第50話:翌朝の余震
翌朝。
目が覚めた瞬間、昨夜の出来事が勝手に脳内再生された。
ソファの上で背中にかかった、わずかな重み。
肩に触れた指先。
耳元を掠めた吐息。
本来なら、気にするほどのことではない。
そう判断しているのに、なぜか脳裏から消えてくれない。
耳元を掠める至近距離の吐息と、かすかに香るシャンプーの匂い。
そして――どうしようもなく理性が焼き切れそうになって、空中で掴んでしまった、彼女の細い手首のひどく甘い感触。
「……っ」
ベッドの上で跳ね起き、両手で顔を覆う。
やめろ。思い出すな。あれは事故だ。春奈の余計な入れ知恵と、詩織の予想外の行動が重なっただけだ。
……そういうことにしておく。
そうでなければ、今日という一日をまともにやり過ごすことなどできそうになかった。
サイドテーブルの時計を見る。六時二十分。いつも目覚ましをかけている時間より、十五分も早い。
寝付きが悪かったのだから当然だ。布団に入ってから、何度ため息をつき、何度寝返りを打ったか分からない。暗闇の中で目を閉じるたび、指先に残る彼女の体温がシーツに触れる感触と重なって蘇ってくる。それを強引に振り払おうとすればするほど、記憶は鮮明に俺の頭を締め付けた。
最悪だ。
ベッドから這い出て、洗面所に向かう。蛇口をひねり、凍りつくような冷たい水で勢いよく顔を洗った。タオルで乱暴に水気を拭き取り、鏡を見る。
そこに映る自分の顔は、明らかな睡眠不足で目の下に薄く隈ができ、余裕のない酷い表情をしていた。
「……情けない」
誰にともなく呟いて、タオルをハンガーに戻す。
深呼吸を三回。落ち着け。俺はただの高校生だが、彼女にとっては保護者であり、同居人だ。変に意識して日常を壊すような真似は許されない。
リビングに出る。詩織はまだ起きていないようで、部屋は静まり返っていた。
キッチンに立ち、いつも通りトーストを焼く準備をする。
いつも通り。昨日までと何も変わらない朝だ。そう自分に言い聞かせながら、冷蔵庫からバターを取り出した。
だが、手が微かに震えている。
バターナイフを握る指先がどうにもぎこちなく、銀紙を剥がすだけの作業に手間取った。
落ち着け。ただの朝食準備だ。この家で何百回も繰り返してきた、何も考えなくてもできる作業じゃないか。
トースターのスイッチを入れた瞬間、背後でリビングのドアが開く微かな音がした。
「……おはようございます、湊くん」
詩織の声。
俺は振り返らなかった。物理的に、首の筋肉が強張って振り返れなかった。
「……ああ。おはよう」
なんとか絞り出した声は、自分でも分かるくらいわずかに上ずっていた。
「あの……今日のトースト、私が焼きます。湊くん、昨日遅くまで起きてたみたいだから」
「……いや、もう入れた」
「そうですか。じゃあ、お味噌汁作りますね」
「ああ」
会話が、やけにぎこちない。
昨日までなら、もっと自然なやり取りがあったはずだ。
「ネギをもう少し細かく刻め」とか「出汁の分量が違う」とか、俺が適当な文句を言って、詩織が「はいはい、わかってますよ」と少し呆れたように笑う。
そういう当たり前の流れがあったはずなのに。
今は、互いに必要最低限の言葉しか出てこない。
詩織がキッチンに立つ。俺は邪魔にならないようテーブルに皿を並べる。背中合わせの作業。距離は十分に取れている。
なのに、空気が泥のように重い。
背中越しに感じる彼女の気配だけで、昨夜の記憶が引きずり出されそうになる。
トーストが焼けるチン、という音が、静寂のキッチンに異様に大きく響いた。
俺はパンを取り出し、皿に乗せる。詩織がよそってくれた味噌汁を受け取り、二人で向かい合ってテーブルに座る。
「……いただきます」
「いただきます」
同時に箸を取る。
そこからは、完全な沈黙だった。
トーストをかじる。サクリと音はするが、小麦の味もバターの風味もしない。ただのパサパサした固まりを胃に流し込んでいるような感覚だ。
詩織も黙々と食べている。視線は皿の上に固定され、絶対に俺と目を合わせようとしない。不意に彼女の顔を盗み見ると、その目元にも、俺と同じような薄い隈ができていた。
この気まずさは何だ。
昨日までは、朝食の時間は俺たちにとって割と平和な時間だった。多少の緊張感はあっても、こんなに肺の酸素が足りなくなるような息苦しさはなかった。
