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嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


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第1話:俺に雇われろ

 生ぬるい排気ガスの臭い。安物の香水の匂い。

 夕暮れの繁華街は、いつだって呼吸がしにくい。どこかへ急ぐ人々の熱気が、この街の澱んだ空気をかき回しているようで、俺は息を殺すようにして人混みを縫う。


 阿久津湊あくつ・みなとは、指に食い込むビニール袋の重みを感じていた。

 中身は、詰め替え用の洗剤と、数日分の献立から逆算した豚バラ肉。

 今日という一日を完璧に維持できたという、これが俺の収穫だ。


 中二で親を失ってから、俺の行動基準は『この家を一人で守り抜くこと』だ。持ち家と、十分な保険金。金に困っているわけではないが、未成年が一人で暮らすには、大人たちに「問題なく生活できている」と証明し続けなければならない。


 規則正しい献立。隅々まで手入れされた部屋。遺産を一切無駄にしない資金管理。

 高校を卒業して完全に自由になるその日まで、誰にも文句を言わせないための、徹底した「防衛戦」だ。


 それ以外の余計な情報は、全部シャットアウトだ。

 他人の人生に構う余裕なんて、俺の完璧な生活のタイムスケジュールには一秒も組み込まれていない。


 アスファルトの亀裂を数えながら、いつもの最短ルートを抜ける。

 そのはずだった。


「…………」


 雑居ビルの隙間。

 薄汚れた掲示板の前で、石像みたいに固まっている背中があった。

 見覚えのある制服。


 冬馬詩織とうま・しおり


 クラスの真ん中で穏やかに笑っていたはずの女子だ。

 だけど、今の彼女にその面影はない。


 肩のラインは力なく落ちて、ブラウスはシワだらけ。

 後ろ姿だけで、彼女がこの街の暗がりに呑み込まれそうになっているのが分かった。


 彼女が凝視しているのは、求人情報だ。

 それも、高校生が触れていい場所じゃない。


『高収入・即日支給』

『特別な夜を、あなたと。未経験大歓迎』


 毒々しい原色の文字。

 その紙切れに向かって、詩織の細い指が、吸い寄せられるように伸びていく。

 指先は、冷たい氷に触れるのを怖がるみたいに、ガタガタと震えていた。


 彼女がそれを知らないはずがない。

 わかっていて、それでも手を伸ばさざるを得ないほど、追い詰められているのだ。


「……おい」


 詩織の指が、紙の端に触れる寸前でビクンと止まる。


「……あ」


 振り返った彼女の顔を見て、息が詰まった。

 幽霊みたいに真っ白な肌。頬は不自然にこけて、目の下にはひどい隈が居座っている。なにより、瞳に光がない。昼休みに楽しそうにチョコを食べていた面影は、どこにもなかった。


 ――知ってる。この顔を。


 三年前。誰もいなくなった家の洗面台で、鏡の中の自分が見つめていた顔だ。

「日常」という崖から突き落とされて、必死に空気を探している、死に損ないの顔。


「阿久津……くん?」


「何見てんだ、お前」


 返事を待たず、俺は震えるその手首を掴んだ。

 驚くほど細い。命の重みを感じさせない頼りなさだった。


「あ、これ、は……その、ちょっと、バイトを探してて……」


「……ついてこい」


 言い訳を遮り、彼女を強引に引きずり出した。


 人混みをかき分け、客引きを無視して、たどり着いたのは街の隅にある古い喫茶店だ。

 カランカラン、と力ない鐘の音が鳴る。冷房の効きすぎた店内に、古いコーヒー豆と煙草の匂いが混ざっていた。


 一番奥の、目立たない席に彼女を押し込む。

 注文も聞かずに、アイスコーヒーを二つ頼む。

 グラスにはすぐに細かい水滴がつく。チリン、と氷が溶けて崩れる音が、重苦しい沈黙の中に響いた。


 詩織はテーブルの下で指をいじり続けている。呼吸が浅い。吐き出す息に力がなくて、胸元が小刻みに波打っていた。


「……あのバイト、中身が何なのか分かってて見てたのか?」


「…………」


「無言か。よっぽどの世間知らずか、それとも、金に切羽詰まってるか。どっちだ」


 俺の言葉は、ナイフみたいに刺さったはずだ。

 でも、「大丈夫?」なんて安い慰めは、今の彼女には毒でしかない。

 必要なのは、目を逸らしてきた「現実」を、無理やりでも飲み込ませることだ。


「……わかってる、よ」


 ようやく絞り出された声は、掠れて消えそうだった。


「わかってたけど……でも、もう、どうしようもなくて。お父さん、いなくなっちゃったの。一週間前から、連絡もつかなくて……」


 ポツリ、ポツリと、決壊したダムから水が漏れ出すように言葉が溢れる。


「お金も、財布に数百円しかなくて。電気も、昨日止まったの。真っ暗な部屋に一人でいると、自分が消えちゃいそうで……。大家さんからも、今日中に家賃の一部でも入れないと、部屋の鍵を替えるって言われて……」


