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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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3/10

第3話:婚約者

 警察署というのは、どうしてこうも肺が縮こまるような空気が漂っているんだろう。


 自動ドアが開いた瞬間に流れ込んできたのは、冷房の効きすぎた空気と、古びたワックス。そこに微かな消毒液が混ざったような、感情を一切拒絶する無機質な匂いだった。


 俺の数歩後ろをついてくる冬馬の気配が、今にも足元から溶けて消えてしまいそうなほど頼りない。彼女の指先が、俺の制服の裾を、ほんの数ミリだけ掴んでいるのがわかった。布地を通して伝わってくる指の震えが、俺の背中から心臓を直接揺さぶる。


 俺はポケットの中で、一晩かけて書き殴ったメモを握りしめた。手のひらの汗で紙がぐっしょりと湿り、文字が滲んでいく。俺の覚悟も、同じように足元から崩れ去りそうだった。


 窓口に座っていたのは、短く刈り上げた白髪混じりの警察官だった。彼は老眼鏡の縁から、一切の温度を持たない視線を俺たちに向けた。


「……はい、どうしたのかな。落とし物? それとも相談?」


 その声には、同情もなければ拒絶もない。この男にとって、俺たちは毎日処理する何十件もの事案の一つ、ただの記号に過ぎない。それがたまらなく恐ろしかった。俺たちが必死に守り抜こうとしている「この城(家)」が、大人の都合で簡単に解体されてしまう予感がした。


「……行方不明者の、相談です」


 俺は、裏返りそうになる声を無理やり喉の奥へ押し込んで、そう切り出した。


 そこからは、一分が一時間にも感じられるような、息の詰まる時間だった。警察官は、俺たちが提出した冬馬の父親の情報を、一つ一つゆっくりとパソコンに打ち込んでいく。カチ、カチ、という乾いた打鍵音が、静かなロビーにやけに冷酷に響いた。


 冬馬は、ただ顔を赤くして俯いている。微かに汚れた自分のローファーの先を、まるでそこだけが自分の居場所であるかのように、じっと見つめていた。彼女にとって、この冷え切った建物は「助け」を求める場所じゃなく、自分を施設へと連れ去る「檻」にしか見えていないんだろう。


「冬馬正幸さん……一週間前から連絡が取れない、と。……君が、娘さんの詩織さんだね?」


「……はい」


 冬馬の声は、消え入りそうだった。その一言に、彼女が一人で抱えてきた孤独のすべてが凝縮されているようで、俺の奥歯がぎりりと鳴った。


 警察官の手が、不意に止まった。彼は眼鏡を外し、俺たちの顔を品定めするように見つめた。


「……それで、詩織さん。今、君はどこで生活しているのかな。アパートの方は、家賃滞納で大家さんからも問い合わせが来ているようだけど」


 来た。心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。胃の奥が、氷水を流し込まれたみたいに一気に冷え切る。横に座る冬馬の肩が、目に見えて強張った。彼女の指が、俺の制服をさらに強く握りしめる。


「……警察としてはね、未成年の女子が一人で放置されている状況は見過ごせないんだよ。お父さんを探すのは当然だけど、まずは君の身の安全を確保しなきゃならない。児童相談所を通して、一時保護の手続きを――」


「必要ありません」


 俺は、警察官の言葉を遮った。自分でも驚くほど、ぶっきらぼうで、余裕のない声が出た。


 警察官が、不快そうに眉を寄せた。


「……君は、阿久津くんだったかな。同級生が首を突っ込んでいい話じゃないんだ。これは法と、社会のルールの問題で――」


「彼女は、俺の家にいます。俺が、生活を保障しています」


「……何だって?」


 警察官の顔から事務的な余裕が消え、冷ややかな「疑念」が浮かび上がった。その視線が、不穏な動機で女子を連れ込んだガキとして俺を裁き始める。


「君の家? 高校生の一人暮らしの家に、同級生の女子を連れ込んでいると言いたいのか? それは保護ではなく、事案として――」


「婚約者なんです」


 ロビーの空気が、一瞬で凍りついた。


 今、自分の口から出た言葉が、耳の奥で、頭の中で、何度も呪文のようにリピートされる。死にたい。今すぐ舌を噛み切って、このコンクリートの床に沈んでしまいたい。顔が、火をつけられたみたいに熱い。耳の裏がドクドクと脈打って、視界がチカチカと点滅する。自分でも何を言っているのかわからない。けれど、こう言わなければ、大人の「ルール」という名の巨大な重機に、俺たちの居場所が根こそぎ壊されてしまう。


 横で、冬馬が小さく「ひっ」と息を呑む音が聞こえた。


「……こん、やく……?」


 警察官が、呆気にとられたように口を開けた。


「……適当に言ってるわけじゃないです」


 俺は、震える膝を隠すように、カウンターの下で自分の拳を白くなるまで握りしめた。一晩かけて、自分の尊厳と引き換えに練り上げた、大嘘の防衛線を張り巡らせる。


「俺の両親は、三年前に死にました。残されたのは、あの一軒家と、俺が一人で生き抜くために残された遺産だけです。……俺の両親と、彼女の父親は、昔からの知り合いでした。……だから、あの一軒家で共に生活することは、親同士が……ずっと前から決めていたことなんです」


