閑話:崩れる「帰る場所」
雨の日の匂いがすると思い出す、小さな記憶がある。
すきま風の鳴る、六畳一間の古い木造アパート。
色褪せた畳。シミの浮いた天井。
いつも湿っぽくて、カビと、父が吸う安煙草の匂いが染み付いた、薄暗い部屋。
決して裕福ではなかった。
むしろ、明日の食事すら計算しなければならないような、カツカツの生活だった。
それでも、私はあの場所が、それほど嫌いではなかった。
ある雨の日の夜、父がずぶ濡れになって帰ってきたことがあった。
パチンコで負けたのか、それとも仕事でうまくいかなかったのか、ひどく酒臭くて、足元がおぼつかなかった。
「……詩織、ほら。これ、やるよ」
ろれつの回らない口調で、父が差し出したのは、一本のボールペンだった。
ファンシーショップのワゴンセールで売っているような、数百円の安っぽいプラスチックのボールペン。
「ごめんな、高いもの買ってやれなくてな」
父は照れくさそうに笑った。
高価なものではなかった。
それでも、当時の私には宝物だった。
「お前、絵描くの好きだっただろ。赤と、青と、黒だ。すげえだろ」
得意げに笑う父の顔は赤く、吐き出す息はひどく酒臭かった。
試しに紙に線を引いてみると、一番使いたかった赤色のインクだけ、なぜか出が悪く、掠れた線しか描けなかった。
「……あれ? おかしいな。不良品か」
気まずそうに頭を掻く父を見て、私は慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫。私、青色が好きだから。青でお絵かきするね。ありがとう、お父さん」
私がそう言って笑うと、父はほっとしたように「そうか、そうか」と笑い返し、私の頭を乱暴に撫でた。
煙草と、雨と、安いお酒の匂いがした。
大きな手のひらは少しざらついていて、でも、とても温かかった。
私は、自分が我慢をすれば、父が笑ってくれることを知っていた。
私が「大丈夫」と言えば、この狭い六畳一間の空気が、少しだけ穏やかになることを知っていた。
だから、笑った。
赤いインクが出なくても、お腹が空いていても、靴の底に穴が空いていても。
私が優しくあれば、父は父親でいてくれた。
雨が降れば、父がこの狭い部屋に帰ってくる気がしたから。
酔っていようと、機嫌が悪くとも、その湿った大きな手で私の頭を撫でてくれる夜だったから。
それが、私の「家族」の形だった。
――けれど。
あの夜の駅前で、その記憶は無惨な音を立てて砕け散った。
「お前なら、助けてくれると思ったんだ」
ネオンの光が毒々しく反射するロータリー。
記憶よりもずっと小さく、老け込んだ父の口から出たのは、謝罪でも、私を案じる言葉でもなかった。
「……昔から、優しい、そういう子だったからな」
すがるような、卑屈な目。
私を見ているはずの瞳は、もう私ではなく、その背後にあるものだけを求めているように見えた。
その言葉を聞いた瞬間、私の内側で、何かが決定的に壊れる音がした。
優しい子だったから。
そうか。そうだったのだ。
父は、私の「優しさ」を愛していたわけではなかった。
私が必死に守ろうとしていた「家族の絆」は、最初から対価を求める取引だった。
私が優しさを提供し、父がそれを利用して父親のフリをする。
その優しさが、今、具体的な「数万円」という金額に換算されて、私の目の前に突きつけられている。
自分が信じていた記憶のすべてが、ドロドロとした汚泥にまみれていく感覚がした。
胃の腑がひっくり返るような、激しい吐き気がこみ上げる。
私は、誰の特別でもなかった。
ただの、都合のいい道具だった。
その事実が脳髄に焼き付いた瞬間、目の前の景色が、音を立てて急激に色を失った。
何も言わずに背を化した。
父が焦ったように掠れた声で私の名前を呼んだが、振り返る気にはなれなかった。
ここで振り返ってしまったら、喉を引き裂いて泣き叫び、彼を、そして自分自身を呪詛の言葉で罵倒してしまいそうだった。
そんな惨めな姿を晒す気力すら、今の私には残っていなかった。
あてもなく、夜の街を歩いた。
春の夜風は冷たく、薄い制服のブラウスを容赦なくすり抜けて、私の骨の髄まで凍てつかせていく。
しばらくすると、頭上からぽつり、と冷たい感触が落ちてきた。
雨だった。
春先の夜に降る、細く、頼りない雨。
その湿った匂いを鼻腔の奥で感じた瞬間、息が詰まった。
煙草の匂い。
濡れた作業着。
古い畳に染み付いたカビの気配。
あの頃の私は、雨の日の匂いが嫌いではなかった。
なのに、今の私を刺すのは、温もりなどではない。どうしようもない、肉を抉るような痛みだけだった。
あの頃、あんなにも必死に守り抜こうとしたものは。
実は最初から、私ひとりだけが勝手に信じ込んでいた、薄ペラい妄想にすぎなかったのだと。
頭を殴られたように、思い知らされた。
どこをどう歩いたのか、自分の足がどこに向かっているのかも分からなかった。
ただ気づけば、あのけばけばしいネオンが瞬く繁華街の隅に、私は辿り着いていた。
あの日。
すべてを諦めて、自分の輪郭が夜の闇に溶けていくのを待っていた、あの冷たい場所に。
右手のポケットが、やけに重かった。
指先が触れているのは、冷たい金属の塊――湊くんから渡された、あの部屋の合鍵。
帰る場所は、あるのだ。
あの重いドアを開ければ、不器用で、口が悪くて、でも誰よりも真っ直ぐに私を見てくれる人がいる。
湯気の立つ温かいご飯があって、清潔なシーツがあって、私が震えながら「ただいま」と言える場所が。