 喉の奥で、小さな音が鳴る。震える手でグラスを掴もうとするが、指先が滑ってカチリと乾いた音を立てた。


「警察に行ったら、学校、辞めさせられるよね? 施設に行かなきゃいけないよね? ……私、それだけは嫌なの。普通に、学校に行きたいだけなの……」


 俺は黙ってそれを見つめた。

 掲示板の前で見せたあの絶望的な目は、すべてを諦めた奴の目じゃない。

 すべてを失ってなお、今の生活にしがみつこうとする、溺れかけている奴の目だ。


(……ったく。どいつもこいつも、勝手なことしやがって)


 脳裏に、中二の夏、葬儀を終えて誰もいなくなった家の、冷え切った床の感覚が蘇る。あの時、俺も同じように震えていた。助けてくれる誰かを探す余裕なんてなくて、ただ、明日をどう凌ぐか。その恐怖だけに支配されていた。


 だけど、今の俺には、三年かけて家の資産を管理し、生活を成立させてきた経験がある。一人増えたところでの食費のやり繰りなど、俺の計算にかかればどうとでもなる。


 頭の中で、必死にそろばんを弾く。

 客観的に見れば、ただの誘拐まがいだ。警察に嗅ぎつけられれば、俺が三年かけて死守してきた「平穏な生活」ごと終わるかもしれない。


(……っ、知るか。家事の労働力に対する、正当な『投資』だ)


 俺は震える手元を隠すように、溶けかかったアイスコーヒーを一気に飲み干した。氷が奥歯で砕ける。冷たい液体が喉を通って、熱くなっていた頭を少しだけ冷やしてくれた。


「……冬馬」


「…………」


「いいか、よく聞け。そのバイトのことは、今この瞬間、記憶から消せ。お前みたいなトロい奴が行ったところで、三日で身ぐるみを剥がされるのがオチだ」


 詩織がゆっくりと顔を上げた。涙で滲んだ瞳が、俺を捉える。


「でも、阿久津くん。私、もう他にどうすればいいか……」


「怪しい広告に縋る暇があるなら――」


 立ち上がり、伝票をひったくるように掴む。

 窓の外は、すでに完全な夜に飲み込まれている。ここでこいつを一人にしたら、間違いなくまたあの掲示板の前に戻る。


「黙って、俺に雇われろ」


「……え?」


「お返しできるものがない、なんて顔すんな。俺の家で働け。掃除、洗濯、皿洗い。俺が自分の生活を回すために削ってる時間を、お前が肩代わりしろ。その労働の対価として、俺が住む場所と食う物、お前の『日常』を保障してやる」


 彼女は呆然と俺を見上げていた。

 白い頬を、一筋の涙が伝い落ちる。


「……いいから立て。行くぞ」


「あ……うん」


 買い物袋の重さを確かめて、彼女の手を再び取った。夕闇が迫る繁華街の隅で、不器用な少年と少女の「契約」が成立した。


 明日からは六時半起きだ。米を研いで、味噌汁を作る。

 そんな当たり前の動作が、彼女を救う唯一の手段になる。

 ――今日を、生きる。その当たり前のために、今日、もう一人の同居人が増えた。


 ◇


 店を出ると、夜の街の熱気がまとわりついてきた。

 ネオンの光が、詩織の顔を赤や青に塗りつぶしていく。


 彼女は俺に手を引かれるまま、フラフラと歩いている。手首は驚くほど冷たくて、その体温のなさが、彼女の置かれた状況の過酷さを物語っていた。


 繁華街を抜け、住宅街へ続く道に入る。街灯の数が減り、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂いが夜の空気に混ざった。


 焼き魚の匂い。出汁の香り。

 俺がこの三年間、完璧に管理し続けてきた「生活」の匂いだ。

 詩織の足が、ふと止まる。


「……いい匂い」


 掠れた声で、彼女が呟いた。


「ああ。……帰ったら、何か作る」


「阿久津くん、料理できるの?」


「生きるためだ。できないわけがないだろ」


 ぶっきらぼうに答えて、歩みを速めた。


 彼女を連れ込むことは、俺の聖域を脅かすリスクだ。明日、警察や学校と対峙しなければならないかもしれない。胃の奥がプレッシャーでギリギリと痛む。


 それでも、俺の足が止まることはなかった。


 指に食い込む買い物袋の重みが、今はなぜか、少しだけ軽く感じられた。


 阿久津湊の人生に、冬馬詩織という存在が正式に混ざり込んだ。

 二人は夜の闇の中、明日へと続く道を一歩ずつ進んでいく。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

第1話、いかがでしたでしょうか。


『日常』を死守しようとする湊の不器用な優しさと、追い詰められた詩織の今後を描いていく予定です。


もし「先が気になる」「湊と詩織の関係を見守りたい」と思っていただけましたら、ぜひブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!

それでは、次回もよろしくお願いします。

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