第55話:夜明けの温度
カーテンの隙間から差し込む光は、暴力的なまでに白かった。
阿久津湊は、キッチンのタイルの上に立ち、火にかけた鍋をじっと見ていた。
味噌を溶かすために持ち上げたお玉が、ほんのわずかに揺れる。
昨夜、あの鉄のベンチで触れた詩織の指先の感触が、まだ皮膚の表面に焼き付いているように離れない。
原因は分かっている。
だが、それを頭の中で冷徹に分析しようとすればするほど、かえって彼女の体温が生々しく意識の底に蘇り、睡眠時間を十分にとったはずの脳が妙に熱を帯びてしまう。それは単なる香料の残留ではない。そう判断するには、彼女が近くにいる時だけ発生する身体反応の説明がつかなかった。
背後で、客間のドアがゆっくりと開く音がした。
「……湊くん。おはよう、ございます」
振り返らなくても分かる。そこには、昨夜「残ることを選んでしまった」詩織がいる。
昨夜、玄関の敷居の前で投げかけた「おかえり」という言葉。
あの瞬間、湊は何も考えていなかった。
十月十五日までの計画も、大人たちへの説明も、周囲からどう見えるかという問題も、すべて頭の隅へ追いやられていた。
ただ、目の前にいる詩織が、もう一度この場所へ戻ってきた。
その事実だけを確認して、口からこぼれた言葉だった。
後から考えれば、それは彼が長い間守ってきた境界線を、自分自身で越えた瞬間だったのかもしれない。
けれど、あの時の湊には、そんな分析をする余裕などなかった。
ただ、帰ってきてくれたことに、安堵していた。
湊は、沸騰し始めた味噌汁を見つめたまま、喉の奥にへばりついた気恥ずかしさを冷徹な理屈で押し込め、静かに声を紡ぎ出した。
「おはよう。……少しは、眠れたか?」
それは、これまでのような体調管理のための事務的な点検ではなかった。その声は自分でも驚くほど穏やかで、けれど隠しきれない熱を帯びて、静かな室内に溶けていく。
「はい。……湊くんは?」
「俺は、まあ……それなりに。ほら、飯にするぞ。座って」
カチャリ、と。湊が丁寧に置いた茶碗が、テーブルの木目を小さく叩いた。
二人で囲む朝食は、いつもと変わらないはずだった。
味噌汁、焼いた魚、卵焼き。
栄養バランスも、調理時間も、いつも通り計算された献立。
なのに、今日は妙に落ち着かなかった。
箸を動かすたび、向かいにいる詩織の存在を意識する。
昨夜、触れた小指の感触がまだ残っているような気がして、そのたびに意味のないはずの動作に集中力を使わされる。
(……これは、かなり非効率だ)
湊はそう結論づけた。
だが、原因を「気のせい」と処理するには、少しだけ遅すぎた。
「……湊くん」
詩織が、湯気の向こう側から、少しだけ勇気を持った声音で口を開いた。
「……ん? どうした。口に合わなかったか」
「いえ。……昨日の続き、また、夜にちゃんとお話ししたいです。……いいですか?」
湊の箸が、ぴたりと止まった。昨夜、スマートフォンを着信音が引き裂く直前まで交わしていた、あの話の続き。
誰を頼るか。どこまで大人の目を欺くか。十月十五日の期限まで、どうやって二人でこの日常を回していくか。
甘い感傷に浸るよりも先に片付けなければならない現実が、山ほど残っている。
「ああ。もちろん。……逃げるための計算は、もう終わりだ。これからは、ここで生活を続けるための計算を始めよう。一緒に」
「はい。……湊くん」
十月十五日、彼女が真の自由を手にするその日まで、あと百数十日。
ルールと計算だけで繋がっていたはずの二人の生活は、少しずつ互いを必要とする形へ変わり始めていた。
*
数時間後。隣町のファミレス。
昼食時で賑わう店内に、阿久津湊の張りのある声が響いていた。
「いらっしゃいませ! 空いているお好きな席へどうぞ!」
カランカラン、とチャイムが鳴る。
条件反射のように顔を上げた湊は、次の瞬間、自分の判断の速さに違和感を覚えた。
なぜ、客の中から彼女だけを探したのか。
答えは出さず、湊はいつもの営業スマイルを作った。
(……詩織か)
だが、今の自分は彼女の同居人でも、湊くんと呼ばれる相手でもない。
