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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第4話:嘘の残り香

 門扉を閉め、玄関の鍵を二重にかける。

 カチリ、という正確な金属音が、夜の住宅街の静寂に響いた。


 ようやく、俺の「城」に戻ってきた。

 警察署での、あの吐き気がするような空気。自分たちを値踏みし、規則という定規で測ろうとする大人の視線。そして――。


「……っ」


 思い出しただけで、耳の裏がじりじりと熱くなる。

 あんな場所で、クラスの同級生を相手に「婚約者だ」なんて。


 アドレナリンが引くと同時に、猛烈な羞恥心が遅効性の毒みたいに全身へ回ってきた。指先が微かに震え、制服のボタンを外すのにも手間取る。この「嘘」の対価は、俺の残り少ない自尊心だった。


「……阿久津くん。あの、お疲れ様。……本当に、ありがとう」


 背後からかけられた、今にも消えてしまいそうな声。

 俺は彼女の顔を見ないように、脱いだジャケットをハンガーにかけた。わざとらしく肩のシワを伸ばし、一ミリ単位で位置を調整する。そうでもしていないと、今にも「今のなし! 全部ハッタリだから!」と叫んで逃げ出したくなりそうだった。


「……風呂、沸いてる。適当に入ってこいよ。タオルは脱衣所の棚にあるやつ、勝手に使っていいから。……あんまり長湯して、中で倒れたりすんなよ」


 ぶっきらぼうに言葉を繋ぐのが精一杯だった。そうしていないと、自分の顔がどれほど真っ赤になっているか、自覚するのが怖かったからだ。


「……湊くんも、すぐ入ってね。昨日の夜から、ずっと私のために動いてくれたんだから」


「……っ!」


 その呼び方に、心臓の鼓動が不規則に跳ねる。

 窓口で、あいつらを黙らせるために俺が強要した呼び方。

 一度口にしてしまった言葉は、消えない汚れみたいに、この家の空気にべったりと絡みついていた。


「……家の中では、普通でいいだろ。……さっさと行けよ。身体、冷えきってんだからさ」


「……うん。……ありがとう、湊くん」


 詩織は、少しだけ頬を染めて浴室へと消えていった。

 パタン、とドアが閉まる音。

 水の流れる音が聞こえ始める。


 俺はダイニングの椅子に、崩れ落ちるように腰を下ろした。

 冷たい合皮の感触が、制服のズボン越しに伝わってくる。


 死にたい。


 頭を抱え、テーブルの木目に額を押し付ける。

 婚約。遺言。家訓。

 あの時、彼女がどこの誰とも知れない施設や、あんなわけのわからない父親の元へ連れ戻されるのを止めるために、俺の脳がパニック寸前で叩き出した最高の「大嘘」。


「……俺、バカじゃねえの。何言ってんだよ、本当に……」


 後悔の波が、さっきの羞恥心をさらに塗り替えていく。

 あそこで彼女を「赤の他人」のままにしておけば、俺たちの居場所は、大人の「ルール」という巨大な重機に根こそぎ壊されていただろう。だが、その代償として、俺はこの家を「嘘の城」に変えてしまった。


 掌に残った彼女の指の、あの細くて冷たい感触が、いつまでも消えない。

 喉が渇いて、何度も空の嚥下を繰り返した。


 俺は震える手で、明日からの予定を整理しようとノートを開いた。

 中二の夏から、俺はこのノートに救われてきた。

 緻密な維持費の計算。税金の引当金。そして、親が遺した資産の残高――。


 遺産は十分にある。当面の生活に困ることはない。

 でも、それは「何も起きなければ」の話だ。


 一軒家を維持するというのは、終わりのないメンテナンスを続けることと同じだ。

 毎年の固定資産税。数年おきにガタがくる家電。もし突発的なトラブルで資産の目減りが加速すれば、親戚や児相の連中が「未成年には管理しきれない」と嬉々として介入してくる。

 俺が握りしめている「遺産」と「自由」なんて、大人の監視の目に晒されれば、一瞬で溶けて消える砂糖菓子みたいなもんだ。


 だから、俺は完璧に管理しなきゃいけない。

 一ミリの綻びもなく、この場所を「普通」に保つために。


 なのに。


 あの男――詩織の父親は、何をしていたんだ。


 警察官が口にした「家賃の滞納」という言葉。

 あれがすべてだ。


 家賃を払わず、ライフラインを止められ、腹を空かせた娘を一人置いて、どこへ消えた?

