第53話:夜の終わり
どこをどう歩いたのか、まるで記憶がなかった。
ただ、春先特有の湿気をはらんだ冷たい夜風に背中を押されるように。
あてもなく、足を動かし続けていた。
薄い制服のブラウスを透過する冷気が、肌の表面からじわじわと体温を奪っていく。
無機質なアスファルトを叩くローファーの足音だけが、やけに空虚なリズムを刻んで、耳の奥で反響していた。
交差点を過ぎ。
見知らぬ路地を抜け。
街灯の少ない道を歩く。
右手の指先を制服のポケットの奥深くに沈めると、硬く、そして微かに冷たい金属の感触に触れた。
湊から渡された、家の合鍵だ。
銀色の、小さな鍵。
指の腹で、そのギザギザとした複雑な形状をなぞる。
帰る場所は、ある。
あのドアを開ければ、安物のフローリングワックスと柔軟剤の匂いが混ざった、あの部屋独特の匂いがする。
温かい間接照明があって。
いつも不機嫌そうに眉間を寄せながら、けれどどこまでも不器用で優しい彼がいる。
テーブルの上には、手作りの夕食がラップをかけられて置かれているかもしれない。
「遅かったな」と小言を言いながらも、彼のことだから、お湯を沸かして温かいお茶を淹れてくれるかもしれない。
――帰りたい。
ポケットの中で鍵を強く握りしめ、そう思ってしまった瞬間に。
足が、アスファルトに縫い付けられたようにぴたりと止まった。
帰れない。
いや、帰ってはいけないのだ。
自分の存在は、あそこに持ち込んではいけない泥だ。
期待した自分が、すこしでも希望を抱いてしまった自分が、ひどく滑稽で救いようのない馬鹿だった。
実の父親にすら、娘としての愛情や庇護はおろか、ただ金銭を引き出すための「窓口」としての価値しか見出されなかった。
それどころか、何も持たない私を拾い、居場所を与えてくれた湊のことすらも。
あの男は都合よく金を無心するための、利用価値のある「資源」として値踏みしたのだ。
――お前なら、わかってくれるよな。
――昔から、優しい、そういう子だったからな。
鼓膜の奥にこびりついた、あの粘り気のある、卑屈でひどく他責的な声が、何度も何度もフラッシュバックする。
胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてきた。
喉が焼け付くように痛い。
その「優しさ」に、はっきりと具体的な数字の値段をつけられた惨めさが、内臓を雑巾のように絞り上げていく。
そんな惨めで、汚れた自分を、あの清潔で、平穏で、彼が必死に守り抜こうとしている家に連れ帰るわけにはいかない。
自分の醜い過去の残滓を、彼のテリトリーに持ち込んではいけない。
これ以上、一ミリでも彼に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
無意識のうちに止まっていた足が、再びふらふらと、水を含んだ綿のように重い足取りで動き出す。
やがて、視界の端で、赤や青、黄色の毒々しいネオンの光が滲み始めた。
空気が、急に重く、そして淀んだものに変わる。
耳を打つ、酩酊した酔客の甲高い笑い声。
客引きの気怠げで、すれ違う人間の価値をどこか値踏みするような視線と声。
道路の脇に吐き捨てられた嘔吐物の臭い。
排気ガスと、安っぽい香水と、アルコールが不快に混ざり合った、息の詰まる空気。
繁華街。
あの日、すべてを諦めて夜の闇に完全に溶けようとしていた自分が、湊の傘の下に拾われた場所。
まるで円環のように、私は、再びこの場所に戻ってきたのだ。
けれど、あの時とは決定的に違う。
あの夜は、何も持っていなかった。
失うものなど、もう何一つ残されていなかった。
今は、持ってしまっている。
彼と一緒に過ごした、ささやかで温かい記憶。
マグカップ越しに伝わる温度。
不器用な気遣い。
隣に誰かがいることの安心感。
知ってしまったのだ。
だからこそ、あそこには帰れない。
彼を巻き込み、彼に忌避され、すべてを失うことが、どうしようもなく怖くてたまらないのだ。
詩織は、広場の隅にある、誰にも見向きもされない冷たい鉄のベンチに。
糸が切れた操り人形のように、力なく座り込んだ。
体だけが先に座って、心がまったく追いついてこなかった。
動けない。
夜の冷気が、薄い制服越しに体温を容赦なく奪っていく。
