第6話:空っぽの部屋と、二人分の居場所
土曜日の朝。
雲一つない青空は、残酷なほどに高く、透き通っていた。
住宅街を抜けた先、駅から離れた場所に建つその木造アパートは、まるで時の流れに取り残された残骸のようだった。築数十年。剥げかけた外壁の塗装や、錆びついた手すりが、朝日を浴びてかえってそのみすぼらしさを強調している。
階段を上るたび、鉄の軋む音が静かな住宅街に響く。
二階の突き当たり、詩織が住んでいたはずの部屋。その玄関の前に立った瞬間、隣に立つ彼女の体が微かに強張るのがわかった。
「……開けるぞ」
俺の声に対し、詩織は返事をする代わりに、俺のシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
鍵を差し込み、回す。カチリ、という無機質な音が、終わりの合図のように聞こえた。
ドアを開けた瞬間、冷たく湿った空気が顔を叩いた。
ツンとしたカビの匂い。長期間換気されていない、生活の熱を失った澱んだ空気。
電気の止められた室内は、窓から差し込む朝日の筋が、浮遊するホコリをキラキラと浮かび上がらせている。
シンクには、いつから放置されているのかもわからない、汚れの付着した皿。
ホコリの積まったフローリング。
数日前まで、彼女はここで一人、飢えと寒さに耐えながら、帰ってこない父親を待っていた。
その事実が、形となって迫ってくる。
「……阿久津くん。わざわざ、ごめんね。こんなところに」
詩織の声は、今にも消えてしまいそうだった。
「気にすんな。休日の早朝なら、大家や近所の目につくリスクも低い。……さっさと済ませるぞ」
俺は、親のクローゼットの奥に眠っていた、巨大な黒いスーツケースを玄関の床に置いた。
海外旅行用。かつて俺の親が、まだ笑って暮らしていた頃に使っていた代物だ。
ジッパーを下ろす金属音が、静まり返った部屋にやけに大きく、暴力的に響く。
「……悪い。時間はあまりないんだ。身分証と、学校で使うもの。……あとは、お前が本当に、それがないと明日から笑えないと思うものだけ詰めろ。……それ以外は、俺がなんとかするから」
「……うん」
詩織は靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋の中へ入っていった。
自分の家だったはずの場所に、まるで壊れ物に触れるような足取りで進んでいく。
俺は玄関の板間に立ったまま、その動向を監視した。
リスク管理だ。彼女が感傷に浸りすぎて、無駄な時間を食うのを防がなければならない。
奥の部屋で、詩織がチェストを開けた。
衣類が取り出され、スーツケースの広大な空間に投げ込まれていく。
だが、その様子を見ていて、俺は思わず眉をひそめた。
色褪せた数着のTシャツ。毛玉の目立つカーディガン。
学校指定のジャージ。
それ以外、何も出てこない。
17歳の女子高生が持っているはずの、おしゃれな服も、アクセサリーも、雑誌の一冊すらそこにはなかった。引き出しの中は、驚くほどスカスカだった。
(……これだけかよ)
胸の奥が、ざらりと粟立つ。
親父が姿を消すずっと前から、こいつの生活は崩壊していたのだ。
彼女は、何もない空っぽの箱の中で、ただ息をするだけで精一杯だった。
ふと、詩織の動きが止まった。
彼女は、学習机の引き出しの奥から取り出した「何か」を、両手で包み込むように握りしめていた。
そのまま動かなくなり、背中が小刻みに震え始める。
俺は無言で歩み寄り、彼女の手元を覗き込んだ。
それは、ファンシーショップのワゴンセールで売っているような、数百円の安っぽいプラスチックのボールペンだった。
ピンク色の塗装は剥げ、インクはとうに切れているのか、ペン先は茶色く変色している。
「……お父さん、が……」
ポツリと、詩織の口から掠れた声が漏れた。
「中学生の時……誕生日に買ってくれたの。……ごめんな、高いもの買ってやれなくてって、笑って……。これ一本だけ、おめでとうって」
ボタッ、と。
大粒の雫が、ホコリを被った机に落ちて、黒いシミを作った。
「お父さんは、私を愛してくれてたのに。……一生懸命、育てようとしてくれてたのに。……私が、重荷だったから。私にご飯を食べさせるのが、限界になっちゃったから……だから、逃げちゃったんだ。私がいなければ、お父さんは今もどこかで、普通に暮らせてたはずなのに……っ!」
