↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/89

閑話:崩れる「帰る場所」

 雨の日の匂いがすると思い出す、小さな記憶がある。


 すきま風の鳴る、六畳一間の古い木造アパート。

 色褪せた畳。シミの浮いた天井。

 いつも湿っぽくて、カビと、父が吸う安煙草の匂いが染み付いた、薄暗い部屋。


 決して裕福ではなかった。

 むしろ、明日の食事すら計算しなければならないような、カツカツの生活だった。


 それでも、私はあの場所が、それほど嫌いではなかった。


 ある雨の日の夜、父がずぶ濡れになって帰ってきたことがあった。

 パチンコで負けたのか、それとも仕事でうまくいかなかったのか、ひどく酒臭くて、足元がおぼつかなかった。


「……詩織、ほら。これ、やるよ」


 ろれつの回らない口調で、父が差し出したのは、一本のボールペンだった。

 ファンシーショップのワゴンセールで売っているような、数百円の安っぽいプラスチックのボールペン。


「ごめんな、高いもの買ってやれなくてな」


 父は照れくさそうに笑った。


 高価なものではなかった。

 それでも、当時の私には宝物だった。


「お前、絵描くの好きだっただろ。赤と、青と、黒だ。すげえだろ」


 得意げに笑う父の顔は赤く、吐き出す息はひどく酒臭かった。

 試しに紙に線を引いてみると、一番使いたかった赤色のインクだけ、なぜか出が悪く、掠れた線しか描けなかった。


「……あれ? おかしいな。不良品か」


 気まずそうに頭を掻く父を見て、私は慌てて首を振った。


「ううん、大丈夫。私、青色が好きだから。青でお絵かきするね。ありがとう、お父さん」


 私がそう言って笑うと、父はほっとしたように「そうか、そうか」と笑い返し、私の頭を乱暴に撫でた。


 煙草と、雨と、安いお酒の匂いがした。

 大きな手のひらは少しざらついていて、でも、とても温かかった。


 私は、自分が我慢をすれば、父が笑ってくれることを知っていた。

 私が「大丈夫」と言えば、この狭い六畳一間の空気が、少しだけ穏やかになることを知っていた。


 だから、笑った。

 赤いインクが出なくても、お腹が空いていても、靴の底に穴が空いていても。

 私が優しくあれば、父は父親でいてくれた。


 雨が降れば、父がこの狭い部屋に帰ってくる気がしたから。

 酔っていようと、機嫌が悪くとも、その湿った大きな手で私の頭を撫でてくれる夜だったから。


 それが、私の「家族」の形だった。


 ――けれど。

 あの夜の駅前で、その記憶は無惨な音を立てて砕け散った。


「お前なら、助けてくれると思ったんだ」


 ネオンの光が毒々しく反射するロータリー。

 記憶よりもずっと小さく、老け込んだ父の口から出たのは、謝罪でも、私を案じる言葉でもなかった。


「……昔から、優しい、そういう子だったからな」


 すがるような、卑屈な目。

 私を見ているはずの瞳は、もう私ではなく、その背後にあるものだけを求めているように見えた。


 その言葉を聞いた瞬間、私の内側で、何かが決定的に壊れる音がした。


 優しい子だったから。

 そうか。そうだったのだ。


 父は、私の「優しさ」を愛していたわけではなかった。

 私が必死に守ろうとしていた「家族の絆」は、最初から対価を求める取引だった。


 私が優しさを提供し、父がそれを利用して父親のフリをする。

 その優しさが、今、具体的な「数万円」という金額に換算されて、私の目の前に突きつけられている。


 自分が信じていた記憶のすべてが、ドロドロとした汚泥にまみれていく感覚がした。

 胃の腑がひっくり返るような、激しい吐き気がこみ上げる。


 私は、誰の特別でもなかった。

 ただの、都合のいい道具だった。


 その事実が脳髄に焼き付いた瞬間、目の前の景色が、音を立てて急激に色を失った。


