第2話:嘘つきの誓い
繁華街を抜けると、空気の質が目に見えて変わった。
肺の奥を焼くような排気ガスの臭いが遠のき、代わりに夜の湿り気を帯びた土の匂いと、どこか遠くで燃やされている枯れ葉の香ばしさが混ざり始める。
街灯のオレンジ色が、俺の数歩先を歩く冬馬詩織の背中を、頼りなく照らしていた。
彼女の歩幅は驚くほど狭い。
一歩踏み出すたびに、膝がわずかに震え、ローファーの底がアスファルトを力なく擦る。
「カツッ、カツッ」という乾いた音が、静まり返った夜の住宅街に、ひどく場違いなリズムで響いていた。
指に食い込む買い物袋の重みが、今は妙に現実的だった。
中に入っているのは、いつもの生活を維持するための洗剤と食材。
たったそれだけの荷物のはずなのに、今日はやけに重かった。
やがて、住宅街の角に立つ、少し古びた一軒家の前にたどり着いた。
俺が中二の夏から、大人たちの干渉を撥ね退け、たった一人で守り続けてきた、親の遺した「城」だ。
門扉のかんぬきを外す。
指先に伝わる冷たい鉄の感触。
力を込めると、耳障りな「キィ」という金属音が夜の空気を切り裂いた。
背後で、冬馬がびくっと肩を跳ねさせたのが、見なくても気配でわかった。
「……入れよ。段差、気をつけろな」
玄関の鍵を開け、俺は先に踏み込む。
暗がりの中で、無意識に、右足でタタキの端に溜まった砂を隅へ追いやった。
その動作が染み付いている自分に、ふと、嫌気がさす。
「……靴、そこで脱げ。そこは三和土だから、泥つけるなよ」
「あ……うん。……タタキ?」
冬馬が、靴を脱ぐ場所で不思議な生き物でも見たかのように固まっていた。
ああ、そうか。
普通の高校生は、ここをただ「玄関」と呼ぶ。
だが、この家を一人で完璧に保ち続けてきた俺にとっては、ここは雨の日に泥が溜まり、放置すればタイルの目地を傷める、死守すべき「境界」なのだ。
「……靴を脱ぐ場所だよ。そこ、三和土って言うんだ。……いいから上がれ。廊下、冷えるから」
冬馬は、まるで見えない薄氷を踏むような、危うい足取りで一段上がった。
廊下の奥からは、冷蔵庫が一定のリズムで唸る、低いコンプレッサーの音が聞こえてくる。
いつもはこの音が「正常」の証として俺を安心させるのだが、今は違う。
背後からついてくる、俺の家にはあり得ないはずの、微かな、けれど確かな「他人の呼吸音」。
その事実に、胃のあたりがじりじりと熱くなるのを感じた。
心臓の鼓動が、いつもより一段階、速い。
「……とりあえず、そこに座ってろ。テレビとかは、今はつけなくていいから。……静かな方が、落ち着くだろ」
俺はキッチンに入り、すぐさま蛇口を全開にした。
冷たい水が手に当たると、少しだけ頭が冷える。
ダイニングテーブルの端に、冬馬が申し訳なさそうに腰を下ろす気配がする。
彼女の指先が、スカートの布地を白くなるほど握りしめているのが、横目で見えた。
俺は冷蔵庫の扉を開けた。
中に入っているのは、徹底して管理された数日分の食材だ。
一食分ずつ狂いなく小分けにされた豚バラ肉。
鮮度を保つために密閉容器へ整然と収められた野菜類。
使いかけのチューブ生姜。
カチッ、とつまみを回し、青い炎を上げる。
使い古されたフライパンが熱を帯び、チリチリと油が跳ねる音が響き始める。
トントン、トントン。
まな板を叩く包丁の音が、静まり返った家の中に一定のリズムを刻む。
俺にとっては、中二のあの日から繰り返してきた、生活の綻びを許さないためのルーチン。
だが、冬馬はそれを、まるで魔法の儀式でも見るような顔で、じっと見つめていた。
醤油、酒、みりん。
そしてたっぷりの生姜をフライパンにぶち込む。
ジュワーッ、という激しい音と共に、香ばしい煙が一気に立ち上がった。
焦げた醤油の匂いが、キッチンの隅々にまで暴力的なまでに充満する。
「……っ」
冬馬の喉が鳴る音が聞こえた。
腹の虫が鳴るのを必死に堪えているのか、彼女の体は小刻みに震えている。
「……今、盛るから。待ってろ」
俺は大きめの皿に炒め物を山盛りにし、炊飯器の白飯を茶碗に叩きつけるように盛った。
家族四人で囲んでいたはずの、今は無駄に広いダイニングテーブルの上に、ドン、と置く。
「食え。とりあえず、これが最初の給料代わりだ」
冬馬は、湯気を立てる皿を、まるでお供え物でも見るような目で見ていた。
彼女は震える手で割り箸を手に取り、肉の一片を口に運んだ。
唇がわずかに震え、箸がカチリと音を立てる。
「…………っ」
噛み締めた瞬間、冬馬の動きがピタリと止まった。
彼女の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、まだ熱い白米の上に落ちる。
