↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘から始まった同居生活は、いつしか本物の家族になった  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/89

第49話:新手の拷問と、境界線の融解

 あのやり取りの後、どうやって夕食を仕上げ、向かい合って飯を食ったのか、よく覚えていない。


 いつもなら「この味付けはタンパク質の吸収効率を――」などと無意味な理屈を並べる俺も、今はただ無言で箸を動かすのが精一杯だった。詩織も同様だ。皿の上の煮物を、まるで精密機械を解体するかのような慎重さで口に運んでいる。食器がカチリと当たる音さえ、今の俺たちには鼓膜を震わせる過剰な刺激に感じられた。


 そして、現在。時刻は午後九時過ぎ。

 夕食の片付けも終わり、互いに入浴も済ませた、一日の中で最もタスクが少なく、心身の防衛線が下がる時間帯。俺はリビングのソファに腰を下ろし、膝の上に置いた課題のプリントに視線を落とした。


 文字を追う。論理を構築する。それが俺というシステムを正常化させるための、唯一かつ最善の手順だ。

 だが、網膜を滑る活字は、意味を成さない記号の羅列にしか見えなかった。


 意識の焦点は、どうしても数時間前の出来事へと吸い寄せられる。

 チョップをした指先に残る、彼女の額の微かな弾力。

 至近距離でぶつかり合った、彼女の甘い吐息。

「問題は詩織じゃない。制御できていないのは、俺の方だ」という自覚が、鋭い棘となって神経を逆なでする。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 背後で、パタンとドアが開く微かな音がした。

 スリッパの音を忍ばせているのか、足音はない。だが、空気の揺らぎと、入浴後特有の湿り気を帯びたシャンプーの香りが、俺の背後の領域に「彼女」が戻ってきたことを明確に告げていた。


「……湊くん」


 掠れた、けれど先ほどまでとは違う、どこか決意を秘めたような声が耳を打った。俺はプリントから目を離さず、あえて硬質な声を作って答える。


「……なんだ。寝る前の水分補給ならキッチンにある」

「あの……湊くん。いつも、私がお世話になっていますから。……マッサージ、させてください」


 その提案に、俺は思わずページをめくる手を止めた。

 溜息が、重く、深く、唇から漏れ出す。


「……お前、またか。それも春奈奈々の案か」


 振り返ると、詩織は「今まさに俺の肩に手を置こうとしていた」という中途半端なポーズのまま、目を丸くして固まっていた。


「……っ。な、なんで、わかるんですか」


 案の定、という反応が返ってきた。

 春奈奈々の作戦は、帰宅時の「上目遣い」や「ボディタッチ」という第一波フェーズ・ワンだけで終わってはいなかったのか。まさか時間差で第二波フェーズ・ツーまで仕掛けられているとは。

 あの女の悪知恵と執念の深さを、俺は根本的に見誤っていたようだ。


「状況を見れば分かる。……お前が、自分からこんなことを考えたとは思えない……いいから、そんな小細工はやめて座れ。さっきも言ったはずだ、お前が笑顔でいればそれでいいと」


 俺は、これ以上の不確定要素を排除しようと、突き放すような言葉を投げた。

 これ以上、彼女に物理的な距離を詰めさせるわけにはいかない。俺自身の「制御」が、すでに限界点に近いことを、俺自身が誰よりも理解しているからだ。

 だが。


「……はい。奈々ちゃんのですけど」


 詩織は俯き、消え入りそうな声で認めた。

 いつもなら、ここで「すみません」と引き下がるはずだ。俺の計算では、そうなるはずだった。


「……でも、やめません」


 詩織がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は潤んでいるが、さっきのようにパニックを起こして震えていたものとは、明らかに違う「熱」を帯びていた。


「……奈々ちゃんに教えてもらいました。でも……」


「……」


「奈々ちゃんに言われたからじゃないです」


 詩織は小さく首を振った。


「私が……湊くんに何かしてあげたいって思ったからです」


 俺の思考回路が、一瞬だけ停止した。


「言われたから実行する」のと、「自分がそうしたいと思い、その方法を尋ねる」のでは、意味がまったく違う。


 これは春奈奈々から与えられた作戦ではない。


 詩織自身が考え、選んだ行動だった。


「……ソファに、横になってください。うつ伏せの方が、体重をかけやすいって……じゃなくて、私がそうしたいんです。……だめ、ですか?」


 上目遣い。

 先ほどのようなマニュアル通りの不自然なものではない。不安と期待が入り混じった、彼女自身の純粋な感情による本物のそれだ。

 俺は、彼女のこの「本気の意思」を正面からへし折ることなど、今の俺には到底できそうになかった。


「……五分だけだ。タイマーをセットする」


 俺は観念して、プリントをテーブルに置き、ソファにうつ伏せになった。

 完全に無防備な状態だ。


 いつもなら、詩織との距離も、触れられる範囲も、自分で制御している。

 だが今は違う。


 自分からソファに横になり、彼女に背中を預けている。

 客観的に見れば、俺自身がこの状況を許可したことになる。


 ……それが何より問題だった。


 直後、背中にふわりとした重みが沈み込んだ。

 詩織がソファの縁に膝を乗せ、俺を見下ろすような体勢になったのだ。


「……いきますよ」


 小さな両手が、俺の肩甲骨のあたりに置かれる。

 指先が背中に触れる。

 ただそれだけのことなのに、俺の脳は異常事態として処理した。


 敵ではない。危険物でもない。

 なのに、なぜか警戒音だけが鳴り止まない。


(おかしい)


(予想外の接触。普段とは異なる距離感。それだけなら、以前にも経験している)


(なのに、なぜ詩織の手が触れただけで、思考が乱れる)