 何も言わずに背を化した。

 父が焦ったように掠れた声で私の名前を呼んだが、振り返る気にはなれなかった。

 ここで振り返ってしまったら、喉を引き裂いて泣き叫び、彼を、そして自分自身を呪詛の言葉で罵倒してしまいそうだった。


 そんな惨めな姿を晒す気力すら、今の私には残っていなかった。


 あてもなく、夜の街を歩いた。


 春の夜風は冷たく、薄い制服のブラウスを容赦なくすり抜けて、私の骨の髄まで凍てつかせていく。


 しばらくすると、頭上からぽつり、と冷たい感触が落ちてきた。


 雨だった。

 春先の夜に降る、細く、頼りない雨。


 その湿った匂いを鼻腔の奥で感じた瞬間、息が詰まった。


 煙草の匂い。

 濡れた作業着。

 古い畳に染み付いたカビの気配。


 あの頃の私は、雨の日の匂いが嫌いではなかった。

 なのに、今の私を刺すのは、温もりなどではない。どうしようもない、肉を抉るような痛みだけだった。


 あの頃、あんなにも必死に守り抜こうとしたものは。

 実は最初から、私ひとりだけが勝手に信じ込んでいた、薄ペラい妄想にすぎなかったのだと。


 頭を殴られたように、思い知らされた。


 どこをどう歩いたのか、自分の足がどこに向かっているのかも分からなかった。

 ただ気づけば、あのけばけばしいネオンが瞬く繁華街の隅に、私は辿り着いていた。


 あの日。

 すべてを諦めて、自分の輪郭が夜の闇に溶けていくのを待っていた、あの冷たい場所に。


 右手のポケットが、やけに重かった。

 指先が触れているのは、冷たい金属の塊――湊くんから渡された、あの部屋の合鍵。


 帰る場所は、あるのだ。


 あの重いドアを開ければ、不器用で、口が悪くて、でも誰よりも真っ直ぐに私を見てくれる人がいる。

 湯気の立つ温かいご飯があって、清潔なシーツがあって、私が震えながら「ただいま」と言える場所が。


 ――帰りたい。


 喉の奥から、絞り出すような願いが漏れそうになった。

 今すぐ彼の元へ走り出し、その胸にしがみついて、ドロドロになった心をすべて零して泣いてしまいたかった。


 けれど。

 私の足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。


 帰れない。

 いや、帰ってはいけないのだ。


 私は、汚れてしまった。


 こんな醜い泥をまとった人間を、彼が必死に守り抜こうとしてくれているあの平穏な世界に、持ち込んではいけない。


 もし、あそこに帰ってしまったら。

 私はきっと、湊くんに対しても「都合の良い優しい少女」を演じてしまう。


 彼に嫌われないように。

 彼に捨てられないように。

 自分の「優しさ」という名の毒を差し出して、その見返りとしての居場所を乞うようになる。


 それが、恐ろしかった。耐えられなかった。


 私の「優しさ」は、美徳などではない。

 人を甘やかし、自分を殺し、最終的には自分の大切なものまですり潰してしまう、救いようのない「呪い」だ。


 そんな呪いをその身に宿した人間が、彼のそばにいてはいけない。

 彼の世界を、私の腐った根っこで引きずり下ろしてはいけない。


 広場の隅にある、冷え切った鉄のベンチに、私は崩れるように腰を下ろした。

 周囲の喧騒は、水槽の底から見上げるように遠く、途切れ途切れにしか聞こえない。


 指先から、足先から、感覚が急速に消えていく。

 自分がこの冷たい風景の一部になって、音もなく消えてしまえばいいと思った。


 何も感じていないはずだった。

 感情なんて、あの瞬間を境にもうとっくに焼き尽くされて、灰になったはずだったのに。


 ――あふれて、しまった。


 視界がぐにゃりと歪み、開いたままの瞳から、とめどなく熱い涙が零れ落ちる。


 痛い。

 胸の奥が、引き裂かれるように痛い。


 ひとりになりたくない。

