第48話:不器用な恩返しと、余計な火種
火曜日の昼休み。
四月の陽光が窓から斜めに差し込み、空気の中には照らし出された埃の粒子が白く踊っている。
俺は、自分の席で一人、手作りの弁当を広げていた。
毎日、当たり前のように二人で用意し、並んで食べる。
この光景は、今やクラスにとっても見慣れた日常風景になっていた。
だが、今日は様子が違った。
チャイムが鳴ると同時に、詩織は春奈奈々に手首を掴まれ、「ちょっと大事な相談があるの!」と、なかば強引に連れ去られたのだ。
いつもなら向かいの席にあるはずの控えめな気配が消え、そこには主を失った詩織の弁当箱だけが、ぽつんと取り残されている。
――不吉な予感しかしない。
春奈奈々の「大事な相談」が、まともな結論に着地した例を、俺は知らないからだ。
一口、卵焼きを噛みしめる。いつもと同じ味のはずなのに、喉を通る感覚はどこか味気なかった。
「……何、そんなに不安そうな顔してんだよ」
前の席で弁当を広げていた矢野が、眼鏡の奥の目を細めて言った。
「不安ではない。ただ、想定外のことが起きているだけだ」
「それを世間では不安って呼ぶんだよ、阿久津。……まあ、安心しろ。春奈が詩織ちゃんをいじめるわけないだろ。むしろ、お前にとっての『地獄』が始まる予感がするがな。あいつが入れ知恵するってことは、お前のその鉄壁の面構えをどうやって崩すか、その作戦会議をしてるってことだぞ」
矢野の不吉な予言を鼻で笑い飛ばそうとしたが、喉の奥で食事がつかえた。
昨日、コンビニの寄り道で詩織が漏らした「学校が怖くない」という言葉。それは大きな一歩だったはずだが、その代償として、彼女が外部の余計な「毒気」に触れる機会も増えてしまったということか。
窓の外で騒がしくサッカーに興じる男子生徒たちの声を遠くに聞きながら、俺は、かつてないほどの割り切れない焦燥を感じていた。
*
その頃、校舎裏のベンチでは、詩織にとって人生最大級の「作戦会議」が繰り広げられていた。
「いい、詩織ちゃん。男の子っていうのはね、理屈じゃないの。視覚と、距離と、あとは『ギャップ』! これさえ押さえれば、どんな堅物でもイチコロなんだから」
春奈奈々が、弁当の唐揚げを振り回しながら熱弁を振るう。
「……でも、私なんかが、湊くんにそんなことをしても、迷惑じゃないでしょうか」
詩織は、自分の膝の上でぎゅっと手を握りしめ、消え入りそうな声で答える。
阿久津湊は彼女にとって唯一の救いだ。その関係を壊すことだけは、何よりも怖かった。
「だからこそよ! 阿久津くんの理屈を、詩織ちゃんの可愛さでブチ壊すの。それが、彼に対する最高の『恩返し』になるんだから。彼、最近ちょっと余裕なさそうでしょ? それはね、詩織ちゃんのことを意識しすぎてる証拠なのよ」
「……意識、ですか?」
「そう! ――でも、ひとつだけ注意ね」
春奈奈々は、少しだけ真面目な顔になった。
「湊くんは普通の男子とは違うから、たぶん王道の恋愛テクニックは効かないと思う」
「……そうなんですか?」
「うん。普通なら『可愛い』とか『ドキッとした』で終わるところを、あの人の場合、たぶん頭の中で分析始めるから」
「分析……」
「そう。『なぜ今こういう行動をしたのか』『これはどういう意図なのか』って、たぶん真面目に考える。だから、変に小細工しても裏を読まれるだけなのよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「だからこそよ。変に計算したものじゃなくて、詩織ちゃん自身の気持ちでぶつかるの。あの人が一番困るのは、理屈じゃ説明できないものだから。ほら、メモしなさい。第一段階は『上目遣い』。これは基本中の基本。相手の喉仏あたりを見上げるのがコツね。第二段階は……」
詩織は、真剣な表情で春奈奈々の言葉を一言も漏らさぬよう耳を傾けていた。彼が自分を救い、この場所を与えてくれた。その恩を返すために、自分にできることがあるなら――たとえそれが、今の自分には恥ずかしくて死にそうな「作戦」であっても、遂行しなければならない。
詩織は、震える手で渡されたメモをスカートのポケットに押し込んだ。その紙切れが、まるで爆弾の起爆装置であるかのように感じられて、彼女の心臓は激しく波打っていた。
*
放課後、詩織と合流して帰路につく間も、彼女の様子は明らかに異常だった。
いつもなら、俺の半歩後ろを歩きながら、その日の小テストの結果や、実務的な報告を行うのが彼女のルーチンだ。
だが、今日の詩織は違った。歩きながら何度もチラチラと俺の横顔を盗み見、視線が合うと、慌てて「っ……!」と声を漏らして前を向く。歩幅はバラバラで、時折自分の足に躓きそうになっている。
「……詩織。体調が悪いのか。歩行のリズムが乱れている。体調に異常があるなら報告しろ」
「あ、いえ! 全然、大丈夫です! 絶好調……です!」
絶好調という単語を、彼女はまるで作戦コードのような硬い声で放った。
握りしめられた彼女の手は、制服のスカートのポケットの中で、あの厄介なメモをぎゅっと掴んでいる。俺は、背筋に薄寒いものを感じながら、黙って歩き続けた。