 自分自身の反応が理解できない。

 それが、一番の問題だった。


 グッ、と不器用な体重がかけられる。


「……っ」


 マッサージとしての技術は皆無だ。

 ツボを正確に突くわけでもなく、筋肉の構造を理解しているわけでもない。ただ力任せに俺の背中を押しているだけ。


 だというのに、不思議と「重い」とも「痛い」とも感じなかった。彼女の細い指先から押し込まれてくる物理的な『圧』が、俺の脳内でエラーを起こしたかのように、すべて行き場のない『温度』へと変換されていく。

 それは、熱を帯びた重い鉛を、皮膚の下の血管へ直接注ぎ込まれているような、不可解で甘い錯覚だった。


 近い、という表現ではすでに足りなかった。

 上から体重をかけてくる彼女の体勢は、俺のパーソナルスペースを完全に掌握していた。

 耳元から十数センチの位置に落ちる、かすかな吐息。動くたびに、俺が選んで買ってきたはずのシャンプーの微かな香りが、全く別の扇情的な匂いとなって鼻腔をくすぐる。


 それらの気配が、逃げ道を塞ぐように俺の周囲を満たしていく。

 ただ距離が近いだけだ。そう判断すればいい。

 なのに、俺の身体はその単純な処理を受け付けなかった。


(……これは、新手の拷問か)


 俺はクッションに顔を半分埋め、奥歯を噛み締めた。


(落ち着け)


(これはただのマッサージだ。詩織が肩を押しているだけだ)


 これまで、もっと面倒な問題はいくらでも処理してきた。

 テスト、生活管理、人間関係の調整。

 予測できる問題なら、対処方法はいくらでもある。


 だが――。


 予測不能なのは、詩織ではなく俺自身だった。


 平常心を装おうとすればするほど、心拍数が跳ね上がっていくのが自分でも分かった。

 ドクン、ドクンと、自分の血流の音が耳障りなほど大きく聞こえる。


「んしょっ……あれ?」


 不意に、詩織の手の動きが止まった。

 背中を押していた手が、俺の肩幅を測るように動き、そのまま上腕へと不規則に滑り落ちる。


「……なんだ。力が尽きたなら終わりにしていいぞ」


 なんとか平静な声を絞り出す。

 だが、詩織は俺の言葉など聞いていなかった。


「いえ……。男の子の体つきは、やっぱり違うんですねぇ。こことか、こことか」


 ツンツン、と。

 詩織の細い指先が、俺の肩の三角筋をつつき、さらに肩甲骨のくぼみをなぞるように撫でてくる。


「っ……おい」

「骨が太いというか……筋肉が、すごく硬いというか。私と全然違います。湊くんって、細く見えるのに、ちゃんと男の人なんですね……」


 感心したような、どこか夢見るような声。

 無自覚な好奇心が、指先を通して直接神経を撫で回してくる。


 指先が、まるで羽で撫でるように肩をなぞる。


(……フェザータッチ)


 その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は即座に思考を切り替えた。


(違う。今、その方向に知識検索する必要はない)


(これはただのマッサージだ)


 ……そう処理しようとしたが、なぜか脳内の無駄なデータベースだけが余計な関連情報を提示してくる。


(アダ……いや、違う。忘れろ)


 今は詩織の手が肩に触れている。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 彼女に悪意がないことは分かっている。

 ただの興味本位だ。

 それなのに、触れられるたびにこちらだけが過剰に反応している。


 問題は詩織ではない。

 やはり、問題は俺の方だった。


「……っ、詩織」

「あっ、ここの筋肉もすご――」

「――そこまでだ」


 ガシッ、と。

 俺は反射的に体を反転させながら、俺の背中を這い回ろうとしていた彼女の手首を、空中で掴み取った。


「……えっ?」


 仰向けになった俺の目の前に、目を丸くした詩織の顔がある。

 ソファの上で、俺の上に半分覆い被さるような形になった詩織は、掴まれた自分の手首と、俺の顔を交互に見て、ピタリと動きを止めた。


「……時間だ。五分経った」


 タイマーなど、とうの昔に鳴り忘れている。そもそもセットすらしていなかった。

 俺は掴んだ彼女の手首を離せないまま、荒くなる呼吸を必死に抑え込んでいた。

 逃げ場のないソファの上。


 これ以上触れられ続ければ、俺が俺という理性を維持できなくなる。さっきのように正論で突き放すこともできず、かといって、このまま彼女の熱を受け入れ続けることもできない。


「湊、くん……?」

「……肩は、十分にほぐれた。もういい」


 掠れた声が、静かなリビングに落ちる。

 掴まれた手首の熱と、至近距離で見つめ合う視線。

 拷問を強制終了させたはずなのに、俺たちはさっきよりもさらに、後戻りできない領域へと踏み込んでしまっていた。


 沈黙の中、リビングの加湿器から上がる白い蒸気だけが、揺らぎ続ける二人の境界線を曖昧に溶かしていくように、静かに漂っていた。


 俺は掴んでいた彼女の手首を、まるで火傷でもしたかのようにパッと離し、逃げるようにソファから身を起こした。


「……お茶を淹れる。冷たいやつだ」


 自分でも呆れるほど早口で言い捨てて、背を向けてキッチンへ向かう。

 蛇口から出る水の音が、やけに大きく聞こえた。


「……はいっ」


 背後から聞こえた詩織の声は、少しだけ弾んでいた。

 冷蔵庫を力任せに開け、流れ出る冷気を顔に浴びながら、俺は深く息を吐き出す。

 ――もう、「ただの同居人」という前提条件は、俺の中で完全に破綻しつつある。

 氷の入ったグラスを握りしめても、指先に残る彼女の熱は、いつまでも消えそうになかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。