第5話(閑話):大きすぎるTシャツと、不器用な優しさ
真っ暗な客間。
天井の木目すら見えない闇の中で、私は一人、布団にくるまっていた 。
静かだ 。
外を走る車の音も、酔っ払いの笑い声も、大音量で流れる繁華街のネオンの音も、ここには届かない 。
聞こえるのは、一定のペースで微かに唸る冷蔵庫の音と、自分の規則正しい呼吸の音だけ 。
「……んっ」
寝返りを打つと、首元に触れた布地から、ふわりと良い香りがした 。
レモンのような柑橘の鋭い爽やかさと、ハーブの青っぽさが混ざった、ツンと澄み切ったヴァーベナの石鹸の香り 。
生活の無駄を徹底して嫌う彼が、こんな海外製の高級ギフトみたいなものを自分で買うはずがない 。
きっとご両親の遺したお歳暮か何かを、無駄にしないために使っているのだろう 。
その冷たくて理性的な香りの奥深くに、ほんの少しだけ「男の子」の熱い体温の匂いが隠れている 。
その一方で 。
私の濡れた髪からは、美容室で使われるような、アプリコットとジャスミンの甘くて優しい香りがした 。
指通りは滑らかで、明らかに少し高価なボタニカルシャンプーだ 。
固形石鹸はタダでもらった高級品で済ませる彼が、数ヶ月に一度は詰め替え用を買わなければならないシャンプーに、わざわざこんな「女の人」が好むような高いものを選んでいる 。
理由は、考えるまでもなかった 。
きっと、彼のお母さんが生前に使っていたのと同じものなのだ 。
日々の支出は極限まで管理しても、お母さんが遺した『この家の匂い』だけは、どうしても変えたくなかったのだろう 。
冷徹に計算を弾く彼の、あまりに不器用で、子供みたいな「執着」 。
「……ふふっ」
誰もいない部屋の中で、小さな笑い声が漏れた 。
と同時に、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように痛くなった 。
甘いアプリコットと、鋭いヴァーベナ 。
彼のお母さんの匂いと、今の彼自身の匂い 。
二つの香りが混ざり合うこの場所が、今の私には、世界中のどんな頑丈な鎧よりも暖かくて、安心できるものだった 。
阿久津くんから借りた、真っ白なTシャツ 。
私には大きすぎて、肩のラインはずり落ちるし、裾は太ももまですっぽり隠れてしまう 。
布団を顎の辺りまで引き上げ、その匂いを胸いっぱいに吸い込む 。
それだけで、凍りついていた心臓の奥が、じんわりと溶けていくのがわかった 。
「……私、何やってるんだろ……」
恥ずかしくて、両手で顔を覆う 。
自分の頬が、異常なほど熱を持っていた 。
つい二日前まで、こんな感情を取り戻せるなんて、思ってもみなかった 。
目を閉じると、真っ暗な視界の裏側に、あの「地獄」がフラッシュバックする 。
ある日突然、お父さんが帰ってこなくなった 。
冷蔵庫の中身が空になり、ついに電気が止められた夜 。
真っ暗なアパートの部屋で、膝を抱えていた時の、あの骨まで凍るような寒さ 。
空っぽの胃袋が悲鳴を上げて痙攣し、黄色い胃液だけをトイレに吐き戻した時の、あの喉を焼くような痛み 。
学校の友達に「お父さんに捨てられた」なんて言えるわけがなかった 。
外界との繋がりがすべて絶たれた時、私は自分が、社会から切り離された『ゴミ』になったのだと悟った 。
だから、フラフラの足で夕暮れの繁華街に出た 。
『高収入・即日支給』
『特別な夜を、あなたと。未経験大歓迎』
雑居ビルの隙間 。
薄汚れた掲示板に貼られた、毒々しい原色の紙切れ 。
それがあの日街で何を意味するのか、高校生の私でもわかっていた 。
あそこに連絡すれば、私はもう、今まで生きてきた「普通」の場所には戻れなくなる 。
頭ではわかっているのに、限界まで飢えた身体は、それを拒否できなかった 。
どうせ私は捨てられたゴミなのだから、誰にどう使い捨てられようと、もう同じだ 。
そう思って、震える右手を、その紙切れへ伸ばした 。
私が、自分自身の人生を終わらせようとした、その瞬間だった 。
『……おい』
地を這うような、低い声 。
紙の端に触れる寸前で、私の指はビクンと止まった 。
ゆっくりと振り返ると、クラスメイトの阿久津くんが立っていた 。
いつも後ろの席で、誰とも群れず、一人でノートに何かを書き込んでいる、地味な男の子 。
その彼が、見たこともないほど険しい目で、私を睨みつけていた 。
『何見てんだ、お前』
その言葉と一緒に、私の手首が強い力で引かれた 。
驚くほど細いはずの彼の指は、枯れ枝みたいになっていた私の腕を、絶対に逃がさないという執念みたいに、痛いほど強く握りしめていた 。
そのまま強引に連れ込まれた、古い喫茶店 。
冷房の効いた店内で、彼は私の惨めな言い訳や、父親がいなくなったという絶望を、黙って聞いてくれた 。
同情なんかじゃなかった 。哀れみでもなかった 。