――帰りたい。
喉の奥から、絞り出すような願いが漏れそうになった。
今すぐ彼の元へ走り出し、その胸にしがみついて、ドロドロになった心をすべて零して泣いてしまいたかった。
けれど。
私の足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。
帰れない。
いや、帰ってはいけないのだ。
私は、汚れてしまった。
こんな醜い泥をまとった人間を、彼が必死に守り抜こうとしてくれているあの平穏な世界に、持ち込んではいけない。
もし、あそこに帰ってしまったら。
私はきっと、湊くんに対しても「都合の良い優しい少女」を演じてしまう。
彼に嫌われないように。
彼に捨てられないように。
自分の「優しさ」という名の毒を差し出して、その見返りとしての居場所を乞うようになる。
それが、恐ろしかった。耐えられなかった。
私の「優しさ」は、美徳などではない。
人を甘やかし、自分を殺し、最終的には自分の大切なものまですり潰してしまう、救いようのない「呪い」だ。
そんな呪いをその身に宿した人間が、彼のそばにいてはいけない。
彼の世界を、私の腐った根っこで引きずり下ろしてはいけない。
広場の隅にある、冷え切った鉄のベンチに、私は崩れるように腰を下ろした。
周囲の喧騒は、水槽の底から見上げるように遠く、途切れ途切れにしか聞こえない。
指先から、足先から、感覚が急速に消えていく。
自分がこの冷たい風景の一部になって、音もなく消えてしまえばいいと思った。
何も感じていないはずだった。
感情なんて、あの瞬間を境にもうとっくに焼き尽くされて、灰になったはずだったのに。
――あふれて、しまった。
視界がぐにゃりと歪み、開いたままの瞳から、とめどなく熱い涙が零れ落ちる。
痛い。
胸の奥が、引き裂かれるように痛い。
ひとりになりたくない。
置いていかないで。
誰か、私を見つけて――。
喉の奥で澱んでいた弱音が、理性のダムを決壊させてあふれ出す。
私は両手で顔を覆い、音にならない嗚咽を押し殺した。
どれくらいの時間が、底なしの暗闇の中で過ぎ去ったのか。
不意に、舗装されたアスファルトを蹴る、荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
びくりと肩を震わせて顔を上げると、涙で滲む視界の向こうに、見慣れたシルエットが飛び込んできた。
細い雨に濡れ、前髪から雫を散らしながら。
湊くんが、そこに立っていた。
いつも完璧に整えている彼の制服のシャツは乱れ、顔面は血の気が引いたように青ざめ、その双眸は――今にも決壊しそうなほど切羽詰まった熱を帯びていた。
「ごめんなさい……」
反射的に、その言葉が喉を突いて零れ落ちていた。
心配をかけて、ごめんなさい。
こんな汚い私で、ごめんなさい。
あなたの築いた世界を脅かして、本当に、ごめんなさい。
「……私、ひとりになっちゃった」
呪いを抱えた私なんて、もう誰の特別にもなれない。
誰の隣にも、いられない。
そう震える唇で告げた、その直後だった。
湊くんは、何も言わなかった。
私の拙い言い訳も、お決まりの説教も、なぜここにいるのかという理由の追及すらもしなかった。
ただ、距離を詰める足音が一度だけ響き、次の瞬間――
彼の両腕が、私を強く引き寄せた。
「っ……!」
衝撃で、肺から小さく息が漏れる。
彼自身も力加減に気づいていないような、切羽詰まった力で、私の体がその硬い胸に押し付けられた。
「痛いです……湊くん」
掠れた声で小さく抗議しても、彼は腕を緩めなかった。
むしろ、私という壊れやすい存在をその体格の中に完全に隠し、閉じ込めてしまうかのように、ただ必死に抱きしめ返してくる。
彼から、雨の冷たさと、微かな汗の匂い、そしていつも嗅ぎ慣れている柔軟剤の温もりが混ざり合って届く。
密着した胸の向こう側から、狂ったようなテンポで打ち付ける心臓の音が、私の胸をダイレクトに叩いた。
ドクン、ドクン、ドクン――。
それは、彼が私を探して、どれほど絶望的な思いで走り回ってきたのかという、生々しい証明だった。
論理も、効率も、冷徹な損得勘定も。
大人のように振る舞うための彼の防壁は、この雨の中で完全に瓦滅していた。
ただの、余裕のない一人の男の子として。
彼は今、泥だらけの私に縋り付いている。
――あぁ。
私は、まぶたを重く閉じた。
こわばって動かなかったはずの私の指先が、意思とは無関係に彼の背中へと伸び、その濡れたシャツの布地を、引き裂くほどにきつく、強く握りしめていた。
周囲のネオンの光も、行き交う人々の足音も、もう何も聞こえない。
ただ、彼と触れ合っている点から伝わる熱だけが、冷え切った私の身体を容赦なく侵食していく。
彼の激しい鼓動を背中に聞きながら。
私の脳裏に、静かな恐怖が浮かぶ。
自分の「優しさ」が他人を縛りつける呪いだと知ってしまったのに。
彼を巻き込めば、いつか必ず彼を私の絶望で傷つけると分かっているのに。
それでも、あたたかなあの場所へ、もう一度帰ってもいいのだと。
あの不器用な日常を取り戻してもいいのだと――。
初めて、心の底から、そう願ってしまった。
そう思ってしまう自分自身の救いようのない弱さと、醜さと、彼への逃げ場のない執着を。
今の私には、まだうまく受け止めることなどできなかった。
ただ、彼に抱きしめられたまま。
冷たい雨の降る世界で、その温もりに溶けていくように、私は咽び泣くことしかできなかった。