 どんな理由があろうと、それは俺にとって、この世で一番許しがたい「放り出し」だ。


 俺の両親は、もっと生きたかったはずだ。

 もっとこの家を掃除して、俺に飯を作って、この場所を、俺を、守りたかったはずなんだ。

 それを、あの男は、生きていながら全部ドブに捨てた。


 ……ふざけんなよ。


 会ったこともない他人のくせに、俺が欲しくて堪らなかった「親が生きている日常」を、当たり前のように踏みにじりやがって。


 腹の底から、黒い泥のような怒りがせり上がってくる。

 顔も知らない相手だが、自分の「守るべきもの」を放り出したその一点において、あいつは俺にとって、最低の欠陥品だ。


 だから、俺は嘘をついた。

 あんな奴に、彼女を――詩織を返すくらいなら、俺の城を嘘で塗り固めたほうが、よっぽど「正解」だ。


 浴室から聞こえるシャワーの音が、リビングに微かに響く。

 自分以外の誰かが、この屋根の下で呼吸している。

 その異物感が、俺が死守してきた「完璧な孤独」を、内側から溶かしていく。


 ……しばらくして、浴室のドアが開いた。


「……上がったよ、阿久津くん」


 リビングに戻ってきた詩織を見て、俺は一瞬、息の仕方を忘れた。


 彼女が着ているのは、俺が予備で買っておいた、なんの変哲もない白のTシャツだ。

 サイズが少し大きくて、首元から覗く鎖骨が、嫌でも彼女が「女の子」であることを、そして俺の城に踏み込んできた「他人」であることを突きつけてくる。


「……ドライヤー、洗面台の下だ。髪、ちゃんと乾かしとけよ。風邪引かれたら、明日からの予定が全部狂うんだからな」


「……うん。……ねえ、阿久津くん。……ごめんね」


 不意に、詩織が俺の隣に立ち止まった。

 椅子一つ分も離れていない距離。彼女から立ち上る湯気の温かさが、俺の皮膚をチリチリと焼く。


「……何がだよ。さっさと乾かして寝ろ」


「……私、自分のこと、もうどうでもよくなってたの。……繁華街で、あんなバイトに手を出そうとしたのも。……私なんて、誰かに使い捨てられるだけのゴミだと思ってたから」


 詩織の声が、微かに震える。


「だから、あんな嘘までつかせて、阿久津くんの生活を汚しちゃって。……本当に、申し訳なくて。私、やっぱりここにいちゃいけないんじゃ……」


 その瞬間、俺の胸の中に、説明のつかない熱い塊が込み上げた。

 俺が三年かけて、死に物狂いで守ってきた「生活」を、ゴミだなんて言葉で汚されたことへの、本能的な拒絶だった。


「……おい。顔上げろよ」


 俺は椅子から立ち上がり、彼女の目の前に立った。

 彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、恐る恐る俺を見上げた。


「……勘違いするな。俺は、お前をゴミだなんて一回も思ってないし、これからも思わない」


「……え?」


「いいか。この家の維持費に、税金。ただ息をしているだけでも、日常を回すための金と労力は削れていく。俺が親から預かった遺産は十分にあるが、俺一人で家事も金も完璧に管理し続けるのには、いつか限界が来る。少しでも生活に綻びが出れば、大人たちはそこを突いて俺の城を奪いに来るんだよ。……でもな」


 俺は、彼女の瞳を真っ向から見据えた。


「……お前がここで飯を作って、掃除をして、家の内側を完璧に管理してくれるなら、俺はその分、外の防衛――大人の目を欺くための体裁づくりや、不測の事態に備えたバイトに全力を注げる。お前がこの家の『日常』を保ってくれる時間は、俺の城を守るための『価値』があるんだよ」


 彼女が、息を呑む。


「お前はゴミじゃない。俺が三年かけて必死に守ってきたこの『城』を、明日も動かし続けるために……必要な役割を担ってもらう……だから、勝手に自分の価値を下げるな。……俺の計算を、お前が自分で狂わせるな」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。

 これは「優しさ」なんかじゃない。ただの、大人に自由を奪われることへの不安からくる理屈だ。


 でも。


 詩織の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「……っ、……あ、くつ、くん……」


「……湊だろ。外ではそう呼べって言っただろ。……家でも、それでいいよ。もう……戻れないんだからさ」


 俺は、自分の耳が火傷しそうに熱いのを感じながら、吐き捨てるように言った。


「……うん。……湊くん。……私、頑張るから。……ここで、精一杯、湊くんの役に立つから……」


 彼女が、俺の胸に額を押し当てるようにして、声を殺して泣き始めた。


 Tシャツ越しに伝わる、彼女の熱。

 俺は、その震えをどうやって止めていいか分からず、ただ空中で泳がせていた手を、そっと、彼女の背中の数センチ手前で止めた。


「……うるさい。……さっさと寝ろ。明日は買い物だ。六時半には出るからな」


「……ふふ。はい、雇い主さん」


 詩織は、涙を拭いながら、今日一番の笑顔を見せた。


 俺は立ち上がり、逃げるように浴室へ向かった。


 ◇


 深夜。リビングに戻ると、部屋の明かりは消えていた。

 隣の客間に、微かな気配がある。

 規則正しい寝息。


 俺はダイニングの椅子に座り、暗闇の中でノートを開いた。

 一人の時は、ただ「今日をどう完璧にやり過ごすか」を書き込むだけだった。


 だが、今のノートには、否応なしに他人の影が混ざり込んでいる。


「……はぁ」


 二人になった途端、どうしても数式が複雑になる。

 大人の目を欺くための、完璧で孤独な城。一人のほうが、絶対に楽だったはずだ。

 なのに、今の俺は、隣の部屋から聞こえる安らかな寝息に、どうしようもない安堵を感じていた。


 不確かな未来に、俺は初めて、計算できない胸の高鳴りを覚えた。

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