ドアを閉める。
ガチャリ、という金属音が、今日の「外界との接触」の終了を告げた。
だが、安息は訪れなかった。
玄関に立ち尽くしたまま、詩織が何度も深呼吸を繰り返している。リビングに入ってきた彼女の顔は、茹で上がったように赤かった。
「……詩織? 本当に何かあったのか。顔が赤いぞ。こちらへ来い、体温を測る」
リビングから声をかけると、彼女は「ひゃいっ!」と奇妙な声を上げた。
そのまま、ぎこちない足取りでリビングに入ってくる。その動きは、どこか不自然に区切られていた。
「湊くん。あの、その……。お疲れ様、でした」
詩織が、俺の目の前、十センチほどの距離でぴたりと止まる。
近い。
かつての彼女なら、絶対に侵してこなかったはずの、俺のパーソナルスペース。
対等な距離で、真っ直ぐに向けられる彼女の体温。
俺は思わず上体を反らしたが、彼女はそこから、不自然に首を十五度ほど右に傾け、潤んだ瞳を下からじっと向けてきた。
「……。首を痛めたのか? 頸椎の捻挫なら安静だ。湿布を貼ってやるから、そこへ座れ」
「違います! これは……その、可愛く……見えませんか?」
詩織が、耳まで真っ赤にして絞り出すように言った。その仕草の意味を、俺は即座に理解した。春奈奈々の入れ知恵。最も効率が悪く、最も破壊力だけを追求した手法。
「……春奈奈々に何を吹き込まれた」
「えっ」
詩織の肩がわずかに跳ねた。
「その反応で察した。誰かに言われたんだろ」
「……」
「……春奈奈々だな」
「えっ、どうしてバレ……。あ、いえ! 私はただ、湊くんにいつもお世話になっているから……。その、思春期の男の子が……一番喜ぶことを、しようと……。……それに、私も……そうしたいって、思ったんです」
詩織が、震える手で俺のカーディガンの袖を掴んだ。
ただ袖を掴まれただけなのに、なぜか次の一歩を踏み出すことができなかった。
さらに彼女は、重心を詰め、逃げ場を塞ぐように一歩踏み込んできた。
呼吸が、ぶつかる距離だった。
彼女の瞳の中に、動揺している自分の無様な顔が映っている。
風呂場での密着よりも、ずっと息苦しい。
あと数センチ。それだけで、何かが決定的に変わる。
――この距離は、まずい。
理解は一瞬だった。このまま続けば、制御が効かなくなる。境界が曖昧になる。二度と、元の安全な距離には戻せなくなる。
脳内が、一瞬でオーバーヒートを起こした。精緻な思考回路は、至近距離から放たれるその好意の前で、完全に機能を失った。ドクドクと、耳の裏で血液が暴走する音が鳴り止まない。
「……やりすぎだ。これ以上は、制御不能になる。――俺が」
声が、思った以上に掠れていた。
逃げ場がない。自分を止めるための、強引な制動が必要だった。
――トン、と。
俺は、指先を揃えて彼女の額に軽いチョップを落とした。
衝撃を与えるためではない。そうでもして物理的に距離を作らなければ、俺が俺でいられなくなる気がしたからだ。精一杯の、無様なまでの照れ隠しだった。
「……あいたっ」
詩織が、額を押さえる。俺はそのまま視線を逸らした。逸らさないと、まずかった。
「……そんな小細工はいいから、早く手を洗ってこい。飯にするぞ。お前は今、明らかに判断が乱れている」
自分でも分かるくらい、声が固い。逃げるようにキッチンへ向かい、冷蔵庫のドアを力任せに開ける。流れ出る冷気。だが、内側からせり上がってくる熱は一向に引かない。
「痛いです……湊くん」
振り返ると、詩織が軽く赤くなった額を指先で擦りながら、不満げにほっぺたを膨らませていた。
少しだけ潤んだ目が、抗議するようにこちらを睨んでいる。そこに先程までの危うい熱はなく、年相応の無防備な感情だけがあった。
その顔を見て、俺は思わず深い溜息を吐き出し、冷蔵庫のドアを閉めた。
「……俺に何を期待しているんだ、お前と春奈は」
「だって……」
「さっき、俺が一番喜ぶことをしようと、と言ったな?」
「……はい。春奈さんが、男の子は絶対そういうのが嬉しいはずだって……」
しょんぼりと俯きかける詩織に、俺はなるべく平坦な声を作って告げた。事実を、ただ正確に伝えるために。
「データの参照元が間違っている。俺にそんな不自然な小細工は不要だ」
「不要、ですか……?」
「ああ。……お前が毎日、笑顔でいてくれるだけで、俺は嬉しいよ。それ以上のことなんて求めていない」
ピシリ、と。
リビングの空気が静止したかのように、詩織の動きが止まった。
彼女は目を丸くして数秒間俺を見つめ返し――やがて、ボンッという音が聞こえそうな勢いで、顔から首筋までを真っ赤に染め上げた。
「……っ」
「詩織?」
「み、湊くんのバカ……っ」
「は?」
「私を喜ばせて、ど、どうする気ですかぁ〜〜っ!」
詩織は両手で真っ赤な顔を覆うと、そのままリビングのカーペットにへたり込んでしまった。耳の先まで、茹でダコのように赤い。
俺から仕掛けたわけではない。ただ、極めて論理的かつ偽りない事実を述べただけだ。
だが、指の隙間からかすかに見える彼女の顔と、その甘えたような抗議の声を聞いて、俺の心臓は再び、警告音のようにうるさく跳ね始めていた。