両手で顔を覆い、彼女はその場にへたり込んだ。
古い床板が、ギィと悲鳴のような軋み声を上げる。
愛していたから、逃げた。
自分がいたから、親の心を壊した。
それが、彼女がこの数日間、この暗闇の中で自分自身にかけてきた「呪い」の正体だった。
過去の断片を握りしめ、自分を害獣のように責め立てる。
「…………」
俺は、冷え切った目で、この空っぽの部屋を見回した。
親の責任。生活の重圧。
そんなものは、俺だって骨の髄まで味わっている。中二の夏、両親を一度に失ったあの日から、俺はたった一人で「日常」という戦場に立ってきた。
逃げ出したい夜なんて、それこそ星の数ほどあった。
すべてを放り出して、どこか遠くへ消えてしまえば、どれほど楽だろうと考えた。
だからこそ、俺はこの場で彼女を慰める気にはなれなかった。
甘い言葉で過去を肯定することは、彼女をこの地獄に縛り付け続けることと同義だ。
「……愛情があったなら、なおさらアイツは最低のクズだ」
冷徹に言い放った言葉に、詩織が弾かれたように顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、俺を捉える。
「……アイツはお前を食わせることから逃げて、あんな場所(繁華街)に放り出した。……それだけで十分だろ。それ以上の事実はどこにもない」
俺は、彼女の手からその古いペンを、力ずくで奪い取った。
「愛情なんて言葉で、アイツを許してやる必要なんてない。……自分の犯した失敗を子供に押し付けて逃げる奴を、親なんて呼ぶな」
何の躊躇いもなく、俺はそれを部屋の隅のゴミ箱へ投げ捨てた。
カラン、という乾いた音が、静かな室内で虚しく鳴った。
「あっ……」
「……勝手に自分の居場所を汚すな。ここには、そんなゴミは必要ないんだよ」
詩織は、ゴミ箱と俺の顔を交互に見比べ、小さく唇を震わせていた。
悲しみでも、怒りでもない。
自分が後生大事に抱えていた「呪い」を、目の前の少年が土足で踏みつけ、粉砕したことへの困惑。
俺はわざと目を逸らし、玄関に置いたままのスーツケースを引き寄せた。
「……でも、この部屋……大家さんに迷惑が……。残った荷物とか、家賃とか、どうすれば……」
「アホか。未成年のお前には、何の法的責任もない」
「え……?」
「未払いの家賃も、この粗大ゴミの処分費用も、全部名義人のあいつが背負う借金だ。大家が警察に泣きついても、俺が昨日『生活は保障してる』って先手を打ってあるから、警察は動かない」
俺は、彼女が先ほど取り出した、毛玉だらけのカーディガンを指差した。
「……そんな荷物、全部持っていく必要はない。生活に必要なもの以外は置いていけ。……行くぞ。大人の作ったルールをフル活用して、このゴミ溜めから逃げ切る。……それとも、まだここにいたいか?」
詩織は、もう一度だけ、空っぽの部屋を見渡した。
そして、強く、首を振った。
俺はスーツケースの取っ手を、力任せに彼女の手へ押し付けた。
「……湊くん」
「……なんだよ」
「……ありがとう。私、頑張るね。……湊くんが守ってくれたこの場所で、ちゃんと、胸を張って生きていけるように」
顔を上げた彼女の表情から、絶望の影は消えていた。
まだ目元は赤いけれど、その奥に宿った光は、昨日までとは明らかに違う強さを持っていた。
俺たちは、最低限の身分証と学校の制服だけを詰め込み、玄関のドアを閉めた。
鍵はポストに放り込んだ。
もう二度と、この場所に戻ってくることはない。
◇
大通りに出て、俺は迷わずタクシーを拾った。
休日、早朝の国道。
乗り込んだ車内は、あのカビ臭いアパートとは違い、無機質で清潔な芳香剤の匂いがした。
「……タクシーなんて、よかったの? 高いんじゃ……」
隣に座った詩織が、窓の外を流れるメーターの数字を気にしながら小声で聞いてくる。
「荷物抱えてウロウロして、補導でもされたら元も子もないだろ。無用な接触を避けるためのコストだ。……これくらい、予算内だよ」
窓の外を流れる景色。
古びた住宅街、閉まったままのシャッター通り、そして次第にひらけていく大通り。
だが、俺の心臓は、いまだにアパートのあの空っぽの部屋を思い出して、嫌な動悸を繰り返していた。
(……あんな場所に、一人でいたのかよ。俺は、本当にこいつを守りきれるのか?)
