、もう二度と会わないと言おう。

 そう自分に言い聞かせて、指を離そうとしたその時。


 喫茶店の扉が、激しい音を立てて開いた。

 カランカラン、とけたたましくベルが鳴る。


 店内中の視線が集まる中、肩で息をしながら、一人の少年が立っていた。

 湊だった。


 *


 制服のまま、アウターも着ずに飛び出してきたのだろう。湊のシャツの襟元は乱れ、額には汗が滲んでいる。

 彼の目は、店内の客を一人ずつ弾くように確認し、そして窓際の席に座る私たちを捉えた。


「……湊くん」


 立ち上がろうとした私の膝が、ガクガクと震えて力が入らない。

 湊は何も言わず、大股でこちらへ歩いてきた。その表情は、今までのどんな時よりも硬く、冷たい。


「……お前、メモくらい残せって言っただろ」


 テーブルにたどり着いた湊の声は、低く、かすかに震えていた。怒りだけじゃない。そこには、明確な『恐怖』が混じっているのが分かった。


「バイトから帰ってきたら、靴がない。財布もない。……スマホの位置情報、切ってなかったのが救いだ」


 湊は私の隣に立ち、視線を私の向かい側に座る男へと向けた。

 父親は、湊の放つ威圧感に気圧されたように、椅子を引いて身を縮める。


「あなたが、詩織の父親ですか」


 湊の問いかけは、丁寧ではあったけれど、相手を『人間』として扱っているような響きはなかった。まるで、排除すべきバグか何かを見つめるような、無機質な響き。


「……ああ。娘が、いつもお世話に……」


「挨拶はいいです。詩織に何を言ったかだけ、教えてください」


 湊の視線が、テーブルの上の封筒に落ちる。

 私の指先が、まだその封筒に触れていた。


「……詩織。それを、渡すつもりだったのか」


 私は答えることができなかった。湊の顔が見られない。

 彼がどれだけの思いでこの金を私に預けたか。それを、よりによって彼が一番警戒していた人間に渡そうとした。その裏切りが、自分でも許せなかった。


 湊は短く、溜息をついた。それは呆れたようなものではなく、自分の無力さを噛み締めるような、重い音だった。


「……あなたがここに来た理由は、これですか」


 湊が、父親を指差す。


「詩織に金を無心して、またどこかへ消える。それだけのために、この子を呼び出したんですか」


「……違う! 俺は、詩織とちゃんとやり直すために……」


「やり直すなら、まず自分が自立してください。娘から毟り取った金で食いつなぐ生活を、やり直すとは言いません。それはただの延命だ」


 湊の言葉は、鋭い。父親は顔を赤くし、テーブルを叩いて立ち上がった。


「君に何が分かる! 親子の事情だ、赤の他人が首を突っ込むな!」


「首を突っ込みます。……詩織は、俺が守るって決めたから」


 湊の声は、大きくはなかった。けれど、店内の騒音をすべて塗りつぶすような、絶対的な響きがあった。


「詩織はあなたを見捨てることに、人一倍罪悪感を覚える。その理由を一番知っているのは、あなたでしょう。……だからこそ、その罪悪感を利用しちゃいけない」


「……っ」


「詩織には、これから自分の人生がある。あと半年で十八歳になれば、法的にもあなたの干渉を受けずに済む。それまでは、俺がこの子を預かります。……だから、二度と近づかないでください。これ以上詩織を汚すなら、俺も相応の手段を考えます」


 湊の目は、本気だった。

 大人びているのではない。一人の少女を守るために、自分が築き上げてきた『平穏』をすべて投げ打つ覚悟をした、少年の剥き出しの意志。


 父親は、湊の瞳にある圧倒的な光に耐えきれなくなったように、視線を泳がせた。


「……勝手にしろよ。……どうせ、お前なんて、いつか面倒になられるんだ。……そんな他人の事情まで背負い込むような奴が、いつまでもお前のことなんか構っていられるわけがない……」


 父親はそれ以上言葉を続けることができなくなったのか、最後にひどく濁った目を詩織に向け、そのまま足早に店を飛び出していった。


 カランカラン、というベルの音が、いつまでも耳に残る。


 *


 喫茶店を出ると、街はすっかり夜の闇に包まれていた。

 駅前の喧騒を離れ、住宅街へと向かう道を、私たちは並んで歩く。


 私はずっと俯いたまま、コートのポケットの中で封筒を握りしめていた。


「……ごめんなさい」


 やっとの思いで出した声は、風に消されそうなほど小さかった。


「自分一人で終わらせるなんて、大口叩いて……結局、湊くんに助けられて。……私、やっぱり最低です」


 湊は、前を歩く足を止めなかった。


「最低なのは、あの男だ。お前じゃない」

「でも、あの金……湊くんが一生懸命稼いだものなのに。私、それを……」

「……俺が悪かった」


 湊が、不意に足を止めた。

 振り返った彼の顔は、街灯の逆光でよく見えなかったけれど、その肩がわずかに震えているのが分かった。


「お前一人に、重い選択をさせた。……半分持てって言ったのは俺なのに、肝心なところで、お前を一人にした」


 湊が、一歩、距離を詰めてくる。


「お前が優しすぎることも、見捨てられないことも、分かってたはずなのに。……怖かったんだ」

「……え?」

「バイト先で、もしお前がいなくなってたら、俺はどうすればいいのかって。……家計簿の計算が合うとか合わないとか、そんなこと、どうでもよくなるくらい……頭が真っ白になった」


 湊の手が、私の肩に置かれた。

 その指先は、ひどく冷たかった。夕闇の中、必死に私を探し回っていた彼の焦燥が、その冷たさから伝わってくる。


「……一人で背負うな。俺も一緒に、汚れてやるから。……だから、もう勝手に行くのはやめろ」


 詩織の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 冷たい夜の空気の中で、湊の体温だけが唯一の現実としてそこにあった。

 見捨てないでいてくれることへの感謝と、自分の情けなさ。それらが混ざり合って、言葉にならない嗚咽となって漏れる。


 湊は、少しだけ困ったように視線を逸らし、それから、ぎこちない動作で私の背中を一度だけ叩いた。


「……泣くな。帰るぞ」

「……ぐ、……はい……っ」

「晩飯、まだだろ。……今日は、お前が一番好きなやつ、作るから」


 涙を拭いながら、私は何度も頷いた。

 湊はまた歩き出し、私はその半歩後ろを付いていく。


 空には、冬に近い冷たい星がいくつか輝き始めていた。

 境界線を引くことは、まだできなかった。

 でも、その境界線の外側に、湊が立っていてくれること。

 それだけで、私はもう一度、自分の足でこの街を歩いていけるような気がした。


 冷えた空気が、肺を満たす。

 二人分の足音が、静かな住宅街に響き、消えていった。

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