ここでは、時給一千五十円で働く一人の店員だ。
湊は一度だけ息を整え、いつもの接客用の表情を作った。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
その声を聞いた瞬間、詩織は目を瞬かせた。
家で見る湊とは違う。
冷たい言葉を使うこともなく、客には自然な笑顔を向け、迷いなく店内を動いている。
知らない場所で、知らない顔をする湊を見て、詩織は初めて気づいた。
彼は、いつも自分の前で見せている姿だけがすべてではないのだと。
*
夜。自宅の玄関で、重い鍵がガチャリと音を立てて閉まる。
湊はドアに背中を預けたまま、まるで糸が切れたようにその場にずるずると座り込んだ。ネクタイを乱暴に緩め、深くため息を吐き出す。
「……さすがに、今日は疲れたな」
その独り言を聞き逃さず、リビングからそっと顔を出した詩織は、彼のただならぬ様子に息を呑んだ。
外で完璧な「店員」を演じるために、彼がどれほどの神経をすり減らしているのか。今の彼女には、痛いほど分かっていた。
「お疲れ様。……湊くん。お茶、淹れるね。少し休んで」
湊は顔を上げ、心配そうに見つめてくる詩織を見た。そこにはもう営業用の笑顔もなく、十七歳の少年の素顔があった。
「……来てたなら言えよ。ドアを開けた瞬間に分かっただろ。まったく、心臓に悪い」
「あ、やっぱり分かってたんですね。だって、あんまりにも完璧に笑うから、本当に知らない人かと思っちゃった」
「仕事だからな。でも、お前にあの顔を見られるのは、やっぱりかなり調子が狂う」
湊は照れくさそうに頭を掻き、詩織と共にリビングのソファへと腰を下ろした。
「さて、座ろうか。昨日の続きの、話をしよう」
湊はローテーブルの上に、一冊の分厚いノートを広げた。そこには一円単位の資産管理と、二人の生存のためのスケジュールが並んでいる。
「お前をここに置くって決めたのは、俺だ。……でも、隠さず言う。俺一人でこの生活を完璧に管理し切るの、もう限界だ。昨日からずっと、どうあがいても計算が合わない」
その言葉に、詩織の細い指先が、自分のマグカップの縁を幾度も撫でた。
「……それ、私が触っても、いいものなんですか」
「は?」
「だって……湊くん、それ、今まで絶対に誰にも触らせなかったから」
その瞬間、湊の喉の奥が詰まった。
家計簿、スケジュール、合意事項。
それらは、湊にとってただの記録ではなかった。
これまで誰にも触れさせなかった、自分だけの領域。
詩織にノートを渡すという行為が、なぜか金額以上に重く感じられた。
「……矢島先生の定期点検も、お前の十八歳の誕生日までの日割り計算も、生活費の割り立ても」
湊は、テーブルの上に置かれた分厚いノートに一度だけ視線を落とした。
「……もう、俺一人じゃ処理しきれない」
絞り出すような呟きと共に、彼はそのノートを詩織のほうへ、ほんの数センチだけ押しやった。
「今までは、俺が全部決めていた。生活費の割り立ても、予定も、お前の安全も……全部、俺の計算だけで回そうとしていた」
少しだけ間を置いて、湊はごくりと喉を鳴らす。視線はノートの端に落ちたまま、微かに声を硬くした。
「……でも、それじゃ駄目だったんだ。俺一人で抱え込んで、勝手にお前を守っているつもりになって……結果的に、お前をずっと不安にさせていた」
そこで一度言葉を切り、彼はテーブルの木目を睨みつけるようにして息を吐き出す。気恥ずかしさと、それを誤魔化すための不器用な決意が、その背中全体に滲んでいた。
「だから、これからは一緒に考える。ルールも、リスクも、お前の父親の件も全部だ」
湊は顔を上げず、ただ真っ直ぐに、自分の計算を狂わせた張本人を見据えた。
「……半分持て」
それはあまりに直球な要求だった。
けれど、その不器用な言葉の裏側に潜む、彼女を一人にしないという必死な熱を、詩織は痛いほどに感じ取っていた。
ノートの表紙に、震える詩織の手がそっと伸びる。
「……私、間違えるかもしれません。湊くんみたいに、うまくは……できないかも」
