↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/88

第52話:再会

 静寂を切り裂いて鳴り響いたスマートフォンのバイブレーション。

 そして、場違いにポップなデフォルトメロディ。


 それは、二人だけで完結しかけていた世界を、一瞬で外側から踏み潰すには十分な破壊力だった。

 まるで“誰かに見つかった”かのような不快な現実感を伴って。


 ローテーブルの上。

 硬い木目を叩きつけるように震える画面を覗き込んだ詩織が、わずかに眉を寄せる。


「……知らない番号です」


 その一言で、俺の脳内に張り巡らされていた「不可逆の変化」への覚悟が、ふっと行き場を失って霧散した。


 一瞬、何も考えられなくなる。


 極限まで張り詰めていた空気が、まるで穴の空いた風船のように急速に萎んでいく。

 ついさっきまで、俺の指先は彼女の肩に触れる寸前だった。


 血液が沸騰するほどの熱を持っていたはずの身体が、急激に冷や水を浴びせられたように冷えていく感覚。

 俺は無意識に後頭部を掻きながら、視線を泳がせた。


「……そうか。……なあ、今日はなんだか変な空気になったし、続きは明日でいいか」


 口に出した瞬間、自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。


 ――助かった。

 そんな情けない言葉が、喉元まで出かかった。

 そう思ってしまった自分に、ほとんど反射的に嫌悪が走る。


 ついさっきまで、逃げ場のない「核心」を突きつけていたのは俺の方だったはずなのに。

 いざその決定的な流れが中断されると、理屈で武装していた自分が剥がれ落ちる。


 ただの動揺した、不器用な男として彼女の前に晒されていることに気づく。

 その羞恥と余裕のなさが、さらに頬の温度を上げた。


 詩織は俺の様子を見て、少しだけ目を丸くした。

 だが、すぐにその表情は和らぎ、いたずらっぽく、けれどどこまでも優しい微笑みが唇に浮かぶ。


「はい。明日、ちゃんとまたお話ししましょうね、湊くん」


 その柔らかい笑顔は、凍結しかけていたリビングの空気を、春の陽だまりのように溶かしていった。


 その夜は、お互いに触れそうで触れない距離を保ったまま、それぞれの部屋へと戻った。


 ――そして、その「続き」が語られることは、その後しばらくなかった。


 翌朝のリビングに流れていたのは、穏やかな継続ではなかった。

 どこかよそよそしい静けさだった。


 物理的な距離は、昨日までの「疑似家族」としての定位置に、まるで何事もなかったかのように正確に戻されている。


 会話は必要最低限。

 朝食の準備をする詩織の背中には、踏み込むことを拒むような、見えない壁が静かに築かれていた。


 俺が何か言いかけると、詩織はわずかに手元の作業に意識を落とした。

 味噌汁の湯気だけが、妙に遠くにあるように感じられた。


 あの夜に触れかけた熱は、どちらからも言葉にされることなく、ただ未定義のまま冷たく凍結されている。

 それは、ほんの少しのきっかけでひび割れてしまう、脆すぎる均衡だった。


 ――数日後の放課後。


 詩織は自室のベッドに座り、スマートフォンの通話履歴をじっと見つめていた。

 窓の外では、夕暮れ時の空が赤黒く滲み始めている。


 あの夜、出なかった番号。


 理由はなかった。

 ただ、知らない番号だったから出なかった――そう思うことにした。


 けれど、その「それだけ」のはずの選択が、魚の小骨のように妙に引っかかり続けていた。


 数分間の逡巡の末、意を決して指先が履歴をタップする。


 数回の呼び出し音。

 その一回一回が、やけに長く感じられる。


 やがて、耳に届いたのは、掠れた、けれど細胞の奥底に刻まれて忘れることのない声だった。


『……詩織か』


 その一言で、呼吸が止まる。

 父親だった。


 スマートフォンの縁を握る指先が、わずかに震える。

 胸の奥に、言葉にならない熱が込み上げる。


 自分を置いて消えた男。

 あの日、自分の世界から突然いなくなり、幼かった自分を深い孤独の中に残した存在。


 それでも、鼓膜を揺らすその声はあまりにも懐かしく。

 怒りや拒絶よりも先に「生きていてくれた」という圧倒的な安堵が、全身の血の巡りを静かに温めていった。