だが今は、テーブルの中央に見えない分厚い壁があるようだ。
俺が昨夜、彼女の手首を掴んで、そのまま逃げるようにお茶を淹れに立ったあの瞬間から、俺たちの間にあった何かが、確実に変わってしまった。
「……湊くん」
不意に、詩織が小さく口を開いた。
「……なんだ」
「昨日の、あの……マッサージ」
俺の手が、ピタリと止まった。
「……嫌、でしたか?」
恐る恐る顔を上げると、詩織がひどく不安そうにこちらを見ていた。
嫌だったわけじゃない。断じて違う。むしろ、その逆だ。彼女の体温と好意が心地よくて、このまま委ねてしまえば自分がどうにかなってしまいそうだった。
だからこそ、あんなに動揺した。だからこそ、逃げたのだ。
だが、そんな恥ずかしい本音を正直に言えるわけがない。
ならば、なぜ俺はあれほど動揺したのか。
そこが問題だった。
「……いや」
俺は喉の奥にへばりつく言葉を飲み込み、短く答える。
「嫌じゃ、なかった」
「……そうですか」
詩織が、ふうっと安堵の息を吐いて、少しだけ表情を緩めた。
「よかった。……私、湊くんが嫌がってるのに、無理やりやっちゃったのかなって、ずっと気になってて」
「……無理やりじゃない。俺が、許可しただろ」
「はい。……でも、途中で止められたから」
「……あれは」
言葉に詰まる。
あれは、これ以上続けたら俺の理性が吹き飛ぶと思ったからだ。お前の無自覚で純粋な指先の動きに、俺の余裕が完全に剥がれ落ちる前に、強引に終わらせるしかなかったんだ。
だが、そんなことを言えば、ただの保護者ぶった同居人のメッキが剥がれる。
「……あれ以上は、身体に良くないと判断したからだ」
「身体に、ですか?」
「ああ。お前の圧のかけ方は不慣れで、筋肉に余計な負担がかかる。長時間続けると血流が急激に変わりすぎて、かえって筋肉が硬直して逆効果になる。……だから、あそこで切った。それだけだ」
滑稽なほどの言い訳だ。自分でも呆れるくらい、中身のない理屈の羅列。
だが、これ以外に昨夜の情けない逃亡を正当化する手段は思いつかなかった。
詩織は少し首を傾げたが、それ以上追及してこなかった。
「……そうですか。じゃあ、今度はもっと上手なやり方をちゃんと調べてから……また、やってもいいですか?」
カチャリ、と。
俺の右手が滑り、持ち上げようとしたコーヒーのマグカップがソーサーに鋭い音を立ててぶつかった。黒い液体が数滴こぼれる。
「っ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「……平気だ」
俺は慌てて布巾を取り、こぼれたコーヒーを拭き取る。心臓が早鐘のように鳴っていた。これ以上あんな接触をされれば、俺は本当に自分を保てなくなる。
「……今度は、いい」
「えー。でも、湊くん、絶対肩凝ってます。昨日触ったとき、すごく硬かったですもん」
触った、という単語が、昨夜の感触を生々しく蘇らせる。
俺は思わず視線をそらし、テーブルの木目を睨んだ。
「……朝から変な話をするな」
「変じゃないです。大事な健康管理です」
詩織が、少しだけ口角を上げて笑った。
その笑い声で、テーブルの上の張り詰めた空気がわずかに緩んだ気がした。
ぎこちなさは残っているが、呼吸を忘れるような息苦しさは少し薄れた。俺たちは、足元に大きな爆弾を抱えていることを見て見ぬふりしながら、朝の時間を終えた。
*
学校。
昼休み。
俺は教室の自分の席で、一人弁当を開いていた。
今日は詩織が作ったおかずが入っている。少し形が崩れた卵焼きと、ほうれん草のお浸し。昨夜から今朝にかけての動揺が、如実に彼女の調理にも表れていた。
箸を取ろうとした瞬間、背後から無遠慮な声がかかった。
「よう、阿久津」
振り返ると、クラスメイトの男子が二人、ニヤニヤと意地悪な笑いを浮かべて立っていた。
「……なんだ。食事中だ」
「いやー、なんか最近さ、お前と冬馬、いい感じじゃね?」
冬馬。詩織の苗字だ。
「……何の話だ」
「とぼけんなよ。朝とか一緒に来てるだろ。しかも昨日、結構近い距離で歩いてたぞ」
「……たまたま同じ方向だっただけだ」
「へー。でも冬馬、お前のこと見る目がさ、なんか違うんだよな。完全に恋する乙女の顔っていうか」