電気もガスも止まった、あの冷え切った静寂。
もし俺が声をかけなければ。もし俺が、あの喫茶店に連れ込んでいなければ。
今頃、詩織は――。
想像しただけで、指先が氷のように冷たくなる。
余裕ぶったことを自分に言い聞かせてきたけれど。
俺が今日あのアパートから連れ出してきたのは、そんな俺の都合のいい理屈で片付けられるような存在じゃない。
一歩間違えれば、この世界から消えていたかもしれない、あまりに脆い一人の女の子だ。
俺だって、あの父親と大差ない。
ただ、今はまだ、両親が残してくれたものに守られているだけだ。
十五分後、タクシーは俺の家の前に止まった。
巨大なスーツケースを路面に降ろし、門扉を開ける。
「……ただいま、湊くん」
俺の横を通り過ぎる時、詩織が小さく、けれど確かな声で言った。
「……ああ。……ほら、早く中に入れ。朝はまだ冷えるだろ。……近所に見られても面倒だしな」
俺はあえて顔を合わせずに返し、彼女の全財産が詰まった重いスーツケースを玄関へと運び入れた。
上がりかまちに、俺の靴と、詩織の靴が二足並ぶ。
カチリ、と。二重に鍵をかける。
世界を拒絶するように、俺は金属の閂を閉じた。
リビングに入ると、詩織は慣れない手つきで、スーツケースから中身を取り出し始めた。
「……湊くん。これ、どこに置けばいいかな?」
差し出されたのは、彼女の学校指定のジャージ。
俺は、リビングの片隅にある、備え付けの収納棚を指差した。
「そこ、一段空けておいた。……好きに使え。……一応、ここにいる間は、そこがお前の場所だ」
「……私の、場所。……ふふっ、ありがとう。大事にするね」
詩織は、丁寧にジャージを畳んで棚に収めた。
教科書、数少ない私物、そして、あのボロボロのカーディガン。
彼女の存在が、俺が三年間かけて築き上げてきた「完璧な孤独」を、じわじわと侵食していく。
俺はダイニングの椅子に深く腰を下ろし、いつもの大学ノートを開いた。
『資産・維持管理簿』。
そこには、一円の狂いもなく並んだ、俺が生き残るための数字の羅列がある。
(……愛情なんて言葉で、許してやる必要はない)
さっきアパートで言い放った自分の言葉が、耳の奥で虚しく反響した。
かっこいいことを言ったつもりだった。
絶望していた彼女を、無理やり前へと引っ張り出すためには、あれしかなかった。
でも、ペンを握る指先が、まだわずかに震えている。
アパートのあのカビ臭い空気。詩織が流した、あの大粒の涙。
それを「コスト」や「ルール」という言葉で塗りつぶそうとした俺は、結局、あの父親と同じように、目の前の巨大な責任から目を逸らしているだけなんじゃないのか。
「……湊くん? ピーマン、細切りでいい?」
「……ああ。……好きにしろ」
キッチンから聞こえる返事をする声が、自分でも驚くほど低くて、頼りなかった。
トントン、という包丁の音。
ごま油の香ばしい匂い。
一人の時は、ただ「飢えを凌ぐための作業」だった食事が、今は猛烈なプレッシャーとなって俺の胃を締め付ける。
この生活を維持しなければならない。
彼女が、この場所で「生きていていいんだ」と思い続けられる場所を、俺が死守しなければならない。
それがどれほど困難なことか。
大人の社会の目は、冷たい。
いずれ、学校にバレる。
近所に怪しまれる。
その時、俺のこの生活は、一瞬で崩壊するだろう。
(……守り抜く、なんて……)
俺は、ノートの余白をペン先で強く突いた。
二人分の生活。警察の目。児相の介入。
そして、俺の背後に立つ、この壊れそうなほど細い肩をした同居人。
計算式は、すでに俺の手には負えないほど複雑に膨れ上がっている。
俺は、自分の顔が急激に熱くなるのを感じて、開いたばかりのノートをバタンと閉じた。
「……湊くん? 顔、赤いよ? 大丈夫?」
いつの間にか背後に立っていた詩織が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「……うるさい。火加減に集中しろ。……焦がしたら、その分お前の給料から引くからな」
「もうっ、そればっかり! ちゃんと見てるよ!」
ぷりぷりと怒りながらキッチンへと戻る詩織。
その声を背中で聞きながら、俺は冷たいダイニングテーブルに額を押し当てた。
防衛戦、なんて。
かっこいい名前をつけて自分を騙しているのは、俺の方だった。
俺はただ、誰かに頼られることで、自分の存在価値を確かめたいだけの、臆病なガキだ。
それでも。
キッチンから漂ってくる、あの「家の匂い」。
かつて母が作ってくれたのと同じ、アプリコットとごま油が混ざり合った、歪で、けれど温かな匂い。
それがある限り、俺はこの不格好な生活を、明日も動かし続けなければならない。
窓から差し込む朝日は、昨日よりも少しだけ、明るく感じられた。