指先から、足先から、自分の輪郭を保っていた熱が、空気中に散逸して逃げていくのがわかる。
何も感じていないはずだった。
感情は、あの駅前で父親に背を向けた瞬間に、もうすっかり枯れ果てたと思っていた。
なのに、気づけば視界の端のネオンサインが、酷くぼやけて滲んでいた。
痛い。
ひどく遅れてやってきた感情の波が、鋭利な刃物となって胸の奥をめちゃくちゃに切り裂いていく。
なぜ、自分はここにいるのか。
なぜ、自分は誰の特別にもなれないのか。
自分はただ、普通に生きていたかっただけなのに。
声も出ない。
嗚咽すら、喉の奥で硬い塊となって詰まり、吐き出すことができない。
ただ、瞬きも忘れて目を見開いたままの瞳から。
静かで熱い涙だけが、とめどなく溢れては、制服のプリーツスカートに幾つもの黒い染みを作っていった。
――同じ頃。
自宅の薄暗いリビングで。
湊はスマートフォンの画面を無意味にスクロールし続けていた。
時刻は、とっくに午後九時を回っている。
部屋の照明は点けていない。
暗闇の中、スマートフォンの液晶から放たれる青白い光だけが、湊の青ざめた顔と、微かに震える指先を不気味に照らし出していた。
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチと無慈悲に規則的な音を立てる。
その音と、湊の浅く荒い呼吸音だけが、不自然なほど静まり返った部屋の中で、嫌に大きく響いていた。
詩織がいない。
帰宅した時、玄関の冷たいタイルの上に、彼女の小ぶりなローファーはなかった。
最初は、日直か何かで遅くなっているのだろうと思っていた。
あの生真面目な性格だ。
クラスメイトから面倒な仕事を押し付けられ、断れずに残っているのかもしれない。
だが、七時を過ぎ、八時を過ぎても、メッセージアプリには既読すらつかない。
電話をかけても、『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか――』という無機質な機械音が、冷たく繰り返されるだけだ。
胃の奥が、雑巾を強く絞り上げられるように、ぎりぎりと痛む。
何かあったのか?
事故に巻き込まれたのか?
いや、単にスマートフォンの充電が切れただけかもしれない。
友人と駅前のカフェで話し込んでいるだけかもしれない。
頭の中で、必死に無事な理由、論理的に成立する可能性を並べ立てようとする。
だが、そのすべてを、昨日からの「噛み合わない空気」が力強く否定してくる。
昨夜、二人の間に流れていた熱を断ち切った、あの唐突な着信。
画面を伏せ、消え入りそうな声で「知らない番号です」と告げた彼女の、ひどく怯えたような表情。
今日の朝の、決定的な壁を作るような、どこか拒絶すら混じった彼女の背中。
嫌な汗が、首筋から背骨に沿って、ひやりと冷たく伝い落ちる。
湊は、勢いよくソファから立ち上がった。
スマートフォンを無造作にズボンのポケットにねじ込む。
アウターを掴むことすら忘れ、シャツのまま玄関のドアを乱暴に開ける。
鍵をかけようとした指先が、自分のものとは思えないほど激しく震えていた。
鍵穴に金属がうまくはまらず、ガチャガチャといらだたしい音を立てる。
「くそっ」と毒づきながら無理やり施錠し、ノブを引いて確認する。
靴を引っかけるように履き、玄関を飛び出した。
冷たい空気が、開いた気管を通って容赦なく肺を焼き、喉の奥から鉄のような血の味がした。
どこを探せばいいのかわからない。
頭の片隅で冷静な大人の自分が「効率的に探せ。まずは学校へのルート、次は駅だ」と囁くが、駆動している足は、その理性的な命令を完全に無視していた。
気づけば、同じ道を走っていた。
さっきも、この角を曲がった。
このシミのある電柱も、このひび割れたアスファルトも、この色あせた自販機も、すでに見覚えがある。
――なのに、また曲がる。
同じ場所を、何度も、何度も通り過ぎる。
無意味に、周辺の住宅街を狂ったように走り回っている。
意味がないと分かっているのに、足が止まらない。
止まったら、その瞬間に何かが決定的に終わってしまうような気がして、走り続けることしかできなかった。
足がもつれ、アスファルトの上に膝をつきそうになる。
呼吸が限界を迎え、肩が激しく上下している。
肺が悲鳴を上げている。