「……気のせいだ」
「マジで? 俺には付き合ってるようにしか見えないけど」
付き合ってる。
その俗物的でストレートな言葉が、胃の奥をひどく不快に刺激する。
「……勘違いだ。俺とあいつは、ただのクラスメイトだ」
「そっかー。じゃあ、俺が冬馬に告白してもいいわけ?」
その瞬間、メキッ、と。
俺の右手の中で、プラスチックの箸が限界を超えてしなる嫌な音が鳴った。自分でも驚くほどの力が指先にこもっていた。
「……」
「おー、怖っ。目つきヤバいだろ。やっぱ気になってんじゃん」
「……好きにしろ」
奥歯を噛み砕きそうなほど力を込めながら、吐き捨てるように言って、俺は弁当に視線を戻した。
男子二人は「冗談だよ」と笑いながら去っていった。
俺は一人、崩れた卵焼きを睨みつけたまま、しばらく動けなかった。
ただのクラスメイト。
そう言い切った自分の言葉が、全くの嘘だと分かっている。
昨夜、ソファの上で掴んだ彼女の手首の熱が、まだ指先にべっとりと残っている。ただのクラスメイトの手首を、あんなに切実な思いで掴む人間がどこにいるというのか。
*
放課後。
詩織と並んで帰る道。
いつもの道。いつもの夕暮れ。
だが、距離が、あきらかにおかしい。
昨日まで、詩織は俺の斜め後ろ、半歩下がった位置を歩くのが当たり前だった。だが今日は、完全に肩を並べている。
歩くたびに彼女の腕が揺れ、制服の袖越しに、互いの手の甲が触れそうになる。あと数ミリ。その極小の隙間が、静電気のようにヒリヒリとした妙な緊張感を生み出している。
彼女もまた、俺の顔をチラチラと見ては、目が合いそうになると慌てて前を向くという不自然な行動を繰り返していた。
「……湊くん」
不意に、詩織の声でぐるぐると回っていた思考が中断された。
「……なんだ」
「今日、夕飯何がいいですか?」
「……何でもいい。冷蔵庫にあるもので適当に」
「何でもいいって言われると……困ります」
少しだけ口を尖らせて、詩織が言う。
昨日までなら無かった反応だ。俺が適当に答えても、彼女はいつも「分かりました」と静かに頷くだけだったのに。
「……じゃあ、昨日の残りの鶏肉があるはずだ。照り焼きでいい」
「はい。じゃあそうしますね」
会話が途切れる。
また、手が触れそうになる。
朝の食卓のような凍りつくようなぎこちなさはない。だが、その代わりに、薄氷の上を歩くような、甘くて危険な空気が二人の間に漂っている。
「……あの」
自宅が見えてきた頃、詩織が少し躊躇うように口を開いた。
「……湊くん、最近、疲れてませんか?」
「……なんでそう思う」
「なんとなく。……顔色が、少し悪いというか。目の下に、私と同じクマができてます」
「……気のせいだ。寝不足なだけだ」
「そうですか。……でも、無理しないでくださいね」
そう言って、詩織は歩きながら、ほんの少しだけ俺の方へ身を寄せた。
俺を純粋に心配する優しい声。その温度に、頑なになっていた胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ああ」
家に着く。
鍵を開けて、中に入る。
詩織がカバンを置き、エプロンをつけてキッチンに立つ。
俺はソファに座り、バッグから教科書を取り出した。
昨日と同じ光景。俺たちが積み上げてきた、完璧な日常。
だが、昨日とは違う空気が流れている。
シャンプーの香り。エプロンの紐を背中で結ぶ衣擦れの音。冷蔵庫の扉を開ける動作。
それら全てが、強制的に俺の意識を彼女へと引き寄せ、俺の思考を支配していく。
昨夜、俺は彼女の手首を掴んだ。
至近距離で、見つめ合った。
あの瞬間から、何かが決定的に変わってしまったのだ。
「ただの同居人」という前提は、もう完全に機能していない。
だが、じゃあ今の俺たちは何なのか。
その答えに名前をつけることが、俺にはまだ、恐ろしくてできない。
「湊くん、お茶入れました」
「……ああ」
詩織が温かいお茶の入ったマグカップを持ってきて、俺の横に座った。
昨日より、少しだけ近い距離。手を伸ばせば、すぐに触れてしまう距離。
「……湊くん」
「なんだ」
「今日も、一日お疲れ様でした」
そう言って、詩織が小さく、花が咲くように笑った。