『驚かせてすまない。……今、近くに来てるんだ』


 少しの間。


『……少しだけ、会えないか』


 その言葉は、どこか疲れた響きを帯びながらも、暗闇の中から確かにこちらへ手を伸ばしてくるものだった。


 理由があるのかもしれない。

 あの時、消えなければならなかった止むに止まれぬ事情が。


 ――そう思いたかった。

 そうでなければ、突然舞い込んだこの声の重さを、受け止めきれなかった。


「……うん」


 気づけば、乾いた唇から声が漏れていた。


 湊の顔が一瞬だけ脳裏に浮かぶ。

 その距離の近さと、今の通話の距離の遠さが、妙に噛み合わなかった。


 けれど、首を横に振る。

 これ以上、彼に迷惑はかけたくない。

 今の平穏な生活を、自分の過去の残滓で揺らしたくない。


 これは、自分で処理すべきことだ。

 そうやって、静かに、けれど明確に線を引く。


 待ち合わせは、夜の駅前だった。


 ロータリーを走る車のヘッドライトが、冷たいアスファルトを等間隔で照らしては過ぎ去っていく。

 人混みの中から現れた父は、記憶の中にいる姿よりもひと回り小さく、そして明らかに老け込んで見えた。


 手入れされていない無精髭。

 擦り切れた安物のジャケットの袖口。

 落ち着きなく貧乏ゆすりをする足先。


 隠しきれない生活の荒廃が、全身から滲み出ている。

 それでも。


「お父さん……」


 その姿を視界に捉えただけで、鼻の奥がつんと痛む。


「詩織……ああ、元気そうでよかった」


 父はどこか申し訳なさそうに、けれど確かに安堵したように微笑んだ。

 詩織の靴先と、持ち物を一瞬だけ順に目でなぞる。


 そして、ふと何かを言いかけてやめるように口を閉じる。

 一瞬だけ、視線が詩織の手元に落ちた。


「……その、寒くないか」


 唐突な一言だった。

 詩織はきょとんとする。


「え?」

「夜、冷えるだろ。この辺」


 父の視線が、時折周囲を気にするように泳ぐ。

 どこかぎこちない、不器用な気遣い。


 けれど、その不器用さが、幼い頃の記憶にある父の姿と重なって、妙に懐かしかった。


「……大丈夫」

「そうか」


 短い会話。

 ただそれだけのことなのに、凍りついていた胸の奥底に、小さな温かい灯がともるのを感じた。


「ちゃんと……やれてるみたいだな」

「うん。学校も行ってるし……住む場所もあって」


 父の視線が、一瞬だけ詩織のポケット――スマートフォンのあたりをかすめた。


「そうか……」


 父は小さく頷く。

 沈黙。

 けれど、それは気まずいものではなかった。

 空白の、そして失われた時間を埋めるような、ゆるやかな間だった。


「……お前、小さい頃さ。よく風邪ひいてただろ」


 唐突に、父が言う。


「夜中に熱出して、氷枕がぬるくなるとすぐ起きて……何回も取り替えさせられてさ」


 思いがけない、ささやかな日常の記憶に、詩織は目を瞬かせる。


「……覚えてる」


 小さく、笑う。


「そんなこと、あったね」


 父も、少しだけ目尻を下げて笑った。


「あとさ、朝になると、ケロッとしてるんだよな。昨日あんなに騒いでたのに、何事もなかったみたいに学校行くって言って」


 詩織は、思わず息をこぼす。


「……迷惑、かけたね」

「強い子だったよ、お前は」


 詩織の喉が、小さく鳴る。

 言葉にならない何かが、胸の奥でゆっくりとほどけていく。


 自分を置いていった父からの、不意の肯定。

 張り詰めていた警戒心が、音を立てて崩れていくのを感じた。


「あの頃は……ちゃんと父親やれてたのにな」


 ぽつりと漏れたその言葉に、胸が締めつけられる。


「……あの時は、本当にすまなかった」


 父の声が、少しだけ低くなる。


「逃げるしかなかったんだ。借金のことで……お前を連れてたら、絶対に巻き込んでた」


 視線が、アスファルトに落ちる。


「何度も戻ろうと思った。でも、そのたびに……」


 言葉は濁される。

 けれど、それが逆に、どうしようもない“現実の生々しさ”として響いた。


「……ねえ」


 気づけば、口が動いていた。

 父が顔を上げる。


「どうして……何も言わずに、いなくなったの」


 責めるつもりはなかった。

 ただ、確かめたかった。


 父は少しだけ目を伏せる。


「……言えば、お前はついてきただろ」


 ひどく掠れた声だった。