「……迷惑、かもしれないです」
「今さらだろ」
間髪入れずに返ってきたその一言に、詩織は目を大きく瞬かせた。
昨夜、あの暗がりの中で彼の手に触れた小指の先が、思い出されたように熱く疼く。
「……うん。私、二人分、ちゃんとする。お父さんのことも、もう逃げないで、自分で終わらせる」
その答えに、湊は全身の力が抜けるような深い息を吐き出した。
ずっと張り詰めていた糸が、ようやく正しい場所できつく結ばれたかのように。
「……よし。それなら今夜から、正式な契約成立だ。……それと、皿洗いだ」
「え?」
「お前、まだ水を出しっぱなしにする癖がある。今日から俺が横で見てやる」
「それって、結局一緒にキッチンに立つってことじゃ……」
「うるさい。泡残すなよ」
湊はそっぽを向いたまま、耳の先をほんのりと赤く染めて立ち上がり、キッチンへと向かった。
完璧な効率を信奉していた彼が、自ら進んで非効率な共同作業を提案している。その不器用な照れ隠しに、詩織の胸の奥で温もりが弾けた。
キッチンから、勢いよく水の流れる音が聞こえてくる。
「ほら、また出しっぱなしにするなって」
「今、止めました!」
静まり返った部屋に響く他愛ない小競り合い。
湊は呆れたように息を吐きながらも、その口元はどうしても隠しきれずに緩んでいた。
「……ねえ、湊くん」
「なんだよ」
キッチンで濡れた食器を丁寧に拭きながら、湊は振り返らずに返事をする。
「私って……最初、湊くんに雇われたんですよね」
「……まあ、そうだな」
「掃除とか、洗濯とか、皿洗いとか。私の生活を保証する代わりに、湊くんの生活を手伝うって……」
「ああ」
あの日、繁華街の冷たい隅で差し出された言葉。
『黙って、俺に雇われろ』
あの時はそれが唯一の救いだった。けれど、今は。
「……なんだか、変ですね。最初は、ただのお仕事だったはずなのに」
「何がだ」
「今はこうして一緒にご飯を食べて、一緒に買い物して、一緒に家のことを悩んで……もう、家事をする人と雇う人、なんて関係じゃないですよね」
湊は少しだけ黙り込んだ。頭の中で最適な返答を計算している顔。
けれど、以前なら瞬時に返ってきたはずの理路整然とした答えが、なぜか今回はなかなか出てこなかった。
「……そうだな。もう共同生活者だろ」
「……共同生活者、ですか?」
「何だ。その言い方が不満か」
「……そこは、恋人とかじゃないんですか?」
「……」
湊の手が止まった。返事はない。ただ、食器に向かっていた背中が、わずかにこわばる。
(……問題はそこか)
――それはもう、とっくに確認済みの事実だった。
彼女の予定を先に確認するのが当たり前になっていた。
体調が悪そうなら、その日の予定を組み直している自分がいた。
笑っているだけで、なぜか安心している自分がいた。
……認めたくはないが、もう十分すぎるほど答えは出ている。
だが。
「……その言葉は、少し待て」
「え?」
「いや……違う。拒否という意味ではない」
「……はい?」
言った本人である俺が、一番混乱していた。
論理的であるはずの思考回路が、勝手に暴走している。
今の発言を、もし客観的な第三者が耳にしたら、どう解釈するだろうか。
おそらく。
いや、間違いなく。
――今まさに、都合の良い理屈をこねくり回して告白を保留しようとしている、最高に格好のつかない男にしか聞こえないだろう。
「恋人という名称には、その……」
「その?」
「……一定の重みと、責任が伴う」
「責任、ですか」
「そうだ。名前が変われば、関係性の定義が書き換わる。そうなれば、今まで通りに保ってきたはずの距離や、互いの安全圏を維持できなくなる可能性が高い」
「……」
詩織は黙って俺を見上げる。
その、すべてを見透かしたような、それでいてどこか優しい瞳が、なぜかひどく痛かった。
「だから、その……安易に受け入れるのではなく、多角的な視点から慎重に判断する必要が――」
「湊くん」
「なんだ」
「それ……」