 我ながら、なんて陳腐で、穴だらけの嘘だろう。警察官の目は、まだ疑いに満ちている。


「……そんな話、にわかには信じられないな。君たちはまだ高校生だぞ。生活実態はどうなっている。光熱費や食事はどうしているんだ」


「俺が全部、管理してます。資産の維持記録も、修繕の履歴も、銀行の残高も。……あんたたちがマニュアル通りに彼女を施設に放り込むより、俺の家の方が、よっぽど安定した日常が維持されてる」


 俺は、カバンから一冊の、角が擦り切れた大学ノートを叩きつけるように出した。


「これを見てください。この三年間、俺がどうやって大人に頼らずこの家を守ってきたか、全部書いてあります。……冬馬をここに住ませることは、俺にとっても家事の分担という合理性がある。彼女が家の空気を守り、俺がその生活を保障する。……これは、俺たちの『家庭』の形なんです」


 警察官は、ノートをパラパラと捲り、その病的なまでに細密な資産と生活の記録に圧倒されたように沈黙した。ただの貧乏学生ではない、狂気的なまでの「自立の証明」に。


 俺は、震える自分の右手を隠すように、冬馬の左手を強引に引き寄せた。


「詩織」


「……ぁ」


「……見せてやれよ。俺たちが、どういうつもりで一緒にいるのか。……俺は、お前を放り出す気なんて、最初からない」


 冬馬は、真っ赤な顔をして、震える唇を噛み締めていた。彼女は、俺のハッタリのあまりの無茶苦茶さに、恐怖すら感じていたのかもしれない。けれど、彼女は俺の手を振り払わなかった。


 彼女は、ただ一言。


「……嘘じゃ、ありません。……私、ここにいたいです。湊と一緒に」


 そう言って、俺の手に、自分の冷たい指を絡めた。その瞬間、俺の指先に、彼女の体温が流れ込んできた。冷たいけれど、確かに生きている人間の熱。俺たちの間にあるのは嘘かもしれないけれど、この瞬間に繋いだ手の重みだけは、この部屋のどんな書類よりも本物だった。


 警察官の目が、迷うように泳いだ。

 何か言おうとして、口を閉じる。

 俺たちを子供として扱うべきなのか、それとも一人の人間として見るべきなのか、判断しかねているようだった。


 警察官は、大きくため息をついた。

 それは、規則だけでは割り切れない現実を前にした、大人の苦い沈黙だった。


「……はぁ。最近の若い奴は、何を考えているのか。……わかった。行方不明者届は受理する。……ただ、君たちの生活については、後日、学校や児相とも連携して確認させてもらう。……いいか、少しでも不適切なことがあれば、その瞬間に保護だ」


「……好きにしてください。……行くぞ、詩織」


 俺は、今にも折れそうな膝を必死に叱咤して、窓口を離れた。自動ドアを出た瞬間、肺いっぱいに吸い込んだ夜の空気は、驚くほど冷たくて、美味かった。掌に残った冬馬の手の感触が、いつまでも消えない。


 ◇


 帰り道、夕闇に包まれた住宅街。俺たちの間には、一言の会話もなかった。ただ、歩くたびに微かに触れ合う肩の距離が、昨日までとは決定的に違っていた。


 繋いだままだった冬馬の手が、不意に離れる。彼女は足を止め、街灯の鈍い光の下で俯いた。


「……阿久津くん」


「……なんだよ」


「……あの、婚約……って……」


「……ハッタリに決まってんだろ! あんなもん、言わなきゃお前、今頃どこかの施設に連れて行かれてたんだぞ!」


 俺は、彼女に顔を見られないように、早歩きで歩き出した。耳まで火傷しそうに熱いのが、自分でもわかる。警察署であの警察官の目を真っ向から見据えて「婚約者」と言い切った時よりも、今、背後をついてくる彼女の微かな衣擦れの音の方が、ずっと俺の心臓を乱していた。


 湊。詩織。


 あの無機質な窓口で、俺たちは互いの名前を呼んだ。生き延びるための、咄嗟の共犯関係。けれど、一度口にしてしまった言葉は、もう元の「阿久津くん」「冬馬さん」という距離感には戻してくれない。


「……阿久津くん。明日からの仕事、私、精一杯やるから。……追い出されないように」


「……当たり前だ。ボロが出る前に、生活基盤を徹底的に固める。警察も児相も、文句のつけようがないくらいにな」


 俺は振り返らずに、そう言い放った。それは彼女に言っているようでいて、自分自身に言い聞かせる誓いだった。


「……ふふ。はい、雇い主さん」


 背後で、冬馬が小さく笑った気配がした。それは、今日初めて彼女が見せた、湿り気のある温かな笑いだった。


 夕闇の向こう、俺たちの「家」の明かりが見えてくる。あの四角い窓の光が、今は世界のどこよりも確かな避難所シェルターに見えた。


 17歳の、嘘まみれの防衛戦。勝算なんてない。証拠なんて、全部でっち上げだ。けれど、俺たちが手を離さない限り、この嘘は、いつか本物の「日常」に変えられるのかもしれない。


 俺は、三年分の防衛の記録が詰まった学生鞄を力強く握り直し、一歩、明日へと足を踏み出した。

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