「それが、怖かった」


 風の音だけが、一瞬二人の間を通り抜ける。


 詩織は、言葉を返せなかった。

 愛情がなかったわけじゃない。ただ、弱かったから逃げたのだ。


 その不器用で情けない理由に、心が軋むように理解を示しかけている自分がいた。


「……でもな」


 父が、顔を上げる。


「今なら……少しは、まともに働けそうなんだ。日雇いだけど、仕事も見つかって」


 その目に、わずかな熱が帯びているように見えた。


「落ち着いたら、ちゃんと部屋も借りて――」


 父が、詩織を真っ直ぐに見つめる。


「……お前を、迎えに行けるようにする」


 詩織は、何も言えなかった。

 ただ、その言葉の続きを、震える心で待っていた。


 その言葉だけが、やけに遅れて胸に届いた。

 すぐには信じきれないのに、それでも――少しだけ、信じたくなった。


 夜の雑踏が、やけに遠く聞こえる。

 ロータリーを照らすネオンの光が、視界の端でぼやけて滲む。


 ――もしかしたら。

 戻れるのかもしれない。


 ほんの少しだけ、そう思った。

 そうすれば、もうこれ以上、湊くんに迷惑をかけずに済む。

 彼が必死に守ろうとしている平穏な日常を脅かす、厄介な『不確定要素』ではなくなる。


 もう一度、あの頃のような本当の家族に戻れたなら。

 誰に負い目を感じることもなく、ただの「娘」として生きていける場所が、また手に入るのかもしれない。


 詩織の表情が、わずかに緩む。

 一歩、無意識に父の方へ足を踏み出しかけた。


 その時だった。


「……詩織」


 父が一度、言葉を切る。

 空気が、わずかに歪む。

 さっきまでと同じ声のはずなのに、温度だけが違って聞こえた。


「その……」


 父の視線が、ふらふらと泳ぐ。


「いや……」


 一度、飲み込むように黙る。

 何かを言い淀むような、葛藤しているようなその不自然な態度に、嫌な予感が、胸の奥に重く沈んでいく。


「実を言うとな……どうしても、頼みがあるんだ」


 間。


「……少し、金を貸してくれないか」


 思考が、そこで途切れる。

 周囲の音が、すっと遠のいていく。


「今週どうしても首が回らなくて……でも、今、一緒に住んでる男がいるんだろ。ちゃんとした暮らししてるみたいだし、事情を話せば数万くらい貸してもらえないか?」


 そこまで聞いた時点で、ばらばらだったパズルのピースが、最悪の形で繋がった。


 ――ああ。


 そういうことか。

 会いに来たわけじゃない。

 謝りに来たわけでもない。

 迎えに来る気なんて、最初から一ミリもなかった。


 ただ、都合よく金を引き出せる場所として思い出された、それだけだ。


 胸の奥で、膨らみかけていた希望が、音もなく崩れ落ちる。


 自分は、重荷ですらなかった。

 捨てる理由にもならない、ただの“使えるかもしれないカード”。


 そして。

 湊のことさえも。

 ただの都合のいい存在として見ている。


「お前なら、助けてくれると思ったんだ」


 父が、すがるような、卑屈な目で詩織を見る。


「……昔から、優しい、そういう子だったからな」


 追い打ちのようなその一言が、かつての「親子」という絆を、単なる「利用関係」へと完全に変換させた。


 氷枕を変えてくれた優しさも、熱を出して耐えた強さも。

 すべては、今のこの瞬間に金を引き出すための「都合のいい記憶」でしかなかったのだ。


 その“優しさ”が、今この瞬間に値段をつけられた気がした。

 安く、具体的な額で。


 完全な沈黙。

 絶対零度の静寂が、詩織の全身を貫く。


 詩織は、一拍遅れてから、ゆっくりと足の向きを変えた。

 何も言わない。


「……おい、待てよ」


 背後から、焦ったような声が飛ぶ。


「詩織!」


 振り返らない。

 返事もしない。

 そのまま、夜の街へ歩き出す。


 音が遠い。

 感情は出てこない。

 涙すら湧いてこない。

 指先の感覚が、少しずつ遠くなっていく。


 帰る場所があるはずなのに、その座標だけが曖昧だった。


 誰の娘でもない。

 誰の特別でもない。

 未定義のまま。


 詩織は、冷たい春の夜風に吹かれながら。

 輪郭を削り取られるように、人混みに紛れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。