 置いていかないで。

 誰か、私を見つけて――。


 喉の奥で澱んでいた弱音が、理性のダムを決壊させてあふれ出す。

 私は両手で顔を覆い、音にならない嗚咽を押し殺した。


 どれくらいの時間が、底なしの暗闇の中で過ぎ去ったのか。

 不意に、舗装されたアスファルトを蹴る、荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。


 びくりと肩を震わせて顔を上げると、涙で滲む視界の向こうに、見慣れたシルエットが飛び込んできた。


 細い雨に濡れ、前髪から雫を散らしながら。

 湊くんが、そこに立っていた。


 いつも完璧に整えている彼の制服のシャツは乱れ、顔面は血の気が引いたように青ざめ、その双眸は――今にも決壊しそうなほど切羽詰まった熱を帯びていた。


「ごめんなさい……」


 反射的に、その言葉が喉を突いて零れ落ちていた。


 心配をかけて、ごめんなさい。

 こんな汚い私で、ごめんなさい。

 あなたの築いた世界を脅かして、本当に、ごめんなさい。


「……私、ひとりになっちゃった」


 呪いを抱えた私なんて、もう誰の特別にもなれない。

 誰の隣にも、いられない。

 そう震える唇で告げた、その直後だった。


 湊くんは、何も言わなかった。

 私の拙い言い訳も、お決まりの説教も、なぜここにいるのかという理由の追及すらもしなかった。


 ただ、距離を詰める足音が一度だけ響き、次の瞬間――

 彼の両腕が、私を強く引き寄せた。


「っ……!」


 衝撃で、肺から小さく息が漏れる。

 彼自身も力加減に気づいていないような、切羽詰まった力で、私の体がその硬い胸に押し付けられた。


「痛いです……湊くん」


 掠れた声で小さく抗議しても、彼は腕を緩めなかった。

 むしろ、私という壊れやすい存在をその体格の中に完全に隠し、閉じ込めてしまうかのように、ただ必死に抱きしめ返してくる。


 彼から、雨の冷たさと、微かな汗の匂い、そしていつも嗅ぎ慣れている柔軟剤の温もりが混ざり合って届く。

 密着した胸の向こう側から、狂ったようなテンポで打ち付ける心臓の音が、私の胸をダイレクトに叩いた。


 ドクン、ドクン、ドクン――。


 それは、彼が私を探して、どれほど絶望的な思いで走り回ってきたのかという、生々しい証明だった。

 論理も、効率も、冷徹な損得勘定も。

 大人のように振る舞うための彼の防壁は、この雨の中で完全に瓦滅していた。


 ただの、余裕のない一人の男の子として。

 彼は今、泥だらけの私に縋り付いている。


 ――あぁ。


 私は、まぶたを重く閉じた。

 こわばって動かなかったはずの私の指先が、意思とは無関係に彼の背中へと伸び、その濡れたシャツの布地を、引き裂くほどにきつく、強く握りしめていた。


 周囲のネオンの光も、行き交う人々の足音も、もう何も聞こえない。

 ただ、彼と触れ合っている点から伝わる熱だけが、冷え切った私の身体を容赦なく侵食していく。


 彼の激しい鼓動を背中に聞きながら。

 私の脳裏に、静かな恐怖が浮かぶ。


 自分の「優しさ」が他人を縛りつける呪いだと知ってしまったのに。

 彼を巻き込めば、いつか必ず彼を私の絶望で傷つけると分かっているのに。


 それでも、あたたかなあの場所へ、もう一度帰ってもいいのだと。

 あの不器用な日常を取り戻してもいいのだと――。


 初めて、心の底から、そう願ってしまった。


 そう思ってしまう自分自身の救いようのない弱さと、醜さと、彼への逃げ場のない執着を。

 今の私には、まだうまく受け止めることなどできなかった。


 ただ、彼に抱きしめられたまま。

 冷たい雨の降る世界で、その温もりに溶けていくように、私は咽び泣くことしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。