「……おいしい。……味が、する……」
掠れた、震える声。
彼女は、泣きながら箸を止めなかった。
鼻水をすすり、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただひたすらに、肉と飯を胃袋に詰め込んでいく。
一週間、まともな食事を摂っていなかった身体。
熱い白米が食道を通り、胃に落ちるたびに、彼女の体温がわずかに上がるのが、傍目にもわかった。
今の彼女は、クラスで穏やかに笑っていた冬馬詩織ではない。
ただ「生きたい」という本能だけで動く、剥き出しの人間だった。
俺は黙って、自分の分の飯を噛み砕く。
彼女の、幽霊のように真っ白だった頬に、急速に血の気が戻っていく。
浅く引きつっていた呼吸が、飯を飲み込むたびに、深く、力強いものへと変わっていく。
「……おかわり、あるから。無理に詰め込まなくていいぞ」
ぶっきらぼうに言うと、冬馬は「う、ん」と、子供のような声を漏らした。
炒め物の皿が完全に空になるまで、家の中には、咀嚼する音と、彼女の小さな嗚咽だけが満ちていた。
◇
空になった食器を流し台に運び、俺はタオルで手を拭いた。
水に浸けた皿が、カチンと音を立てる。
ダイニングテーブルに戻ると、冬馬はふう、と深く、肺にあるすべての空気を吐き出すように息をついた。
その目には、ようやく生気が宿っている。
本来の年齢相応の柔らかさが、彼女の表情に戻りつつある。
冬馬はテーブル越しに俺を見上げ、少しだけ口角を上げた。
まだ泣き腫らした赤い目のまま、彼女は精一杯の「日常」を取り戻すための、下手くそな冗談を口にした。
「……ねえ、阿久津くん」
「なんだよ」
「私、阿久津くんに、いかがわしいバイトで雇われた……ってことで、いいのかな?」
「…………っ!」
心臓が不規則に跳ねた。
冗談だ、とわかっている。だが、その冗談を言えるくらいには、こいつの精神は「こっち側」に戻ってきた。
俺は無言のまま立ち上がり、流し台から戻るついでに、彼女の目の前に一冊の使い古された大学ノートを、ドン、と叩きつけるように置いた。
「……っ」
冬馬がビクッと肩をすくめる。
「……変なこと言ってねーで、さっさと自分の分の茶碗洗え。雇用契約はすでに始まってんだからな」
「むぅ……ブラック企業だ……」
恨みがましい声。だが、その声にはもう、絶望の震えは混ざっていなかった。
とりあえず、今日の分の命は繋いだ。
だが、問題はここからだ。
俺はテーブルに置いた大学ノートを開いた。
表紙に『資産・維持管理簿』と走り書きされた、俺の心臓部だ。
ノートを握る指先が、自分でも驚くほど冷たい。
手のひらには、ねっとりとした汗が滲んでいる。
「座れ。……明日からの生活の、見積もりを出すぞ」
「見積もり……?」
「明日の放課後、警察署に行くぞ」
冬馬の顔から、再び色が消えた。
せっかく飯で戻った血色が、一瞬で引いていく。
「だから、行ったら……施設に……」
「……うるさい。行かせねーよ、施設なんて。俺がそう決めたんだから」
言い切りながら、自分の声がわずかに震えているのに気づく。
警察。役所。児童相談所。
「大人の理屈」という、17歳のガキの力では到底抗えない巨大なシステム。
正直、胃の奥が雑巾を絞られるように痛い。
もし失敗すれば、彼女が施設に送られるだけでなく、俺のこの「一人暮らし」という安息さえ、大人の都合で奪われるかもしれない。
俺はペンを握りしめ、空白のページに力任せに一本の線を引いた。
「警察の窓口で、俺が何を言っても……絶対に否定するなよ。いいか、口を開くな。ただ黙って、顔を赤くして俯いてろ。……約束だぞ」
「えっ……? どういうこと……?」
冬馬が不安げに俺を見つめる。
俺は彼女の目を見ず、必死に頭を回転させる。
17歳のハッタリが、大人の社会にどこまで通用するか。
勝算なんて一ミリもない。
ただ、この震えている女の子を、あんな冷たいロビーで放り出す勇気が、俺にはないだけだ。
「……しくじるなよ、共犯者」
俺の言葉に、冬馬は戸惑いながらも、俺の震える指先をじっと見つめ――。
そっと、自分の手を、机の上に置いた俺の拳のすぐ横に並べた。
触れるか触れないか、わずか一ミリの距離。
「……わかった。阿久津くんを、信じるから」
直接肌は触れていないのに。
その数ミリの隙間から伝わってくる微かな体温に、俺は危うくノートを落としそうになった。
夜の静寂が降りた一軒家。
焦げた醤油の匂いと、嘘まみれの連帯。
完璧だったはずの日常を守るための、17歳の無謀な防衛戦が、始まった。