どこだ。どこにいる。
思考が焼き切れそうになった、その時。
理由などまったくないのに、気づけば、ある方角へと足が向いていた。
繁華街。
あんな治安の悪い場所に行く理由なんてない。
学校からも離れているし、今の彼女が自らあの喧騒に足を踏み入れるはずがない。
いくらでも論理的に否定できる。
けれど、湊の体は、すでにその方角へと全速力で駆け出していた。
大人のように振る舞うための理屈も、感情を抑え込むための強固なシステムも、今はもう欠片すら残っていない。
ただ、見つけなければ。
あの夜の続きを、永遠に失ってしまう前に。
けばけばしいネオンの光が、網膜を暴力的に刺す。
雑踏の中を、人を突き飛ばすようにして、強引に前へ前へと進む。
舌打ちや怒声が飛んできたが、振り返る余裕など微塵もなかった。
息はとっくに上がりきり、足は水を吸ったブーツのように重い。
ぽつり。
頬に、冷たい雫が落ちた。
見上げる余裕もないまま、もう一粒。さらにもう一粒。
春先の細い雨が、音もなく降り始める。
濡れ始めたアスファルトが街のネオンを滲ませ、夜の輪郭をゆっくりと溶かしていった。
広場に出た、瞬間だった。
違う、と思った。
似ているだけだ。
こんな場所にいるはずがない。
あの大人しく、控えめな彼女が、こんな場所にいるわけが、ない。
そう思ったのに。
足が、勝手に止まらなかった。
違う。
あれは違う。
そうであってほしかった。
無数の通行人が無関心に行き交う中で、そこだけぽつんと、世界から切り離されたような空白があった。
冷たい鉄のベンチ。
うつむき、微動だにしない、華奢な背中。
湊の足が、その数メートル手前でピタリと止まる。
心臓が、肋骨を内側から突き破りそうなほど激しく打ち付けた。
周囲のノイズが遠のき、強烈な耳鳴りだけが頭の中で鳴り響く。
ゆっくりと、一歩ずつ、その背中に近づいていく。
靴の裏がアスファルトを擦る音に気づいたのか、彼女の肩がわずかに揺れた。
詩織が、顔を上げる。
涙と雨でぐしゃぐしゃに濡れ、光を失った瞳が、虚ろに湊を捉えた。
驚きでも、安堵でもなく。
ただ、どうしようもなく傷つき、自分には価値がないのだとすべてを諦めきった、迷子の子供のような顔だった。
「ごめんなさい」
ひどく掠れた声が、夜の濁った空気に溶ける。
それは、迷惑をかけた湊に向けられた謝罪であると同時に、自分が存在していること、世界そのものに向けられた祈りのようだった。
長い、長い沈黙。
「……私、ひとりになっちゃった」
理屈が追いつく前に、体が動いていた。
それが何を意味するのか、考えなかった。
ただ、彼女の小さな体が、今にも夜の闇に崩れ落ちて、本当に輪郭を失って消えてしまいそうに見えた。
湊は、無言のまま、詩織の体を強引に引き寄せるように抱きしめた。
華奢な背中に腕を回し、強く、強く抱きしめる。
理屈など、何もない。
ただ、力任せにその体温を閉じ込めた。
「痛いです……湊くん」
かすれた声が、胸の内側で震えた。
けれど、詩織は離れなかった。
抵抗もせず、そのまま体を預けてくる。
指先が、服越しにわずかに掴まる。
縋るように、この腕の温もりが現実であることを確かめるように。
湊は、それでも腕を緩めなかった。
むしろ、ほんの少しだけ力を強める。
言葉はない。
何も、決めていない。
それでも、もう離す理由が、彼らの間には一つも残っていなかった。
周囲のざわめきは、遠くで途切れた音のようにしか聞こえない。
けばけばしいネオンの光が流れていく。
無関心な人の気配が通り過ぎていく。
それらすべてから切り離されたように。
二人の接触している部分の体温だけが、やけに鮮明だった。
詩織の浅い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
それに合わせるように、狂ったように跳ねていた湊の鼓動も、ゆっくりと整っていく。
離れない。
どちらも、動かない。
そのまま、時間だけが静かに過ぎていく。
春先の雨は、いつの間にか二人の肩を静かに濡らしていた。
制服も、髪も、頬を伝う涙も、雨粒とひとつになって境界を失っていく。
――
抱きしめたまま、二人はそこにいた。
冷たい雨の中でも、その腕だけは離れなかった。
それでも、その長い夜は、もう終わりに近づいていた。