ただ、私が抱えている「明日死ぬかもしれない」という恐怖の正体を、彼だけは、彼自身の痛みのように理解しているような気がした 。
『怪しい広告に縋る暇があるなら――』
伝票をひったくり、彼は私を見下ろして言った 。
『黙って、俺に雇われろ』
……あの日、あの喫茶店で 。
彼のその乱暴な言葉が、私の世界の色を塗り替えた 。
連れてこられた、古びた一軒家 。
そこで出された、栄養価と保存性を計算し尽くされた豚肉と野菜の炒め物 。
口に入れた瞬間に広がった、暴力的なまでの塩気と旨味 。
飲み込んだ熱いご飯が、胃に落ちていく感覚 。
私は生きている 。
彼が、私に「生きていい」と教えてくれた 。
「……阿久津、くん……」
暗闇の中で、そっとその名前を呟いてみる 。
警察署で、彼が吐いた嘘 。
「婚約者なんです」と言い切った彼の横顔を、私は一生忘れないだろう 。
大人の理不尽から私を守るために、彼は自分の自由と、守り抜いてきた「城」を危険に晒してまで、私とのつながりを証明してくれた 。
カウンターの下で、彼の手を握った時のこと 。
彼の指先は、ひんやりと冷たくて、微かに震えていた 。
でも、その震えが、私には何よりも心強かった 。
彼も怖いのに、私のために一緒に戦ってくれているのだとわかったから 。
『お前はゴミじゃない。俺が三年かけて必死に守ってきたこの『城』を、明日も動かし続けるために……必要な役割を担ってもらう……だから、勝手に自分の価値を下げるな。……俺の計算を、お前が自分で狂わせるな』
先ほど、リビングで彼が怒鳴るように言った言葉 。
思い出すだけで、目頭が熱くなり、視界がぼやけてくる 。
普通なら、傷ついている女の子に向かって「役割を担ってもらう」なんて言葉を選ぶなんて、優しさとは程遠い。ロマンチックの欠片もない。
でも、彼がどれだけ自分の「生活」に執着し、大人たちの干渉を弾くための完璧な管理に命を懸けているかを知っている私にとって、それは世界で一番、重くて、優しくて、愛おしい言葉だった。
「……私の、価値……」
Tシャツの胸のあたりを、ぎゅっと握りしめる 。
私はもう、捨てられたゴミじゃない 。
彼が、自分の明日を繋ぐために、私を「必要だ」と言ってくれた 。
彼の緻密な計算式の中に、私の居場所を作ってくれた 。
その事実が、私の中で消えかけていた小さな火種に、もう一度、熱い炎を灯してくれた 。
ふと、壁の向こうから微かな音が聞こえた 。
軋む椅子の音 。
そして、カリカリという、ペンが紙を走る乾いた音 。
時折、「……はぁ」という、深く、疲れ切ったため息が漏れる 。
阿久津くんだ 。
彼はまだ、あのダイニングテーブルで、明日からの二人分の生活と、大人たちを欺くための防衛線を、一人で必死に組み直しているんだ 。
昨日の夜から一睡もしていないのに 。
私のために、ずっと、ずっと戦い続けてくれている 。
壁一枚隔てた向こう側に、彼がいる 。
その確かな気配を感じるだけで、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように苦しくなって、でも、どうしようもなく甘い気持ちになる 。
『……うるさい。……さっさと寝ろ。明日は買い物だ。六時半には出るからな』
彼の、わざとぶっきらぼうに突き放すような言い方 。
本当は照れ隠しだってこと、私にはもうバレバレなのに 。
茹でダコみたいに真っ赤になっていた彼の耳を思い出すと、布団の中で、また自然と笑みがこぼれた 。
私、一週間ぶりに、こんなにたくさん笑ってる 。
「……六時半、か」
私は枕元に置いたスマートフォンを手繰り寄せた 。
充電器に繋がれた画面が、暗闇の中で白く光る 。
私は、アラームの設定画面を開いた 。
そして、六時半という数字を消し、代わりに『五時半』と入力する 。
阿久津くんは、私を「雇用」したと言った 。
なら、私はその期待に、絶対にこたえなきゃいけない 。
彼が起きる前に、私が朝ご飯を作る 。
料理なんて、お母さんが生きていた頃に少し手伝ったくらいで、得意じゃないけれど 。
でも、冷蔵庫の中にある完璧に管理された食材で、彼がびっくりするくらい美味しいものを作ってみせる 。
彼が、私を拾ってよかったと、心から思ってくれるように 。
これは、私なりの、小さな恩返し 。
そして、彼の隣に立つための、最初の反撃だ 。
「……おやすみ。湊くん」
声に出さずに、口パクだけでそう呟いた 。
壁の向こうの不器用な雇い主さんへ 。
今はまだ、大きすぎるこのTシャツを 。
いつか、胸を張って着られるように、私、頑張るから 。
スマホの画面を閉じると、再び完全な闇が訪れる 。
でも、もう寒くなかった 。
微かなアプリコットとヴァーベナの匂い、そして彼がくれた不器用な言葉の余韻に包まれながら、私は深く、安らかな眠りの中へと落ちていった 。