詩織は、わずかに困ったような、けれどどうしようもなく愛おしそうな笑みを浮かべた。
「もう、とっくに付き合っている人が言うことじゃないですか」
「違う」
反射的に、致命的なまでの速度で否定した。
「違わないと思いますけど」
「違う。俺の中では、脳内での正式な合意形成と、相互確認の手続きがまだ完了していない」
「手続き……?」
「……」
しまった。
また最悪な方向へ論理が脱線した。
「いや、その……一般社会の通念としてだな、こういう重大な事項には、それ相応のステップやプロセスというものがあるだろ」
「ステップ、ですか」
「そうだ。例えば、明確な意思表示の機会とか、お互いの覚悟を可視化する儀式……告白とか」
「……告白してくれるんですか?」
「……」
自分で口にしてしまった瞬間、湊の動きが完全にフリーズした。
耳の端から首筋にかけてが、一気に朱に染まっていく。
「恥ずかしくて言葉にするのを先延ばしにしているだけでは……?」
「違う。論理的かつ構造的な問題だ」
「どこがですか?」
「……俺が、その言葉を軽々しく扱う人間だと思われたくない」
ふっと、詩織の表情から冗談めいた色が消えた。
詩織は目を丸くし、それから数秒間の静寂のあと、こらえきれなくなったように小さく噴き出した。
「湊くん」
「なんだよ」
「今の言い訳、十分すぎるほど告白になってますよ」
「……」
「だって」
彼女は細い指を一本、ぴくりと立てた。
「もう、私がいることを前提に毎日を考えてるじゃないですか」
もう一本、指が増える。
「私が笑っていると、無意識に安心している」
さらに一本。
「私が困りそうになると、頼まれてもいないのに一緒に悩んで、最善のルートを計算し始めている」
そして、最後の一本。
「それなのに、『恋人になるかは慎重に判断します』なんて言われても……」
詩織はクスリと首を傾げてみせる。
「もう自分から答えを全部バラしているようにしか聞こえません」
「……っ」
反論の材料を探す。
いつものように、完璧で隙のない論理的な反証を脳内で組み立てようとする。
だが――
今回は、なぜか一言も言葉が出てこなかった。
なぜなら、彼女の言っていることを否定し得るだけの客観的証拠が、自分の内側のどこをどう探しても、一塵たりとも存在しなかったからだ。
「……それでも、だな」
最後のプライドという名の防壁にしがみつき、掠れた声を絞り出す。
「形式的な、最終確認は必要だ」
「確認?」
「ああ」
「何を今さら確認するんですか?」
「……」
湊はバツが悪そうに、フイと綺麗に視線を逸らした。
「……気付いたら、全部の判断基準にお前が入っていた」
「もう、とっくに確認済みじゃないですか」
「……」
「だって、湊くん」
詩織はほんの少しだけ身を乗り出し、からかうように目を細めた。
「私以外の人に、そんなに分かりやすく動揺した顔、見せたことないですよね」
その、逃げ場のない一言で、湊の脳内の全思考システムが完全にクラッシュした。
「……」
「違いますか?」
「……ただいま、論理的な反論材料を全力で検索中だ」
「またそれですか」
「非常に重要な作業だ」
「あと何秒かかります?」
「……」
「答えが出ないなら、もう自分で分かっているって認めているようなものですよ」
湊は、ぐっと言葉に詰まった。
これ以上あがいても無駄だと悟ったのか、彼は観念したように、ふう、と長く息を吐き出す。
「……本当に、お前は時々、俺が人生かけて積み上げてきたすべての計算を、一瞬で無意味にするな」
「それ、褒めてます?」
「……最大級の賛辞として受け取っておけ」
「全然嬉しくないです」
「そうかよ」
口ではぶっきらぼうにそう返しながら、見上げた彼の耳の付け根は、隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。
詩織がこちらを見て、小さく笑った理由が分からない。
いや、分かっている。
分かっているからこそ、認めるわけにはいかなかった。
どうやら俺の身体は、俺より先に答えを出しているらしい。




